第25話:反撃の狼煙
――カナメがガランドと死闘を繰り広げていたのと、ほぼ同時刻。
オークション会場の隅では、幼い獣の悲痛な咆哮が響いていた。
「ガウッ! ガウッ!!」
ルナは、目の前に立ちはだかる透明な壁に、必死に爪を振るっていた。
爪が弾かれるたび、火花のような魔力が散る。
しかし、壁はビクともしない。それどころか、ルナの爪の方が衝撃に耐えきれず、メキメキと音を立てて砕け、指先から血が滲み出していた。
「……ククッ、無駄ですよお嬢ちゃん」
結界の維持に集中していたマルバスが、ステッキを弄びながら冷笑を浮かべた。
彼の背後では、ガランドとカナメの戦闘音が響いているが、マルバスは一瞥もしない。
Fランクの人間ごときが、Sランクの殺し屋に勝てる道理がない。結果を見るまでもない「処理」だと思っている。
「学習能力がないですね。それは私の魔力を注ぎ込んだ『迷宮回廊』。物理的な障壁ではありません。『ここには空間の断絶がある』という、座標定義そのものを書き換える空間魔法です」
マルバスは、実験動物を見るような目でルナを見下ろした。
「失敗作如きに傷つけられるものではありません。……ああ、鬱陶しい。後で君も解体して脳の構造を調べてあげますから、そこで待っていなさい」
彼にとって、ルナは脅威ですらない。
ただの羽虫。
無視していても問題ない、路傍の石ころだ。
ガランドがFランクを殺した後、この失敗作と銀髪の女をかわいがってやればいい。
「……ウゥッ!!」
だが、ルナは諦めなかった。
痛む指先を握りしめ、血走った目で結界を睨む。
パパに言われたのだ。「助けろ」と。
それに、あの中にいるのは、自分を「娘」だと言って抱きしめてくれた、優しくて温かい、大切なママだ。
―――ママを、だせ。
ルナの中で、何かが弾けた。
「――あけろぉぉぉぉッ!!」
ルナの金色の瞳が、カッと強烈に発光する。
獣化のさらに先。
かつて実験場で埋め込まれた複数の魔物因子と、治療の際にシルヴィアから注がれた「捕食者」の魔力が、極限状態で共鳴を起こしたのだ。
彼女のスカートの裾から、エメラルドグリーンの「蛇の尻尾」が飛び出す。
その蛇は、ただの尾ではない。
ルナの全身の魔力を一点に集中させた、最強の「穿孔機」として回転を始めた。
狙うは一点。
空間の歪みの、極小の綻び。
ガリィィィッ!!
空間ごと削り取るような、鼓膜を逆撫でする不快な音が響く。
本来なら傷一つつくはずのない、絶対的な空間の壁に――髪の毛一本ほどの、微細な「亀裂」が走った。
「な……ッ!?」
マルバスの目が驚愕に見開かれる。
まさか。あり得るはずがなかった。
魔導の理も知らぬ失敗作ごときが、高位魔族の展開する空間魔法に干渉することなど、理論上あってはならないのだ。
その一瞬の動揺。
そして、結界に生じたわずかなノイズ。
中に閉じ込められている「怪物」が、それを見逃すはずがなかった。
「――あら。ありがとう、ルナ」
亀裂の向こうから。
背筋が凍るほど甘く、そして冷たい声が聞こえた。
パリンッ!!
轟音が炸裂した。
ルナが開けた針の穴ほどの亀裂を起点に、空間結界が内側から強引に粉砕されたのだ。
ガラス細工のように飛び散る魔力片がキラキラと舞う中で、ロイヤルパープルのドレスを纏った銀髪の美女が、ゆらりと歩み出る。
「……まったく。狭くてカビ臭い部屋でしたわ」
シルヴィアが、優雅に髪を払う。
そのドレスには傷一つない。乱れ一つない。
だが、その背後には――会場の天井を覆い尽くすほどの、巨大な漆黒の「影」が渦巻いていた。
「なっ……馬鹿な、内側から力任せに破った、だと……!?」
マルバスが後ずさる。
彼の計算では、内部からの破壊は物理的に不可能なはずだった。
それを可能にする魔力出力など、この次元には存在しないはずだ。
シルヴィアは彼を一瞥すらしない。
代わりに、血だらけの手で立ち尽くすルナの頭を、優しく撫でた。
「いい子ですね。貴女が隙を作ってくれたおかげで、不快な檻から出られました」
「……ママ、怒ってない?」
「ええ。怒っているのは――あちらのピエロに対してだけですわ」
シルヴィアが顔を上げ、紫色の瞳でマルバスを射抜く。
ゾクリ。
マルバスの全身の毛穴が収縮した。
それはもう、敵を見る目ではない。
皿の上に載った、食べ頃の料理を見る目だ。
「ひっ……!?」
立っているだけで今にも体がバラバラにされそうな、鋭く悍ましい魔力。
魔王に匹敵するか……―――もしかしたら、それ以上かもしれない。
視界には捉えきれないほどの巨大な奈落のような、全く底が見えない魔力。
目の前にいるのは、魔法使いなどという枠に収まる存在ではない。
ただひたすらに喰らい、奪い、消化する――「捕食」という概念そのものだ。
マルバスの顔から、初めて余裕が消えた。
これ以上、この女について考えたくなかった。本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしている。
彼はようやく理解したのだ。
自分が喧嘩を売った相手が、自分より遥かに格上の――神話に語られる『捕食者の頂点』であることに。
「さあ、お食事の時間ですわ」
シルヴィアが優雅に微笑む。
その背後に渦巻く漆黒の影が、数多の牙を持つ巨大な顎となってマルバスの首を狙った。




