第40話:贄の問い
第二層と第三層の境目に、広間があった。
円形の空間。壁には古代の壁画が描かれている。獣と人が共に踊る姿、狩りの場面、宴の場面。千年以上前の人々の生活が、そこに刻まれていた。
だが、カナメたちの視線は壁画には向いていなかった。
――広間の中央に、何かがいた。
人型だが、人間ではない。
全身が灰色の石で出来た、巨大な像。高さは三メートルを超える。顔には目も鼻も口もない。ただ、滑らかな表面があるだけ。
だが、それがただの石像ではないことは誰もが一瞬で理解した。
石像は見ていた。カナメたちを、観察していた。
石像の手には、巨大な石剣が握られていた。
「番人、ですね」
ミラが震える声で言った。
「古代の遺跡には、試練を与える守護者が配置されていることがあります。彼らは侵入者の資質を見極め、相応しくない者を排除する……」
『小僧、あれは中々の代物じゃ』
刹那が警戒する。
『今のわらわの魔力では、あれを斬れるかどうか分からぬ。下手に手を出すでない』
刹那のただならぬ雰囲気を察したカナメが頷く。
今のカナメたちは存分に力を発揮出来る状態ではなかった。何も起こらないのであればそれに越したことはない。
その時、頭の中に声が響いた。
『――お前たちは、何を求める』
低く、重い声。感情の読めない、無機質な響き。声の主は、番人だった。
全てを見透かしていそうな真に迫る声。
「家族を守る力だ」
カナメは正直に答えた。
「家族の腹を満たし、飢えから守りたい。俺の家族は特殊でな。普通の食事では満たされない」
番人は微動だにしなかった。数秒の沈黙。
やがて、再び声が響いた。
『正直な答えだ。ならば、代償を払え』
番人の手が、ゆっくりと上がった。
『お前たちの中で、最も弱き者を、ここに残せ。それが通過の条件だ』
空気が、凍りついた。
誰も、動かない。誰も、声を出さない。
これがこの番人の試練なのか、それとも、本当に生贄の要求をしているのか、全員が窺っていた。
一分が、一秒が永遠のように感じられた。
ここに居た全員が、『答え』を必死に考えていたのだ。
沈黙を破り、最初に口を開いたのは、ルナだった。
「……ルナが残る」
小さな声だった。
「ルナ、一番小さいから。一番、役に立たないから」
シルヴィアが息を呑んだ。
「ルナ……!」
「だから、パパとママは先に行って。ルナは、大丈夫だから」
ルナの碧い目に、涙が滲んでいた。
だが、笑顔を作っている。精一杯の、強がりの笑顔。
ルナは優しい子だった。他の家族のために自身を犠牲にすることさえ厭わない。しかし、この言葉は、ただルナの優しい性格から来るだけのものではないことをカナメは察した。
ルナの体が異常なまでに震えていたのだ。
まるで、トラウマを思い出したかのように。
実際、ルナは思い出していた。「いらない子」として捨てられた痛みを。実験体109番として、ゴミのように扱われた日々を。
だからこそ、自分から「残る」と言える。
《《捨てられる前に》》、自分から離れる。
そうすれば、傷つかなくて済むから。
そうすれば、愛された記憶だけ残り、家族のために犠牲になったと思えるから。捨てられたわけじゃないから。
手に入れた幸せを手放してもいい。カナメたちから捨てられてしまう絶望に比べたら。
カナメはそんなルナの心情を察して、悲しみで顔を歪ませていた。
「ルナ、お前は残らなくていい」
ルナが涙を拭きながらカナメを見つめる。
「俺が残る」
そして、ルナの目が、大きく見開かれた。
「パパ……!」
「お前たちは先に行け。俺なら何とかなる」
嘘だ。何とかなる保証など、どこにもない。
だが、カナメは、この子をまた「捨てられる側」にさせるくらいなら自分はどうなってもいいとすら思っていた。
「させませんわ」
シルヴィアの声が、響いた。
「カナメ様。私が残ります」
シルヴィアが、カナメの前に出た。だが、その背中は、震えていた。
「私は……長く生きすぎました。数百年も。もう十分ですわ」
シルヴィアは慣れない嘘を吐いた。シルヴィアの声は、震えていた。
彼女は、孤独を知っている。暗闇の中で、誰の声も聞こえない場所で、数百年を過ごした女。
やっと見つけた光を、家族を、幸せを、手放したくはない。
それでも彼女は、「私が残る」と言った。家族を守るために。
『カッカッ!……馬鹿を言うでない』
刹那の声が、カナメの腰から響いた。
『わらわが残る。お主たちは先に行け』
刹那が、半実体化する。赤と黒の和服。姫カットの黒髪。だが、その顔には、いつもの不敵な笑みはなかった。
『わらわは、元より刀に封印された身じゃ……。この黴臭い場所に残るのも、棚に仕舞われるのとそう変わらん』
刹那もまた、孤独を知っている。
処刑道具として、マフィアに使われ続けた日々。
道具ではなく一つの命として扱うカナメたちのことを、戸惑いつつも、嬉しく思っていた。そんな彼女が、また道具のように振る舞う。ただ使われ、捨てられるだけの、道具のように。
「……いえ、皆さん、間違っています。私が、残ります」
最後に声を上げたのは、ミラだった。
「私は……力はありません。『最も弱き者』という意味で、一番相応しいのは私です」
ミラは石像に歩み寄りながら続けた。
「だから、私が残るのが、一番合理的です。これがもし試練であれば、正解を選ばなくてはいけません。私という『弱き者』がいる以上、皆さんが残ったら『最も弱き者』ではないとされる可能性があります。そうなったら、何が起こるかわかりません」
ミラは、恐怖で顔が真っ青になっていた。
彼女もまた、居場所を失った女だった。
師匠を亡くし、研究所を追われ、路頭に迷っていた。
やっと見つけた居場所を、失いたくない。
それでも彼女は、「私が残る」と言った。皆を、自分を受け入れてくれた恩人を、自分を必要としてくれている家族を……守るために。
◇
五人が、互いを庇おうとしている。
誰も、引かない。
番人の声が、響いた。
『……ならば、私が選ぶ』
番人の指が、ゆっくりと上がった。
その指先が、一人を指した。
ルナだった。
『この者を置いていけ。最も小さく、最も力がない』
ルナの体が、強張った。
だが、彼女は逃げなかった。
「……うん。ルナが残る」
「させませんわ……!」
シルヴィアがルナを抱きしめた。その目から、涙が溢れている。
「絶対に、させませんわ……!」
影が、シルヴィアの足元で蠢いた。
だが、番人の力が、それを押さえ込む。見えない圧力が、シルヴィアの影を地面に縫い止めていた。
『抵抗は無意味だ。今の貴様らの魔力で私に勝てる者はこの場にいない』
俺は、刹那を抜いた。
「試してみるか?」
番人の視線が、俺に向いた。
顔のない顔が、俺を見ている。
『愚かな。お前では、私に傷一つつけられない』
「やってみなければ分からない」
俺は、構えた。
刹那が、俺の手の中で震えている。
『小僧……無茶を言うでない……! 今のわらわでは、あれを斬れるかどうか……!』
「分かっている。だが、ルナを渡すわけにはいかない」
俺は、踏み込んだ。
◇
速い。
番人の石剣が、俺の視界を埋め尽くした。
横薙ぎの一撃。躱しきれない。
刹那で受け止めた。
衝撃が腕を痺れさせる。膝が軋む。
重い。信じられないほど重い。
『小僧、押し返せ!』
刹那の声に従い、力を込めた。
だが、押し負ける。じりじりと、後退させられる。
番人の二撃目が来た。
今度は縦斬り。
横に跳んで躱した。石剣が地面を叩き、衝撃波が広間を揺らす。
俺は体勢を立て直し、斬りかかった。
刹那の刃が、番人の胴を捉える。
――硬い。
金属同士がぶつかる甲高い音。だが、傷一つついていない。
『言ったはずだ。お前では、私に傷一つつけられない』
番人の拳が、俺の腹に叩き込まれた。
「がっ……!」
体が吹き飛ぶ。壁に叩きつけられ、肺から空気が押し出された。
視界が明滅する。
「カナメ様!」
シルヴィアの悲鳴が聞こえる。
「パパッ!」
ルナの声も。
だが、俺は立ち上がった。
口の中に、鉄の味が広がる。血だ。
『なぜ立ち向かう。勝てないと分かっているだろう』
「……分かっている」
俺は、刹那を構え直した。
「だが、諦めない」
『なぜだ』
俺は、番人を見据えた。
「俺は……前世で、『お前の代わりはいくらでもいる』と言われて死んだ」
オフィスの青白い蛍光灯。冷めたコーヒーの匂い。
あの日の記憶が、脳裏を過ぎる。
「時間を奪われ、尊厳を奪われ、そして最後には命も奪われた」
俺は、一歩踏み出した。
「だから俺は、これ以上、何も俺から奪わせやしない」
もう一歩。
「誰が相手だろうと俺からは何も奪わせない」
俺は、再び斬りかかった。
番人の剣が振り下ろされる。
回避は間に合いそうにもない、強烈なカウンター。
それでも、俺は止まらなかった。
鈍い痛みが走る。
そして、肩が熱を帯びてゆく。
石剣が、俺の肩を裂いたのだ。
深い。骨に達している。
燃えるような激痛が、体を貫く。
「ぐ……っ!」
膝が崩れ、その振動とともに血が床に広がった。
視界が霞んでハッキリとしない。
「カナメ様ァァァッ!」
シルヴィアの絶叫が聞こえた。
だが、俺は刹那を手放さなかった。
震える腕で、刀を支える。
「……まだ、だ」
俺は立ち上がろうとした。
しかし、足が言うことを聞かない。
それでも、俺は諦めなかった。
『……もういい』
番人の声が、響いた。
石剣が、俺の首の寸前で止まっていた。
『お前の答えを、聞いた』
番人が、剣を下ろした。
『この試練の本質は、「弱い者を切り捨てる者」を排除することだ』
俺は、血を吐きながら番人を見上げた。
「……最初から、……通す気だったのか?」
『いや。お前が、「弱い者を切り捨てる者」であれば殺していた』
番人が、ゆっくりと横に退いた。
『私もかつて、仲間がいた』
その声に、初めて「感情」が混じった。
『だが、彼らは私を見捨てた。「お前は弱いから」と。「お前は足手まといだから」と』
番人の体から、微かな光が漏れた。
『最後の記憶は、飢餓で染まっていた。いつ死んだのかすら覚えていないのだ。自分の名前すらも、自分がどんな人間だったかも覚えていないのだ。
そして、気付いたころには、私は、この場所の番人となっていた。唯一あった記憶は、仲間たちに見捨てられた記憶。そして、「弱い者を切り捨てる者」を、二度と通さないという命令が俺の頭を支配していた』
俺は、番人を見つめた。
「……お前も、飢えていたのか」
『ああ。だが、空腹ではない。私は飢えていたのだ、繋がりに。絆に。……家族に』
長い沈黙が落ちた。
『お前たちは、私が欲しかった物を持っている。通れ』
番人が、階段への道を開けた。
シルヴィアが駆け寄ってきた。
その手が、俺の傷に触れる。
影が傷口を覆い、血が止まっていく。だが、骨と肉が断たれた感覚は残っていて、熱を帯びている。
「カナメ様……カナメ様……!」
シルヴィアが、泣いていた。
「無茶をしないでくださいまし……! 私は、貴方を失いたくないのです……!」
「……すまない」
俺は、シルヴィアの頬に手を伸ばした。
「だが、俺はお前たちを奪わせないと決めた。それだけは、譲れない」
表面の傷だけは塞がった。だが、完全ではない。
動けば、また開くだろう。
『覚えておけ』
番人の声が、背中に響いた。
『この先にいるのは、私よりも遥かに強い「飢え」だ』
俺たちは、最深部への階段を下り始めた。




