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第31話:飢えた食卓


 ダイニングへ向かう廊下を歩きながら、俺はこの屋敷の造りを改めて眺めていた。


 高い天井。磨き上げられた大理石の床。壁に掛けられた油絵には、見知らぬ貴族の肖像が描かれている。豪奢(ごうしゃ)額縁(がくぶち)に収められた、威厳ある顔。この屋敷の元の持ち主だろうか。


 絵の中の人物は、どこか不機嫌そうな表情をしている。まるで、自分の屋敷を奪われたことを恨んでいるかのように。


 かつてこの屋敷に住んでいた人間は、今はもういない。


 黒竜商会を制圧し、俺たちはこの屋敷を接収した。それより前の持ち主がどうなったのかは知らない。逃げたのか、それとも商会に消されたのか。知る必要もない。


 俺たちは捕食者だ。

 獲物の末路に、いちいち心を痛めていては生きていけない。


 だが、今の俺たちは、その捕食者としての本分を果たせていなかった。狩りができない捕食者など、ただの飢えた獣に過ぎない。



「パパ、今日のごはん何かなー?」



 俺の手を握りながら、ルナが尻尾をぶんぶんと振っている。尻尾の先にある蛇の頭も、うねうねと動いていた。



「さあな。シルヴィアに聞いてごらん」



「ママー、今日のごはん何ー?」



「今朝は、ホーンラビットの香草焼きですわ」



 前を歩くシルヴィアが、振り返らずに答える。

 その声には、僅かな影があった。気づかれないように隠しているつもりなのだろうが、俺には分かる。彼女が何を気にしているのかも。



「ホーンラビット……」



 ルナの狼耳が、少しだけ垂れ下がる。

「また、ホーンラビット?」とは口には出さない。だが、その背中がルナの心の内を語っていた。



「ごめんなさいね、ルナ。今はこれしか手に入らないの」



「……うん」



 ルナが、一瞬だけ寂しそうな顔をする。

 だが、すぐに笑顔を取り戻した。奇麗に、懸命に。



「ルナ、ママのごはんなら、なんでも大好き!ママのごはん、おいしいもん」



 その笑顔を見て、俺の胸が締め付けられる。

 ルナは、我慢している。


 自分がもっと美味しいものを食べたいと思っていることを、隠している。シルヴィアや俺に心配をかけたくないから、文句を言わない。


 この子は、優しすぎるのだ。

 だからこそ、俺が何とかしなければならない。



   ◇



 ダイニングに着くと、既に一人の少女が席に着いていた。


 黒髪を肩で切り揃え、赤と黒の和服を纏った姿。テーブルに頬杖をつき、湯呑みを片手に不機嫌そうな顔で茶を啜っている。


 妖刀・刹那。



「遅いぞ、小僧」



 刹那が、じろりと俺を睨む。


 その瞳は深紅で、人間のものではない。数百年を生きた(いにしえ)の妖刀。その目には、俺たち人間には計り知れない歳月の重みが宿っている。



「わらわは腹が減って、もう限界じゃ。貴様、飼い主としての自覚が足りんのではないか?」



「お前は犬か」



「犬ではない!」



 刹那が、ばんっとテーブルを叩く。

振動で湯呑みの茶がこぼれそうになった。



「その割には、腹が減ると機嫌が悪くなるな」



「うぐっ……」



 刹那が言葉に詰まる。


 シルヴィアが、朝食を並べていく。


 ホーンラビットの香草焼き、きのこのスープ、焼きたてのパン。見た目は美しい。シルヴィアの料理の腕は確かで、どれも丁寧に作られている。


 だが、これらはDランク以下の食材だ。


 暴食の眷属(プレデター)である彼女たちには、まるで薄めた(かゆ)のようなもの。腹は膨れるが、魔力は得られない。



「いただきますわ」



 シルヴィアが、静かに食事を始める。


 俺もフォークを手に取り、ホーンラビットを口に運んだ。確かに美味い。だが、それだけだ。

 ルナが、一口食べて笑顔を作る。



「おいしいね、ママ」



「ありがとう、ルナ」



 シルヴィアが微笑む。だが、その目には悲しみが滲んでいた。

 自分の料理が、家族の飢えを満たせないことを分かっているのだ。


 刹那は、黙々と食事を続けている。文句を言わないのは、言っても仕方がないと分かっているからだろう。


 食卓に、重い沈黙が落ちる。


 俺は、シルヴィアの足元に目をやった。


 彼女の影が、以前より確実に薄くなっている。一週間前と比べて、明らかに。神話級(ネームド)の捕食者である彼女の本体とも言える影が、日に日に薄れていく。



「シルヴィア」



「はい、カナメ様」



「その影……大丈夫か」



 シルヴィアが、一瞬だけ目を伏せた。



「……お気づきでしたか」



「当たり前だ」



 シルヴィアが、小さく息を吐く。



「このままの食事を続けていると、(わたくし)の影は徐々に薄れていきますわ。完全に消えることはありませんが……力は確実に衰えていきます」



「どのくらい持つ?」



「二ヶ月……いえ、一月(ひとつき)半というところでしょうか。それ以上は、戦闘に支障が出るかもしれませんわ」



 一月(ひとつき)半。

 思っていたより、猶予(ゆうよ)がない。



「ルナはどうなんだ」



「ルナの体は、今のところ安定していますわ。でも……」



 シルヴィアが、ルナを見つめる。

 その目には、母としての深い愛情と、同時に切実な心配が宿っていた。



「成長期のルナには、より質の高い魔力が必要なのです。今の食事では、本来の力を発揮できないまま育つことになります。キメラとしての体も、十分に安定しないかもしれません」



「……そうか」



 俺は、ルナを見た。


 彼女は、何も言わずに食事を続けている。自分の話をされているのに、口を挟まない。シルヴィアを心配させたくないのだろう。

 この子は、本当に優しすぎる。



「刹那はどうだ」



「わらわか?」



 刹那が、箸を置いて答える。



「まあ、切れ味が鈍ってきておるのは確かじゃな。元より()えた刀じゃ、魔力が足りねば本来の力は出せん」



「どの程度だ」



「今の状態が続けば、一月(ひとつき)もすれば普通の刀と大差なくなるじゃろう。斬れんことはないが……貴様の期待には応えられんかもしれぬな」



 刹那は俺の主力武器だ。刹那の切れ味が落ちるということは、俺の戦闘力が大幅に低下することを意味する。刀がなくてもある程度は戦えるが、刹那がいるのといないのとでは大きく違う。



「つまり、全員が限界に近いということか」



「そういうことですわ」



 この場に居る全員が沈んでいた。



   ◇



 食後、俺は書斎で考え込んでいた。


 窓の外では、朝の光が庭の薔薇を照らしている。赤、白、ピンク。色とりどりの花が、朝露(あさつゆ)に濡れて輝いていた。平和な光景だ。だが、俺の心は穏やかではなかった。


 ――高ランクの魔物を狩る必要がある。

 だが、どうやって?


 俺たちのパーティーランクはFだ。冒険者ギルドで受けられる依頼には制限がある。高ランクの魔物が出現する狩り場に入るには、相応のランクが必要だ。

 ランクを上げるにはレベルの低い依頼を大量にこなして実績を積むしかない。だが、実績を積んでランク昇格を待てるだけの猶予はなさそうだ。


 何か、別の方法はないか——。その時、ノックの音がした。



「カナメ様、よろしいですか」



 シルヴィアの声だ。



「ああ、入ってくれ」



 扉が開き、シルヴィアが入ってきた。その後ろには、ルナもいる。



「何かあったか?」



「ルナが、カナメ様にお話があるそうですわ」



 シルヴィアに促され、ルナが俺の前に進み出た。

 その顔は、いつもの笑顔ではなかった。真剣な表情。だが、どこか怯えたような色も混じっている。



「パパ……」



「何だい、ルナ」



「あのね……」



 ルナが、俯きながら言った。



「ルナ、ごはん減らしてもいいよ」



 一瞬、俺は言葉を失った。



「何を言ってる?」



「だって、ママとせっちゃんが困ってるんでしょ?ルナが食べる分を減らしたら、ママたちの分が増えるよね?」



「ルナ……」



 シルヴィアが、悲痛な声を上げた。



「ルナは、まだ小さいから。そんなにたくさん食べなくても大丈夫だよ。パパとママとせっちゃんのために、ルナ我慢できるもん!」



 ルナが、顔を上げた。

 その目には、涙が滲んでいた。



「だから、パパとママ、苦しそうな顔しないで?ルナ、平気だから」



 俺の中で、何かが弾けた。

 怒りだ。


 ルナに対してではない。この状況に対する怒り。家族を守れない自分に対する怒り。そして——この子にこんなことを言わせてしまった、自分の不甲斐なさに対する怒り。



「ルナ」



 俺は、ルナの前に膝をついた。彼女の小さな肩を、両手で掴む。



「お前は、自分を犠牲にしなくていい」



「でも……」



「俺が何とかする」



 俺は、ルナの目を真っ直ぐに見つめた。



「お前は、俺の娘だ。大切な家族だ。お前が我慢する必要なんかない。お前の分の飯は、俺が必ず用意する」



「パパ……」



「約束する。だから、そんな顔するな」



 ルナの目から、涙がこぼれ落ちた。


 俺はルナを抱き寄せ、その小さな体をしっかりと抱きしめた。ふわふわの金髪から、温かな匂いがする。この子を、守らなければ。



「カナメ様……」



 シルヴィアが、俺たちを見つめていた。


 その目にも、涙が光っている。彼女は静かに近づいてくると、俺の背中にそっと手を添えた。その手は僅かに震えていて、まるで触れること自体を確かめるような仕草だった。



「ありがとうございます。ルナの気持ちを、受け止めてくださって」



「礼を言うのは俺の方だ。こんな状況を、ずっと我慢させていた」



 俺は立ち上がり、シルヴィアに向き直った。



「シルヴィア、ザガンを呼んでくれ。高ランクの魔物を狩る方法が知りたい」



「ザガンを……?」



「あいつは、この街の裏も表も知り尽くしている。俺たちが知らない情報を持っているかもしれない。今の俺たちが高ランクの魔物を狩る方法、ギルドの仕組み、この街の事情……まずは情報が必要だ」



 シルヴィアが、静かに頷いた。



「分かりましたわ。すぐに連絡を取りますわね」



「頼む」



 シルヴィアが部屋を出ていく。



「パパ」



 ルナが、俺の手を握った。



「ルナも、手伝うね?」



「ああ」



 俺は、ルナの頭を撫でた。



「お前の力も、借りるぞ」



 ルナの顔に、ようやく笑顔が戻った。

 この笑顔を、守るために。俺は、何でもする。



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