第43話:汚辱
異臭で目が覚めた。
腐敗した肉と、生ゴミの混じった、吐き気を催すような臭い。寝室にまで漂ってくるほど強烈だ。
「何だ、この臭いは……」
俺は慌ててベッドから起き上がった。隣で眠っていたシルヴィアも、眉をひそめながら目を開ける。
「カナメ様、これは……」
「分からん。見てくる」
俺は窓を開け、庭を見下ろした。
そして、言葉を失った。
庭一面に、ゴミが撒き散らされていた。
生ゴミ。腐った野菜。魚の骨。そして、動物の死骸。猫か、犬か。原型を留めないほど腐敗した死骸が、いくつも転がっている。
花壇は踏み荒らされ、シルヴィアが丹精込めて育てていた花々は無残に引き抜かれていた。
「……っ」
俺の隣で、シルヴィアが息を呑んだ。
「誰が、こんな……」
その時、隣の屋敷から笑い声が聞こえた。
「おや、おはよう。随分と賑やかな庭だな」
トゥランドール・ヴァン・グラディウス。
奴はバルコニーに立ち、俺たちの庭を見下ろしていた。その顔には、隠しきれない嘲笑が浮かんでいる。わざわざ俺たちが起きるのを待っていたのだろう。
「成金くんはゴミを庭に飾るのが趣味なのかな?」
シルヴィアの足元の影が、ぞわりと蠢いた。怒りだ。普段は冷静沈着な彼女が、明らかに感情を乱している。
「シルヴィア」
「……分かっておりますわ」
シルヴィアが、震える声で言った。
「ここで怒りに任せて動けば、相手の思う壺。それは、分かっております」
だが、その目には冷たい炎が宿っていた。神話級の捕食者としての、本能的な殺意。
「まあ、困ったことがあれば言ってくれ。隣人として、できる限りの『援助』はしてやろう」
トゥランドールはケラケラと笑い声を上げながら、屋敷の中へ消えていった。
「カナメ様」
シルヴィアの声が、低く響いた。
敵意を剝き出しにした冷たい目をしていた。
「被害状況を詳細に記録しろ。ミラにも手伝わせる。いつ、何が行われたか、全て文書にまとめておこう。片付ける前に、騎士団にも状況を報告するぞ」
「……かしこまりました」
その声には怒りが込められていた。
「奴を潰す時、一気に叩く。俺たちに喧嘩を売ったことを後悔させてやる」
シルヴィアが頷いた。
「ああ。それと、ルナには見せるな。あの子が傷つく」
「心得ております」
シルヴィアは冷静さを取り戻し、ミラを呼びに行った。だが、その背中からは、押し殺した怒りが滲み出ていた。
俺は改めて、被害状況を確認した。
酷いものだった。
花壇だけではない。庭の隅に置いていた園芸道具も散乱し、ベンチには汚物が塗りつけられていた。計画的な嫌がらせだ。一人でできる仕事ではない。おそらく、複数の人間を雇ったのだろう。
塀を調べると、いくつかの場所に侵入した痕跡があった。足跡も残っている。
小走りでやってきたミラが顔をしかめた。
「これは……許せませんね」
ミラはてきぱきと騎士団へ連絡し、状況についてメモを取り始めた。彼女は黙々と作業を進めながら、時折眉をひそめていた。
「パパー?」
背後から、ルナの声が聞こえた。
振り返ると、ルナが屋敷の中から顔を出していた。まだ寝ぼけた顔をしている。
「おはよー。……パパ、なんで庭にいるの?」
「……ちょっと、掃除だ」
「ルナも手伝う?」
「いや、いい。お前はシルヴィアと朝ご飯を食べてろ」
「はーい」
ルナは素直に引っ込んだ。どうやら、庭の惨状には気づいていないらしい。
いつか必ず、この借りは返す。
◇
昼過ぎ、俺は市場に買い出しに行った。
普段はシルヴィアかルナと一緒に行くのだが、今日は一人だ。シルヴィアは庭の復旧で忙しく、ルナには外出を控えさせている。
馴染みの八百屋に向かい、店主に声をかけた。
「おやじ、調子はどうだ?いつもの野菜を頼む」
だが、店主の反応がおかしかった。
目を逸らし、口ごもっている。
「……すまねえ、旦那。今日は売り切れだ」
「売り切れ? まだ昼だぞ。棚には山盛りあるじゃないか」
「だから……その……」
店主は俺と目を合わせようとしなかった。顔には、はっきりと恐怖が浮かんでいる。
嫌な予感がした。
隣の肉屋に行った。同じ反応だった。「売り切れ」。魚屋も、パン屋も、同じだった。
最後に、顔見知りの雑貨屋に入った。店主の老婆は、俺を見て露骨に顔をしかめた。
「……悪いね、あんたには売れないんだよ」
「理由を聞かせてくれ」
老婆は周囲を見回し、声を潜めた。
「ギルドからお達しがあったんだ。『あの屋敷の連中には物を売るな』って」
「ギルド?」
「ゴズ支部長の名前で、だよ。あんた、知らないのかい?この街の商売は、ギルドなしには成り立たないんだ」
老婆の説明によると、こういうことらしい。
冒険者が狩った魔物の素材——肉、毛皮、骨、魔石。それらは全て、ギルドを通じて商人に卸される。ギルドが仲介することで品質が保証され、適正価格での取引が行われる。
逆に言えば、ギルドに嫌われた商人は、魔物素材を仕入れられなくなる。
魔物素材は、この世界では必需品だ。魔石は照明や暖房に使われ、毛皮は防寒具に、骨は道具や装飾品に加工される。それらを扱えない店は、客足が遠のく。
「ゴズ支部長に睨まれたら、この街じゃ商売できなくなるのさ。悪いけど、あたしらも生活がかかってるんだ」
「……そういうことか」
俺は考え込んだ。
ゴズとトゥランドールが、俺をザラダスから追い出そうとしているのは明白だった。
トゥランドールは恐らくシルヴィアを狙っている。ゴズは闇オークションを潰された怨み、と言ったところか。
トゥランドールは、ゴズと昵懇と言っていた。嫌がらせのタイミング的にも、結託して俺を追い出そうとしているのか。
厄介だ。だが、二人がかりで来るというなら、二人まとめて叩き潰すだけだ。
「すまねえな、旦那。俺たちだって本当は……」
八百屋の店主が、後ろから追いかけてきて、申し訳なさそうに呟いた。
「分かってる。お前たちを恨んだりしない」
俺は踵を返した。
怒りはある。だが、ここで暴れても意味がない。商人たちも、被害者だ。悪いのは、裏で糸を引いている連中だ。
俺は外部からの商人が多い南区まで行き、買い物を済ませて屋敷に戻った。
◇
その日の夜、さらなる「贈り物」が届いた。
玄関に置かれていた小包。
中身を確認したシルヴィアの顔が、一瞬で引き攣った。
「カナメ様、これを」
シルヴィアが小包を差し出した。中には、下品なデザインの下着が入っていた。女性用の、明らかに娼婦が着るような代物。
そして、封筒に入った一通の手紙。
『麗しのシルヴィア嬢へ。
先日の挨拶では、十分にお話ができず残念だった。
君のような美しい花が、あのような粗野な男の傍にいるのは実に惜しい。
私の愛人としての地位を与えてやろう。
君にはそれが相応しい。
返事を待っている。
トゥランドール・ヴァン・グラディウス』
手紙を読み終えた俺は、怒りでどうにかなってしまいそうだ。
「……カナメ様」
シルヴィアの声が、どこか心配そうだった。俺の怒りを察したのだろう。
「大丈夫だ」
俺は深呼吸をした。
「このような下劣な物を、我が家に置いておく気にはなれんな」
俺は暖炉の前に立ち、下着を火の中に投げ込もうとしたが、思いとどまった。
「どうかされましたか?カナメ様」
シルヴィアが振り返った。「なぜ燃やさないのか」と訴えている顔だった。
「これは物的証拠として取っておこう。トゥランドールに関しては、アイツはただの間抜けだ。これを見てみろ」
俺はトゥランドールからの手紙をシルヴィアへ差し出した。
その便箋には、ヤツの家紋が刻印されていた。
そして、自身の家系に誇りを持っている自惚れた間抜けの手書きのサイン。
シルヴィアの目が、すっと細くなった。
「まあ、素敵ですわ」
シルヴィアが妖艶に微笑んだ。
「あの間抜けな貴族を地獄の底まで叩き落してやる」
俺はシルヴィアの肩を抱いた。
「シルヴィア。俺は、お前を誰にも渡さない」
「……ええ。存じております」
シルヴィアが、俺の胸に顔を埋めた。
「私は、カナメ様だけのものですわ。あのような下衆に、指一本触れさせはしません」
俺たちは、しばらくそのまま抱き合っていた。
窓の外では、月が静かに夜空を照らしている。平和な夜に見えるが、俺たちの周りには確実に敵意が渦巻いていた。
だが、トゥランドールの蛮行は、これで終わりではなかった。
――むしろ、これは始まりに過ぎなかった。




