第44話:醜悪な檻
翌朝も、嫌がらせは続いた。
俺が目を覚まし、いつものように窓から天気を確認しようとした時だった。玄関の方から、シルヴィアの押し殺した声が聞こえてきた。
「カナメ様、少しよろしいですか」
その声には、昨日と同じ怒りが滲んでいた。俺は急いで階下に降りた。
玄関の前に、それは置かれていた。
小さな木製の檻だ。犬や猫を入れるための、粗末な作り。
錆びた金具が朝日を受けて鈍く光っている。木の隙間からは、腐敗した何かの臭いが漂ってきていた。
檻の中には、腐りかけの肉が放り込まれていた。蠅がたかり、甘ったるい腐臭が漂っている。肉の表面には白い蛆が這い回り、見ているだけで吐き気を催す。
そして、檻の上にはまたしても、封筒が添えてあった。
昨夜小包と一緒に送られてきた手紙と同じ――トゥランドールの、グラディウス家の家紋が、封蝋に刻印されていた。
「また手紙、ですか……」
シルヴィアが封筒を手に取り、開封しようとしたが、俺が制止した。
「待て、シルヴィア。それは開けるな」
「どうかされましたか?」
「昨日送られてきた手紙にあった家紋と同じだ。それはトゥランドールが出してきたもので間違いない。だが、開封してしまうと封蝋が砕け、証拠として弱くなってしまう。何かしらの細工をして中身だけ入れ替えた、と言われるかもしれない」
俺はシルヴィアから封筒を受け取った。
「昨夜の家紋付きの便箋と、この《《未開封の封蝋付きの封筒》》があれば、間違いなく堅牢な証拠になる」
「なるほど……」
「それにどうせ、碌なことは書かれていない。然るべき時に、証拠として突きつけよう」
俺は檻を見つめた。腐った肉から立ち上る臭気が、鼻腔を刺す。蠅の羽音が、やけに大きく聞こえる。
前世でも、こういう手合いはいた。自分より弱い立場の人間を見つけては、執拗に苛め抜く連中。
彼らにとって、他人の苦痛は娯楽でしかない。そして、そういう連中は決まって、自分より強い存在には媚びへつらう。
「パパー?ママー?」
背後から、ルナの声が聞こえた。
俺とシルヴィアは同時に振り返った。ルナが階段の上から顔を覗かせている。まだ寝間着姿で、目を擦りながら。金色の髪が寝癖で跳ねていた。
「どうしたのー?」
俺たちが慌てて隠そうとした時には、もう遅かった。ルナが階段を駆け下りてきて、玄関に立つ俺たちの横をすり抜けようとした。
「なんか変な匂いが——」
ルナの言葉が、途中で止まった。
彼女の視線が、錆びた金具。腐った肉。たかる蠅、――そして、檻へと移った。
ルナの顔から、血の気が引いていった。
「……あ」
小さな声が漏れた。狼の耳が、ぺたんと倒れる。尻尾の蛇も、怯えたように丸まった。
「ルナ」
俺が声をかける前に、シルヴィアが動いた。素早くルナの前に膝をつき、その小さな体を抱きしめる。銀色の髪が、金色の髪を包み込むように広がった。
「見なくていいのですよ、ルナ。何も見なくていいの」
「檻……?」
ルナの声が震えていた。
「怖い……実験、いやだ……。注射……打たないで…………」
その言葉に、俺の胸が締め付けられた。
檻を見たせいで実験体としての記憶がフラッシュバックしたのだろう。いや、檻単体でフラッシュバックしたわけではないだろう。この腐肉と腐臭と檻が、実験体としての記憶を思い出させたのだ。
ルナが顔を上げた。その碧い瞳に、涙が滲んでいる。朝日を受けて、涙の粒がきらきらと光っていた。だが、その光は、あまりにも悲しかった。
「パパ……ママ……」
「大丈夫だよ、ルナ」
俺はルナの傍に屈み込み、その頭を撫でた。柔らかな金色の髪。温かな体温。この子を傷つける奴は、絶対に許さない。
「ルナは俺たちの娘だ。大切な家族だ。実験体じゃないんだよ。それは、誰が何と言おうと変わらない」
「でも…………ルナ……怖くて……」
「ルナのことはパパとママが守りますよ。せっちゃんや、ミラおねえちゃんもついていますからね」
シルヴィアがルナに優しく声をかけた。
ルナの耳が、ぴくりと動く。
俺はルナの頭を撫でた。
「だから、泣くな。お前は俺たちの自慢の娘だ。実験体なんかじゃない」
ルナが、俺の胸に顔を埋めた。小さな体が震えている。声を殺して、必死に泣くのを堪えているのが分かった。
シルヴィアが、俺たちを包み込むように抱きしめた。
「大丈夫ですわ、ルナ。パパとママが、居るんですから」
「……うん」
ルナが小さく頷いた。
俺は檻を見た。腐った肉。蠅の羽音。吐き気を催す臭気。
許さない。ルナを泣かせた報いは、必ず受けさせる。
◇
檻を処分し、玄関を清掃した後、俺は書斎でザガンからの報告書を読んでいた。
トゥランドールと初めて会った日——「隣人」として挨拶を交わしたあの日、俺は既にザガンに調査を依頼していた。あの男の目を見た瞬間、直感的に危険を感じたが、これまでのヤツの行動を見て、それは間違いではなかったと確信した。
報告書には、いくつかの興味深い情報が記されていた。
――『グラディウス家は、三代前までは由緒正しい騎士の家系。しかし、先代当主が賭博で財産を失い、没落。現当主のトゥランドールは、その没落貴族の末裔である』
――『トゥランドールは「勇者の末裔」を自称しているが、その根拠となるグラディウス家の家系図には不審な点がいくつかある。偽造の証拠が見つかる可能性があるが継続調査が必要』
――『トゥランドールは一度の昇格審査で、Dランク冒険者から、Aランクへと異例の昇格をした。通常、そのような飛び級は余程の功績がないとあり得ないが、トゥランドールには功績らしい功績も見当たらない』
成る程、まともな貴族ではないことは確かだ。
隣の屋敷が見える。あの男は今頃、俺たちの反応を想像しながら笑っているのだろう。
笑っていられるのも、今のうちだ。
◇
夕方、ミラが応接間にやってきた。
彼女の手には、分析結果をまとめた羊皮紙が握られている。目の下には隈ができていた。徹夜で作業を続けていたのだろう。
「カナメさん、中間報告があります」
「ありがとう。聞かせてくれ」
ミラが羊皮紙を広げた。細かな文字がびっしりと書き込まれている。
「あの赤黒い液体……完全な分析にはまだ時間がかかりますが、いくつかのことが分かりました」
「何が分かった?」
「まず、この液体には魔物の血液が含まれています。それも、複数の種類の魔物の血液が混合されています」
「複数の魔物?」
「はい。少なくとも三種類以上。そして、それらの血液に何らかの魔術的処理が施されています。これは高度な錬金術の技法です」
ミラの表情が、真剣なものになった。
「この液体は、魔物に作用する成分を含んでいます。正確な効果はまだ分かりませんが……おそらく、魔物の行動や精神状態に影響を与えるものだと思われます」
「魔物の行動に影響を与える薬、か……」
マルバスは魔王軍第四技術開発局の局長だった。キメラの製造に関わっていた男だ。そんな奴が作った、魔物に作用する薬。嫌な予感がする。少なくともまともな薬ではないことは間違いない。
「引き続き分析を頼む。急がなくていいが、これは嫌な予感がする」
「分かりました。必ず、正体を突き止めます」
ミラが頷き、部屋を出ていった。
◇
その夜、ルナはなかなか眠れなかったようだ。
俺とシルヴィアの寝室に、小さな足音が近づいてきた。
「パパ……ママ……」
ルナが、ドアの隙間から顔を覗かせていた。
「一緒に寝ても、いい?」
シルヴィアが微笑み、ベッドの端を捲った。
「もちろんですわ。おいでなさい、ルナ」
ルナが、嬉しそうに駆け寄ってきた。俺とシルヴィアの間に潜り込み、小さな体を丸める。
「えへへ……あったかい」
「寒かったのか?」
「ううん。でも、パパとママと一緒だと、もっとあったかい」
ルナが、俺の腕に頬を寄せた。小さな手が、俺の服を握りしめている。
「パパ」
「なんだ?」
「ルナ、ちゃんとパパとママの子供だよね?」
「当たり前だ」
「ずっと、一緒にいられるよね?」
「ああ。ずっと一緒だ」
ルナが、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった……。でもルナ、そわそわしてねむれないよ」
するとシルヴィアが、ベッドサイドのテーブルから絵本を取り出した。
「眠れないのなら、絵本を読んであげましょうか。私が子供の頃から好きなお話ですの」
『眠り姫』という物語だった。確かに、《《眠れないルナ》》を寝付かせるにはぴったりだ。シルヴィアの穏やかな声に耳を傾けているうちに、ルナの瞼は徐々に重くなり、やがて静かな寝息を立て始めた。
安心しきった、穏やかな寝顔。長い睫毛が、頬に影を落としている。
シルヴィアが、俺に囁いた。
「カナメ様。あの男、許せませんわ」
「ああ」
「私がカナメ様がいなければとっくにあの男を殺していますわ。でも、それもいつまでも我慢できるか、分かりません」
シルヴィアの声には、押し殺した怒りが滲んでいた。
「分かっている。だから、できるだけ早く決着をつける」
「……お願いします。この子のためにも」
そう言ってシルヴィアはルナの頭を優しく撫でた。
俺はルナの寝顔を見つめながら、改めて誓った。
この子を、絶対に守る。この笑顔を、誰にも奪わせない。




