第34話:路地裏の天才
東区の路地裏は、薄暗く、饐えた臭いが漂っていた。
石畳の隙間から雑草が生え、壁には苔がこびりついている。日の光がほとんど届かない、街の影の部分。表通りの賑わいが嘘のような、寂れた空間だった。
どこかで野良猫が鳴いている。ゴミが散乱し、腐った野菜の匂いが鼻を突く。こんな場所で人が暮らしているとは、にわかには信じがたい。
「この辺りでございます」
ザガンが、周囲を見回しながら言った。
「情報屋の話では、昨晩もこの辺りで目撃されたとのことでした」
「ここで野宿しているのか?」
「おそらくは。追い出されてから、行く当てがないのでしょう。私はこちらの方を探しますので、カナメ様はあちらの方をお願いします」
「分かった」
ザガンと二手に分かれて探すことになった俺は、道なりにしばらく歩いていた。
すると、路地の奥に何かが動いたような気配を感じた。
積み上げられた木箱の陰に、ぼろ布のようなものが見える。近づいていくと、それが人間だと分かった。
「あそこか」
薄汚れたローブを纏った女が、木箱に寄りかかるようにして座り込んでいる。茶色の髪はぼさぼさで、顔と眼鏡は土埃で汚れていた。目の下には濃い隈。頬はこけ、唇は乾いてひび割れている。
生きているのかどうかも分からないほど、衰弱していた。
俺は女の前にしゃがみ込み、声をかけた。
「聞こえるか?」
「……」
反応がない。だが、微かに胸が上下している。まだ息はあるようだ。
「お前がミラか?」
その名前を口にした瞬間、女の瞼がぴくりと動いた。ゆっくりと目が開き、焦点の合わない瞳が俺を捉えた。
「あなた……だれ」
掠れた声だった。喉が乾ききっているのだろう。
「カナメだ。お前に頼みたいことがある」
「……たのみ」
「ああ。だが、その前に——」
俺は懐から水筒を取り出し、女の唇に当てた。女は最初、何をされているのか分からないようだったが、水が口に流れ込むと、本能的に喉を動かして飲み始めた。
「ゆっくりでいい」
女は、水筒を両手で掴んだ。その手は骨と皮だけのように細く、小刻みに震えていた。
水を飲み終えると、女の目に少しだけ光が戻った。
エメラルドの瞳がゆらゆらと揺れている。
「……後ろにいるのは……、ザガン会長?」
いつの間にか、俺の後ろにザガンが立っていた。
「お久し振りです、先生」
ザガンが帽子を取り、頭を下げた。
女が、微かに笑った。唇の端が僅かに上がっただけだったが、その目には知性の残滓と、尽きることのない好奇心の光が宿っていた。
「私に、何の用ですか?……まさか、この惨状を見学しに来たわけではないでしょう」
「古代語を読める鑑定士を探している。それも、表面をなぞるだけではない、理論の根底を理解している本物をな」
女の目が、少しだけ鋭くなった。
そして、女の纏う空気が変わった。先ほどまでの衰弱した死人のような空気が霧散し、そこに「専門家」としての矜持が顔を覗かせる。
「……なるほど。それで私を探していたのですね」
「ということは、お前なら古代語を読めるんだな?」
「……ええ」
ミラが、ゆっくりと頷いた。
「ミラ・レーヴェンス。元王立考古魔術研究所の主任研究員。今は……見ての通り、路上生活者ですが」
俺の頭に疑問符が浮いていたのを察し、ザガンが俺に耳打ちした。
「——王立考古魔術研究所。古代遺跡や失われた魔術を研究する国家直轄の最高機関ですな。その主任研究員ともなれば、その実力は言うに及びません」
成る程。研究者としては立派な肩書のようだ。
「……その主任殿が、なぜこんな場所で野垂れ死にそうになっている?」
「家賃の払い方が分からなくて……滞納してしまったのです」
「その前だ。王立の研究所にいたのだろう?」
「……研究所を、追放されたのです」
ミラが、自嘲するように笑った。
「研究所の『方針』が変わったのです……」
ミラは、冷え切った自らの手を眺めながら言葉を継ぐ。
「王立考古魔術研究所の本来の使命は、古代の叡智を解明し、後世に継承することでした。でも今のあそこは、遺跡から『使えそうな遺物』を回収して軍に納品するだけの発掘請負機関に成り下がっています」
「……遺物の回収?」
「ええ。古代の武器、防具、魔道具。それらを発掘し、起動方法を解析し、量産する。『なぜそれが作られたのか』『どのような原理で動いているのか』などという問いには、誰も興味を持ちません。動けばいい、使えればいい。それだけです」
ミラの声には、静かな怒りが滲んでいた。
「師匠の研究は違いました。古代魔術の『根本原理』を解明しようとしていた。なぜ古代人はあれほどの魔術を行使できたのか。魔力はどのように循環し、どのように形を成すのか。その答えが分かれば、現代の魔術体系を根底から覆すことができる……はずでした」
この手の話は元の世界でもよくあった。
「だが、成果を出すまでに時間がかかる……ということか」
「ええ。十年、二十年……あるいはそれ以上」
ミラは、乾いた唇を舐めた。
「師匠が亡くなった後、私がその研究を引き継ごうとしたら、新しい所長にこう言われたのです。『ミラ君。我々が必要としているのは、明日の戦場で使える武器だ。二十年後に革命が起きるかもしれない基礎理論に、一銅貨たりとも投じる余裕はない』……と」
「成る程な、切り捨てられたというわけか」
「ええ。彼らが欲しいのは『今すぐ使える成果』であって、その先にある『可能性』ではない。……短気な軍部と、目先の予算を削りたい役人たちにとって、私は『投資効率の悪い負債』だった。それだけの話です。誰も師匠の深遠な研究を理解しようとはしていませんでした」
「師匠というのは?」
「私を育ててくれた方です」
ミラの声が、僅かに柔らかくなった。
「十二歳の時に学院を出て、そのまま師匠の元に身を寄せました。古代魔術理論と魔力循環の研究をしていた方で……私に研究者としての全てを教えてくれました。私が研究所に所属してからはあまり会えなくなりましたが、家族同然の方でした」
「通常は十八歳で卒業する学院を十二歳で卒業ですか……。六年の飛び級とは、『天才』という言葉では足りぬかもしれませぬな」
ザガンが感心したように頷く。
「師匠は数ヵ月前に亡くなりました。師匠は私とは別の研究所にいました。でも、師匠の研究はまだ途中だった。だから私が引き継ごうとしたのですが……」
「お前のところの研究所が認めなかった」
「ええ。『基礎理論より、実用化を優先しろ』と。……でも私には、それができなかった」
ミラの目が、遠くを見つめた。
「師匠の研究は、遺物の『使い方』ではなく『原理』を解き明かすものでした。今の王立考古魔術研究所が求めているのは、古代の剣を振り回せる兵士であって、その剣がなぜ斬れるのかを考える学者ではない」
「追放された後は?」
「どこの研究機関も雇ってくれませんでした。国の研究所に睨まれた人間を、好き好んで受け入れる場所はありません」
ミラの声が、淡々としていた。諦めきった者の声だ。
「師匠の研究資料は競売にかけられました。蓄えは師匠の研究資料を守るために使い果たしていました……それでも集められたのは三割程度ですが」
「ただ、お金を使い果たしてから気付いたのです。これからどうやって生きていこう、と」
「行く当てがないのか」
「お恥ずかしい話です。家賃の払い方も、仕事の探し方も、師匠が全部やってくれていたので……。師匠が亡くなった後は研究所が面倒を見てくれていましたが、追放されてからは何もかも分からなくて」
十二歳の時分から、研究に没頭してきた女だ。世俗から完全に隔絶されていたのだろう。研究以外のことは、何一つ知らないまま大人になってしまった、というところか。
路地裏の冷たい空気が、彼女の薄いローブを通り抜けていく。このまま夜を越せば、明日の朝には冷たくなっているかもしれない。
「立てるか?」
「……分かりません」
「肩を貸す。うちに来い」
「……え?」
ミラが、俺を見上げた。汚れた顔の中で、目だけが妙に澄んでいる。
「どういう、ことですか」
「飯を食わせてやる。話はそれからだ」
俺とザガンで、ミラの体を支えて立ち上がらせる。驚くほど軽かった。骨と皮だけだ。
俺たちは、ゆっくりと路地裏を後にした。




