第41話:始祖の夢
階段を下りるにつれ、空気が変わっていった。
冷たい。骨の髄まで染み込むような、深い冷気。
だが、それだけではない。魔力の密度が、これまでとは桁違いに濃い。呼吸をするたびに、肺の中に濃密な魔力が流れ込んでくる。隣を歩くルナが震えながら俺の手を握っていた。
そして、不思議なことに――魔力の消耗が止まっていた。
「ここから先は……防御機構の範囲外のようですね」
ミラが安堵の息を吐いた。
「恐らく、この階層は『正規の利用者』のための場所。だから、魔力を吸収する必要がないのでしょう」
シルヴィアも、魔力の消耗が止まったようだ。影は相変わらず薄くなったままではあるが、これ以上は削られていない。
「中々濃密な香りがしますわね」
シルヴィアがうっとりとした声で呟いた。
階段を下り終えると、巨大な空間が広がっていた。
天井は見えないほど高く、壁は滑らかな黒曜石で覆われている。青白い苔の光が、広間全体をぼんやりと照らしていた。
そして、その中央に。
「あれは……」
ミラが息を呑んだ。
巨大な結晶があった。
高さは十メートルを超え、青白い光を放っている。その光は脈動していた。まるで、心臓の鼓動のように。
だが、結晶の内部には、何かが封じられていた痕跡があった。焼けたような人型の跡。輪郭だけが残り、中身は空っぽ。
「『抜け殻』、でしょうか」
ミラが震える声で言った。
『わらわと同じく【始祖】くらいはありそうじゃな』
刹那がミラの言葉に補足するかのように言った。
『ふん。だが、生きてはおらぬ。残り香のようなものじゃ。本体は、とうに消滅しておるようじゃのう』
「本体は消滅しているのに、残留魔力だけでも……とんでもない量です」
ミラが結晶を見上げた。その目には、学者としての畏怖と興奮が混じっていた。
「この結晶一つで、国一つ分の魔力需要を賄えるかもしれません」
俺は結晶に近づいた。近づくほどに、体が震える。恐怖ではない。これは、本能的な畏怖だ。
かつてここにいた存在。
その残した魔力だけで、これほどの存在感を放っている。生きていた頃は、どれほどの力を持っていたのか。
「シルヴィア」
「はい」
「これを、食えるか?」
シルヴィアは妖艶な笑みを浮かべた。
「《《もちろん》》、ですわ」
◇
シルヴィアが結晶にそっと手を触れた。
その瞬間、彼女の背後で影が爆発的に膨れ上がった。無数の黒い触手となって、青白い結晶を包囲する。
「……っ、あぁ……」
触手が結晶の表面に突き立てられた瞬間、シルヴィアの口から微かな吐息が漏れた。
そして――彼女の目が、虚ろになった。
「シルヴィア?」
俺が声をかけたが、返事がない。
彼女は結晶に手を触れたまま、まるで魂を抜かれたように立ち尽くしている。
「シルヴィア!」
俺は駆け寄ろうとした。だが、その瞬間。
◇
――暗い。
シルヴィアは、闇の中にいた。
ここは、どこ?
体が、動かない。声も、出ない。
まるで、あの頃のよう。
封印されていた、あの数百年のよう。
『……さみしい』
声が聞こえた。
女の声。若い。だが、どこか疲れ切っている。
『さみしいよぉ……』
シルヴィアは「見た」。
闇の中に、一人の女がうずくまっていた。長い髪。痩せ細った体。顔は見えない。だが、その姿は――自分と、重なった。
『誰か……来て……』
女が、泣いている。
誰にも理解されず、恐れられた存在。
仲間もいない。家族もいない。愛する者もいない。
ただ一人、暗闇の中で朽ちていく。
シルヴィアはようやく理解した。これは、結晶に封じ込められた《《始祖の記憶》》。
『誰も……来てくれない……』
肉体の飢えではない。
「繋がり」への飢え。「愛」への飢え。
それに耐えきれず、この存在は消滅したのだ。
シルヴィアの胸が、締め付けられた。
――私と、同じ。
そして、シルヴィアの記憶が蘇る。
高い塔。誰もいない部屋。
『お前なんか生まれなければよかった』
母の声。
あの日の、母の顔。
涙を流しながら、自分を指差す母。
侮蔑と、恐怖と、嫌悪に歪んだ顔。
「……っ!」
シルヴィアの意識が、激しく揺さぶられた。
『お前なんか――』
「違う……!」
『生まれなければ――』
「私は……私は……!」
闇が、シルヴィアを呑み込もうとしていた。
かつての記憶が、彼女の心を押し潰そうとしていた。
その時。
「シルヴィア!」
声が聞こえた。
暖かい声。
自分の名前を呼ぶ、たった一人の声。
「シルヴィア、聞こえるか!?」
カナメの声だ。
「戻ってこい! 俺はここにいる!」
闇が、裂けた。
光が差し込んでくる。
温かい。眩しい。
「シルヴィア!」
◇
シルヴィアが、目を開けた。
視界がぼやけている。涙だ。いつの間にか、泣いていた。
「……カナメ、様……」
「大丈夫か!? 何があった!?」
カナメが、シルヴィアの肩を掴んでいた。
その顔には、深い心配が刻まれている。
シルヴィアは、自分の頬を拭った。涙が、指を濡らす。
「……いいえ。何でもありませんわ」
嘘だった。何でもないはずがない。
だが、今は話せない。話したくない。
シルヴィアは、カナメの手を強く握った。
「ただ……あの方は、ずっと一人だったのですね」
結晶を見上げた。青白い光は、まだ脈動している。だが、もう「意識」は感じられなかった。
「誰にも触れられず、誰にも愛されず、ここで朽ちていった」
言葉が詰まる。
「私は……あの方のようにはなりませんわ」
シルヴィアが、カナメの目を見つめた。
その紫の瞳には、強い光が宿っていた。
「だって私には、カナメ様がいますもの」
「……ああ」
カナメが、シルヴィアの手を握り返した。
「俺がいる。ずっと、傍にいる」
シルヴィアは、微笑んだ。
涙の跡が残る頬で、それでも、笑った。
◇
シルヴィアの影が、結晶を完全に呑み込んでいた。
巨大だった結晶は、今は拳大ほどに縮んでいる。その最後の一欠片を、影が飲み込んだ時――シルヴィアの体が、内側から発光するように輝いた。
「……ふぅ」
シルヴィアが、恍惚とした表情を浮かべた。
その唇は熟れた果実のように赤く湿り、銀髪は月の光を吸い込んだかのような艶を放っている。
「美味しい……。これほどまでに澄んだ味は、本当に久しぶりですわ」
彼女の足元では、以前とは比較にならないほど密度を増した「闇」が、ゆらゆらと蠢いていた。
「これで、しばらくは飢える心配がありませんわ。ルナにも、刹那にも、分けてあげられます」
シルヴィアの影から、青白い光の球が浮かび上がった。
「ルナ、おいで」
「うん!」
ルナが駆け寄り、光の球を受け取った。
口の中で溶けるように消えていく。
「あまい! すっごくあまい!」
ルナが幸せそうに頬を押さえた。狼の耳がぴんと立ち、尻尾がぶんぶんと揺れている。
「刹那も、どうぞ」
「忝い」
刹那が半実体化し、光の球を受け取った。
それを口に放り込み、目を見開いた。
『……おお……これは、これは……!』
刹那の声が震えていた。
『このような上等な魔力を喰らったのは、本当に久方振りじゃ……! 小僧の薄い魔力とは比べ物にならん……!例えるなら、小僧の魔力はゲロ!!これは神の酒と言っても過言ではない!!』
「お前なぁ……」
俺が呆れた声を出すと、刹那はカッカッと笑った。
『じょ、冗談じゃ、冗談。……半分は本気だがのぅ。いや、もう少し本気かも知れぬ。うむ、八割くらいは本気じゃな』
ミラがクスクスと笑っていた。
「皆さん、本当に仲が良いんですね」
全員が、満たされていた。
俺は、シルヴィアを見た。
彼女は穏やかに微笑んでいる。だが、その目の奥に、まだ何かが残っているのが見えた。
結晶の中で、彼女は何を見たのか。
今は聞かない。彼女が話したい時に、話してくれればいい。
俺は、シルヴィアの手を取った。
「帰ろう。家に」
「……はい、カナメ様」
シルヴィアが、俺の手を握り返した。その手は、少しだけ震えていた。
俺たちは、来た道を引き返した。
帰り道には、魔物が一匹も現れなかった。番人の配慮だろうか。それとも、シルヴィアの存在感が増したことで、逃げ出したのか。
地下水道を抜け、地上に出ると、空は夕焼けに染まっていた。
オレンジ色の光が、街並みを照らしている。
「いい狩りだったな」
「ええ、カナメ様」
シルヴィアが俺の腕に自分の腕を絡めた。
「素敵な『デート』でしたわ」
「デートって……迷宮探索が、か?」
「私にとっては、カナメ様と過ごす時間は全てデートですわ」
シルヴィアが幸せそうに微笑んだ。
ルナが俺の手を握り、刹那は俺の腰で満足そうに揺れている。ミラも、疲れた顔ながらどこか充実した表情を浮かべていた。
――だが、俺の肩には、まだ鈍い痛みが残っていた。
番人との戦いで負った傷。シルヴィアが塞いでくれたが、完全には治っていない。無茶をすれば、また開くだろう。
それでも、俺は後悔していなかった。
家族を守るためなら、何度でも同じことをする。
俺は、空を見上げた。
夕陽が沈み、星が瞬き始めている。
ふと、迷宮内で見たシルヴィアの怯えた顔を思い出した。
彼女が泣くほどの、何か。
彼女は一体、何を見たのだろう。
――この時の俺は、まだ、シルヴィアのことを何も知らなかった。




