第39話:飢餓の迷宮
探索当日。
俺たちは、人目を避けるようにして地下水道への入り口に向かっていた。
シルヴィアが俺の隣を歩き、ルナが俺の手を握っている。ミラは少し後ろで、羊皮紙の地図を何度も確認していた。腰には刹那。
地下水道の入り口は、街の外れにある廃墟の中にあった。
崩れかけた石壁。蔦に覆われた窓枠。かつては誰かの家だったのだろうが、今は朽ち果てて久しい。
床に隠された鉄の蓋を開けると、地下水道の臭気が鼻の奥を刺した。
腐敗と、澱んだ水の匂い。
俺たちは松明の灯りを頼りに、湿った石畳の上を進んでいた。足元では汚水が流れ、壁には苔がびっしりと生えている。天井から滴る水滴が、不規則なリズムを刻んでいた。
「この先です」
ミラが羊皮紙の地図を確認しながら言った。彼女の足取りは覚束ないが、目だけは爛々と輝いている。学者としての好奇心が、恐怖を上回っているのだろう。
「パパ、ここくさい」
ルナが鼻を押さえながら顔をしかめた。狼の耳がぺたんと垂れている。人間の何倍も鋭い嗅覚を持つ彼女には、この臭気は拷問に近いはずだ。
「もう少しの辛抱だ」
俺はルナの頭を撫でた。
やがて、水路の行き止まりに辿り着いた。
だが、そこにあるのはただの壁だった。苔むした石壁が、行く手を塞いでいる。
「……ここ、ですね」
ミラが地図と壁を見比べながら呟いた。
「壁しかないようだがここで合っているのか?」
「ええ、合っています。少々お待ちください」
ミラが壁に近づき、苔を払った。石の表面に、微かな紋様が刻まれている。
そこには古代の文字が刻まれていた。
「この地図には、入口を開くための詠唱も記されていました。古代エルダ語ですが、そうですね……例えるなら方言のようなものですね。これの解読に時間が掛かってしまいました」
ミラが羊皮紙を広げ、刻まれた文字を読み上げ始めた。
『ヴェリラル・ザ・ランザーシャ・ゾレノグ・ラバンダム』
古代語が、地下水道に響き渡った。
一瞬の静寂。
そして、壁が変わり始めた。
石の表面に亀裂が走り、紋様が青白く発光する。苔が剥がれ落ち、その下から古代の扉が姿を現した。重厚な石扉。表面には複雑な装飾と、さらなる古代文字が刻まれている。
「これが……入り口ですね」
ミラが息を呑んだ。
「古代エルダ語を解読できる者でなければ、この扉の存在すら認識できない。だから長い間、誰にも見つからなかった」
彼女が扉に刻まれた文字を指でなぞる。
「『飢餓の者よ、ここで満たされよ』。これは警告ではありません。招待状ですね」
「招待状、か」
俺は石扉に手を触れた。冷たい。だが、奥から微かな魔力の気配を感じる。何かがいる。何かが、俺たちを待っている。
「行くぞ」
力を込めて押すと、石扉は重々しい音を立てて開いた。
◇
扉の向こうに足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
地下水道の悪臭が消え、代わりに乾いた土と古い石の匂いがする。天井は高く、壁には青白い苔が自生していた。その苔が淡い光を放ち、松明がなくとも周囲が見渡せる。
だが、それ以上に異様だったのは――体の奥で、何かが吸われていく感覚だった。
「……っ」
シルヴィアが、小さく息を呑んだ。
「カナメ様」
「ああ。俺も感じている」
魔力が、削られていく。
ゆっくりと、だが確実に。まるで見えない蛭に血を吸われているかのような、不快な感覚。
「これは……文献には記載がありませんでした」
ミラが顔を青くして言った。
「恐らく、防御機構の一種かと。千年の間に暴走して、侵入者から魔力を吸収するようになったのかもしれません」
『厄介じゃな』
腰の刹那が、低い声で言った。
『このまま長居すれば、わらわたちは干からびてしまうぞ』
俺はシルヴィアの足元を見た。
彼女の影が、明らかに薄くなっている。入り口に入る前と比べて、はっきりと分かるほどに。
「シルヴィア、大丈夫か」
「……ええ。まだ、大丈夫ですわ」
だが、その声には僅かな震えがあった。
急がなければ。
この迷宮は、俺たちの味方ではない。
俺たちは慎重に歩を進めた。通路は広く、四人が横に並んでも余裕がある。壁には所々に古代文字が刻まれており、ミラがそれを熱心に読み解いている。
「この辺りはDランク相当の魔物が生息しているはずですが……」
ミラの言葉が途切れた。
通路の壁際に、何かが転がっていた。
人骨だ。しかし、水晶のように透明に透けて輝いていた。それは一見すると宝石細工のように見えた。
その水晶の人骨が、崩れ落ちるようにして壁に寄りかかっていた。衣服は朽ち果て、傍らには錆びついた杖が転がっている。
「……この骨、ここの魔力に侵されて結晶化していますね。魔力の度合いから見て、千年は経っていますね」
ミラが、震える声で言った。
「装備品から推測すると、古代の魔術師でしょうか。恐らく……この迷宮に挑んで、戻れなかった……」
足を踏み入れた者が外に出られず、語る者が存在しない。
『未踏の遺跡』とはよく言ったものだ。
骨の傍には、石壁に刻まれた文字があった。
古代文字だ。爪で引っ掻いたような、荒い筆跡。
ミラがそれを読み解く。
「『飢えに……負けた……私はまだ……』」
途中で文字が途切れている。
刻んでいる途中で、力尽きたのだろう。
ルナが、俺の手を強く握った。その小さな手が、震えている。
「パパ……」
「大丈夫だ。俺たちは、ああはならない」
俺はルナの頭を撫でた。だが、心の中では焦りが募っていた。
シルヴィアの影が、さらに薄くなっている。
時間がない。
「急ごう」
俺たちは、迷宮の奥へと足を速めた。
◇
第一層を進むにつれ、魔物との遭遇が増えた。
最初に現れたのは、スケルトン・ウォリアーの群れだった。朽ちた鎧を纏い、空洞の眼窩に青白い炎を灯した骸骨たち。数は十体ほど。
「来るぞ」
俺は刹那を抜き放った。漆黒の刀身が、鈍く輝く。
先頭のスケルトンが剣を振りかぶった。遅い。動きが見える。俺は半歩踏み込み、その剣を弾き返した。そのまま返す刀で首の骨を断つ。
骸骨が崩れ落ちる。だが、すぐに次が来た。
二体目、三体目。俺は剣を振るい続けた。
『小僧、手首が死んでおる』
刹那が語りかけてきた。
『もっと柔らかく握れ。刀は腕の延長じゃ。力で振り回すものではない』
言われた通りに、握りを緩めた。
刹那の技術の断片が、魔力を通して流れ込んでくる。正しい構え。足の運び。剣を振り下ろす時の重心移動。
残りのスケルトンを、一気に斬り伏せた。
だが、休む暇はなかった。
巨大な蜘蛛、毒を吐く蛇。次々と魔物が現れる。どれもDランク相当。俺たちの敵ではなかった。
問題は、シルヴィアの影がどんどん薄くなっていくことだ。
「シルヴィア……」
「大丈夫ですわ、カナメ様。まだ……まだ、動けます」
だが、その声には力がない。
彼女の足取りが、明らかに重くなっている。
その時、前方の闇から巨大な気配が近づいてきた。
「パパ、何かいる。大きいの」
ルナの警告と同時に、黒い影が飛び出してきた。
巨大な豹だった。全身が闇色の毛皮に覆われ、黄金の瞳が俺を射抜いている。体長は三メートルを超える。
「シャドウ・パンサー……! Bランクの上位種です!」
ミラが悲鳴に近い声を上げた。
巨大な豹は獲物をどう殺すか、窺っているように見えた。殺気も魔力も、濃厚なものを感じた。そして、跳躍し、鋭い爪が俺の喉を狙う。
速い。だが、見える。
俺は身を引いて躱し、すれ違いざまに刹那を振るった。
シャドウ・パンサーの脇腹を浅く斬る。
しかし、ヤツは即座に反転した。傷など意に介さない。
再び跳躍し、壁を、地面を、何度も蹴り、凄まじい速度で今度は俺の死角を狙ってくる。
『上からじゃ、小僧!』
刹那の声に従い、身を低くした。鋭利な爪が頭上を通過する。
そのまま、俺は地面を蹴った。腹の下に潜り込み、刀を突き上げる。
刃がシャドウ・パンサーの胸を貫いた。
断末魔の咆哮。巨体が崩れ落ちる。
「……仕留めた」
息を整えながら、俺はシルヴィアを見た。
彼女の紫色の瞳が、シャドウ・パンサーの死骸を見つめている。瞳の奥に、飢えた光が宿っていた。
「シルヴィア、食え」
「ですが、ルナが……」
「お前が先だ。お前が倒れたら、俺たちは戦力を大きく失う」
シルヴィアは一瞬躊躇したが、やがて小さく頷いた。
「……かしこまりましたわ」
シルヴィアの足元から、影が蠢き始める。飢えている。彼女自身も、彼女の影も。
影が死骸を包み込み、ゆっくりと呑み込んでいく。数十秒後、そこには何も残っていなかった。
「……少し、楽になりましたわ」
シルヴィアの影が、わずかに濃くなった。だが、まだ足りない。
「先に進もう。もっと強い魔物がいるはずだ」
俺たちは、さらに奥へと歩を進めた。
――この先に、何が待っているのか。
俺はまだ、知らなかった。




