第38話:不穏な隣人
今朝、朝食の席で、ミラから『飢餓の迷宮』の詳細な位置を特定したと報告があった。
俺もシルヴィアも、ルナも、刹那も、皆が喜んだ。
時間が惜しい俺たちは、早速翌日に『飢餓の迷宮』へ行くことになった。
朝食を終えた後、シルヴィアが俺の袖を引いた。
「カナメ様。少しだけお時間をいただけますか?」
「どうした」
「二人きりで、お話ししたいのです」
シルヴィアの目には、いつもの妖艶さとは違う、どこか不安げな光が宿っていた。
俺は頷いた。
ルナに「パパとママ、少しお出かけしてくるから」と告げると、「いってらっしゃーい!」と元気よく手を振ってくれた。
刹那が早速ボールを手に持って、ルナの遊び相手をする準備をしていた。
◇
俺たちは、屋敷の近くにある小さな公園に来ていた。
木々が鬱蒼と茂り、木漏れ日が石畳に斑模様を描いている。朝の空気は澄んでいて、小鳥の囀りが心地よく響いていた。
ベンチに並んで座ると、シルヴィアが俺の腕に縋りついた。
公園の木々が、朝風に揺れていた。
葉擦れの音が、まるで囁き声のように響く。
シルヴィアは、しばらく何も言わなかった。
ただ、俺の腕に頬を寄せて、目を閉じている。
その横顔を見ていると、彼女がどれほど「普通」に飢えているのかが分かる。
こうして誰かと並んで座る。朝の光を浴びる。風の匂いを嗅ぐ。
俺たちにとっては当たり前のことが、彼女にとっては、数百年焦がれた、当たり前の光景ではなかったのだ。
「カナメ様」
「何だ」
「……怖いのです」
シルヴィアの声が、微かに震えていた。
「怖い?お前が?」
神話級の捕食者。月蝕の神喰らい。この世界で最も強大な存在の一つである彼女が、「怖い」と言っている。
「ええ。怖いのですわ」
シルヴィアが、俺の腕を強く握った。
「私はいつも怯えております。カナメ様に、何かあったら……。カナメ様が居なくなったらと思うと、私は……」
「俺なら大丈夫だ。それに、『最強の剣』でもあり、『最強の盾』でもある、お前がいるだろう?」
「それでも、です」
シルヴィアが顔を上げた。紫の瞳が、潤んでいる。
「私は数百年、闇の中にいました。一人で、誰の声も聞こえない場所で。あの孤独を、もう一度味わうくらいなら——」
その先は、言葉にならなかった。
俺は、シルヴィアの肩を抱いた。
「シルヴィア。俺を見ろ」
「……はい」
「お前を一人にはしない。約束する」
シルヴィアの目から、涙が一筋零れた。
「本当ですか?」
「ああ。俺は嘘をつかない。お前も知っているだろう」
「……はい」
シルヴィアが、俺の胸に顔を埋めた。
その体が、小さく震えている。神話級の捕食者も、こうして見れば一人の女だ。孤独を恐れ、愛する者を失うことを恐れる、普通の女。
俺はシルヴィアの髪を撫でた。絹のように滑らかな銀髪が、指の間を流れていく。
「お前を守るために生きる。だからそう泣くな」
「カナメ様……」
シルヴィアが顔を上げ、俺を見つめた。
その目には、涙と、そして深い愛情が宿っていた。
「キス、いただいてもよろしいでしょうか」
シルヴィアは、うるうると紫水晶のような瞳を輝かせながら、甘い声で要求した。
魅力的で愛おしい表情をしていた。
「仕方がないな」
俺たちは、静かに唇を重ねた。
木漏れ日が、二人を優しく包んでいた。
◇
屋敷に戻る道すがら、俺たちは隣の屋敷の前を通りかかった。
大きな門、手入れの行き届いた庭、瀟洒な外観。だが、どこか傲慢な雰囲気が漂っている。
その時、門が開いた。
「おや」
出てきたのは、一人の男だった。
男の後ろには、二人の従者が控えていた。
いずれも武装しており、主人を守る姿勢を見せている。
だが、従者たちの目が、一瞬だけシルヴィアに向けられた。
「……お美しい」
従者の一人が、思わずといった様子で呟いた。
その瞬間、茶髪の男の目が鋭くなった。
「ぐはっ!?」
男は振り返りざまに従者の顔を殴り飛ばした。
従者が地面に転がり、馬乗りになって何発も殴る。
従者が苦悶の声を上げる。
「俺より先に見るな、下郎が」
男の声は、氷のように冷たかった。
「お前たちは俺の目として動けばいい。俺より先に、俺の獲物を見定める権利などない」
従者たちが、怯えた顔で頭を下げる。
男は満足げに鼻を鳴らし、俺たちに向き直った。
その一連の動作を見て、俺は確信した。
こいつは、ただの傲慢な男ではない。
部下を道具としか見ていない。そして、欲しいものは何でも手に入ると思っている。
危険な男だ。
茶髪茶眼。髭を生やした顎。年の頃は三十代半ば、か。仕立ての良い服を着て、腰には装飾過多な剣を帯びている。
だが、その目つきが気に入らなかった。傲岸で、尊大で、他者を見下すような光。
「最近、成金が住み着いたと聞いたが……お前たちか」
男が、俺たちを舐めるように見た。
特に、シルヴィアの体を。
「美しいですな」
その視線に、不快なものが混じっていた。品定めするような、所有欲を剥き出しにしたような目。
「……」
シルヴィアが、俺の腕を強く握った。その手が、微かに震えている。怒りか、それとも嫌悪か。
「私はトゥランドール・ヴァン・グラディウス。勇者の末裔にして、Aランク冒険者だ」
男が、芝居がかった仕草で名乗った。
「お前たちは?名乗るのが礼儀だろう」
「カナメだ。そしてシルヴィアだ。隣に住んでいる」
「シルヴィア嬢か……。ククク、覚えておこう」
男は不気味に笑った。
「しかし、カナメという名は聞いたことがないな。どこの馬の骨だ?それに、獣人のガキともう何人か、女がいなかったか?私に挨拶はないのかな?」
俺は、男の目を真っ直ぐに見返した。
「他の家族は家にいる。挨拶が遅れたのは悪かったな。またいずれ機会があれば改めて挨拶させてもらうさ」
男の目が、一瞬細まった。だが、すぐに嘲笑を浮かべた。
「ふん。成金の分際で、生意気な口を利く」
男は、シルヴィアをもう一度見た。
「もったいないな。私の屋敷に来れば、もっと相応しい扱いをしてやれるのだが」
シルヴィアの手が、さらに強く俺の腕を握った。
「結構ですわ」
シルヴィアの声は、氷のように冷たかった。
「申し訳ありませんが、私はカナメ様の以外の男になど、興味はありませんわ」
男の目が、一瞬歪んだ。だが、すぐに笑みを取り繕った。
「そうか。残念だな」
男は踵を返し、屋敷の中へ戻ろうとしたが、
振り返って俺たちに言った。
「ああ、そうそう。この街で何か困ったことがあれば、遠慮なく言ってくれ。冒険者組合のゴズ支部長とは昵懇でね。大抵のことは融通が利く」
それは親切ではなく、威圧だった。
『自分にはバックがいるぞ』という牽制だ。
その背中を見送りながら、俺は嫌な予感を覚えていた。
「カナメ様」
「ああ」
「あの方、嫌な目をしていましたわね」
「そうだな。気をつけた方がよさそうだ」
俺たちは、足早に自分たちの屋敷へ向かった。
あの男は、いずれ問題を起こす。直感的に、そう確信した。
屋敷に戻るなり、通信用の魔道具を使って、ザガンに連絡を取った。
「トゥランドール・ヴァン・グラディウスという男を調べて欲しい。隣の屋敷に住んでいる勇者の末裔を名乗っていた男だ」
『何かございましたか?』
「嫌な予感がする。念のためだ」
『かしこまりました。早急に調査いたします』
それ以上は聞いてこない。
この男は、最低限の言葉だけで察してくれる。
「用心深いですわね、カナメ様」
シルヴィアが、俺の傍に寄り添った。
「備えあれば、だ。何もなければそれでいい」
だが、俺の直感が外れたことは、この世界に来てから一度もなかった。
窓から外を眺めた。
やけに静かな風景だった。




