廃太子は聖女の陰に恋をする(2/2)
室内には先客がいた。年若い女性だ。
女性はバスティアンの姿を見ると、顔を輝かせて立ち上がった。
「もしかして……ご領主様ですか?」
歌うような声で問いかけられる。
「約束を守ってくださったのですね。初めまして。私はシャーロット・グランツです」
女性は優雅に礼をした。
一方のバスティアンは、ポカンと口を開けて彼女の方を見ている。
(この方が……シャーロット様……? なんと美しい……)
聖女補佐官は、バスティアンがこれまでに見たどんなエメラルドよりも透明度の高いオリーブ色の瞳と、腰まである煌めくプラチナブロンドの髪の持ち主だった。
あどけなく無垢な顔立ちと、小さな顎に細い首。華奢な体を覆っているのは端がすり切れた法衣だったが、その粗末な衣がかえって彼女の美貌を引き立たせている。
(まるで月光の下でしか咲かない花のようだ……。物静かで控えめで、いじらしくて可憐で……。これほど麗しい方がこの世に存在するとは。ひょっとしたら、シャーロット様は地上に降りた女神ではないだろうか?)
「……あの? ご領主様?」
黙り込んでしまったバスティアンに、シャーロットは訝しげな顔になる。聖女補佐官の絶世の美貌に見とれていたバスティアンは我に返った。
「は、初めまして。わた……わたしは……バスティアン・ミースです。よ、よろしければこれを。お口に合えば良いのですが」
すっかり狼狽えながら、バスティアンは自分でも何を言っているのか分からないままにシャーロットにバラの花束を差し出す。挨拶の文句は事前に考えていたのだが、そんなものは綺麗さっぱり頭から抜けていた。
「これ、食べられるのですか?」
シャーロットは花束を見て目を丸くしている。バスティアンは混乱しながら「もちろんです」と言った。
「煮てよし焼いてよし、揚げても美味しいです。ミースでは定番の食材です」
バスティアンは椅子に腰掛ける。その間も目はシャーロットに釘付けだ。
(ああ……本当に……なんてお美しい方なんだ。いつまででも眺めていられる……。こうして花を食べているところも愛らしい……。……うん? 花を食べている?)
シャーロットが花束の中からバラの花弁を一枚取って口に入れたものだから、バスティアンは心底驚いた。
「シャーロット様! そんなにお腹が空いていらしたのですか! すぐに料理が来ますから、そんなものを召し上がるのはおやめください!」
「え? これは食用だとご領主様が……」
「わたしはそのようなことは言って……言いましたね! 言いました! 言ってしまいましたよ! 申し訳ありません! 気が動転していて……!」
バスティアンは羞恥で顔を真っ赤に染めた。
(何ということをしてしまったんだ! シャーロット様にあんなものを食べさせるなんて……! やはり夕食になんて誘うべきではなかった! シャーロット様はきっとお怒りに違いない……)
だが、予想に反して聞こえてきたのは笑い声だった。シャーロットが肩を揺すっておかしそうにしている。
「ご領主様って面白いお方。一体何とバラを間違えたのですか?」
「ええと……その……ば、馬鈴薯と……」
「ああ、馬鈴薯ですか。美味しいですよね。煮てよし焼いてよし、揚げてもよしです」
シャーロットが一際大きな笑顔を見せる。バスティアンの心臓が弾んだ。
(こんな失態を犯したわたしを許してくれるなんて……。シャーロット様はなんて心が広いんだ。彼女は間違いなく女神だ。わたしの女神。風に乗ってこの荒れ地にやって来た一輪の尊い花……)
バスティアンはうっとりとなる。シャーロットは「どうかなさいました?」と首を傾げた。
「いいえ。ただ、あなたがあまりにも美しくて」
「まあ、ご領主様ったらお上手」
「本心です……」
バスティアンは感嘆のため息を吐く。
「あなたの美貌は朝露のようです。儚く繊細、たおやかで奥ゆかしい。あなたが微笑む度にわたしの胸の中で小鳥が歓喜し、この心臓を小さなくちばしで突くのです。あなたの声は蜜。血管に流し込まれた途端に、身も心もとろかしてしまう……」
「あらあら……」
シャーロットは上品な笑みを見せた。「それ以上はおっしゃらないで」と目顔で伝えられ、バスティアンは口を閉ざす。まずいことを言った覚えはないが、初対面なのに少し喋りすぎたかもしれないと反省した。
タイミングよく食事が運ばれてくる。バスティアンが先ほど紹介したミースの名物、芋料理だ。思わずげんなりとなる。女神との食事に芋。ちっともロマンチックではない。
けれど、シャーロットは気にせずに出されたものを美味しそうに食べ始めた。
「馬鈴薯ってすごいですよね。どんな土地でも栽培できるんですから」
「……はい。ミースは不毛の地ですが、この植物は気丈にもすくすくと育ってくれます」
バスティアンも芋をフォークに刺して口に運んだ。ロマンチックではなくとも、空腹が満たせるだけよしとしよう。
「色々と試しましたが、他の野菜や穀類は実りが悪くて……。やはり、このミースで満足に収穫できるのは馬鈴薯くらいしかないということが分かりました」
「ご領主様は、ミースの開拓をしようとしたと聞きました。他には何を?」
「公共工事ですね」
昔のことを思い出しながら、バスティアンは眉を曇らせる。
「ミースにいてもろくな仕事はありませんから、若者のほとんどは別の土地に出稼ぎに行ってしまうんです。だから彼らに働く場を用意しようと思ったのですが……計画倒れに終わりました。人を雇っても賃金が支払えませんから。それに公共工事と言ったって、こんな辺鄙な土地に何を作るんだという話ですし……」
バスティアンは首を振った。
「人口が少なく利用される見込みがほとんど無いので、ちょっとしたコミュニティセンターもダメ。ミースは水資源だけは豊富ですが、大きな川や湖は数えるほどしかないから漁業もダメ。学校を開こうにも、肝心の子どもがまるでいないからダメ。……ダメ、ダメ、ダメ。八方塞がりです」
十年前、ここへやって来た時のことを思い出す。あの頃のバスティアンは廃嫡されたことに傷付きながらも、使命感に燃えていた。たとえ王太子ではなくとも、この土地を自分の手で生まれ変わらせてやるのだと意気込んでいたのだ。
だが、夢は破れた。ミースへ来て五年もする頃には、バスティアンは何かする気力を喪失していた。ここは神に見放された土地であり、どれだけあがこうが現状は変わらないと悟ったのである。
「せめて魔法が使えれば少しは違ったのかもしれませんが。わたしはミースを盛り立てようとしましたが、魔力の無い領主になど誰も期待していませんでした。命令を下しても、言うことを聞かない人もたくさんいたんですよ。……いえ、違いますね。魔力があれば、そもそもこんなところにはいないわけで……」
シャーロットが複雑そうな顔をしている。魔法が使えないのは彼女も同じなのだ。今の話をこの清らかな乙女はどう受け止めたのだろうか。
「それに引き換え、シャーロット様はすごいです。魔法が使えなくても、聖女様の補佐官をしているんですから。あなたは優秀なのですね」
「そんなことはありませんよ。私はただ、ミースに来たばかりのご領主様と同じなだけです。自分にはやらなければならないことがあると思っている。それだけです。私の実家……グランツ家の家訓をご存知ですか?」
「陽光はあまねく照らす……でしたか? 聖女を輩出し、教団関係の職を一手に引き受ける貴族家に相応しい言葉ですね」
バスティアンはこの家訓を「グランツ家に生まれた者の使命は、神の恵みを国内全土に届けることである」と解釈していた。
シャーロットも同じ見解だったようで、「そうですね」と深く頷く。
「魔力のあるなしは関係ありません。私は聖女の陰ですから、実際に『照らしている』のは姉かもしれませんが……。それでも、自分なりにできることはしたいのです」
(シャーロット様……やはりご立派な方だ)
自分がとうに失ってしまった輝きを放つ聖女補佐官を、バスティアンは眩しい思いで見つめる。こんなにも彼女に惹かれてしまうのは、シャーロットの胸に希望の光が宿っているからなのだろうか。
「きっと姉君も、あなたを頼りにされているのでしょうね」
バスティアンは目を細めた。
「オラフから聞きました。聖女様はあなたに重要な仕事を任せていったとか。それだけシャーロット様の手腕を買っていらっしゃるのでしょう」
「それは……ううん……」
「補佐官であるシャーロット様がこれほどまでに素晴らしい方なのです。その主君である聖女様は、一体どれほど神々しい方なのでしょう。わたしのような卑しい者には想像すらできません」
やはり引きこもっていると損ばかりだ。こんなことなら、聖女が出発してしまう前に一目会っておくのだった。
「あの、ご領主様」
優美な聖女の姿を思い描いていたバスティアンは、シャーロットの必死そうな声で我に返る。
「私の光は微弱かもしれませんが、それでもあなたのことも照らしたいです」
「……わたしを?」
「何様のつもりだと思われるかもしれませんが、あなたを放っておけません。できることなら、私はあなたを幸せにしたい。そう思ってしまうんです」
(わたしを幸せに……? も、もしかして求婚か!?)
バスティアンは頬が熱くなるのを感じた。「喜んで!」と応じる。
「式はいつにしましょう!? 夫婦二人暮らしもいいですが、子どもがいるのも賑やかで楽しそうですね! できれば女の子と男の子を一人ずつ……もちろん、もっといても構いません! 子どもたちの縁組みの相手も決めておかなければ! 孫が増えてもいいように、ミース城も増築しないと……」
「ちょ、ちょっと待ってください。式? 夫婦? 孫? 一体何を……あっ!」
シャーロットがおろおろし始めた。
「ち、違います! そういう意味で言ったのではありませんよ! 結婚……とかではなくてですね! その……ええと……お友だち? と、とにかく、男女の関係になろうというお誘いではありませんから!」
「……そうなんですか?」
バスティアンの声のトーンが下がる。同時に、顔から火が出そうになった。
「そう……ですよね。わたしは一体何を言っているのでしょう……。……すみません。もう二度とあなたの前に姿を現わしませんから、こんなはしたない想像をしてしまったことをどうか許してください……」
「何でそうなるんですか!?」
バスティアンは自室に引きこもろうとしたが、シャーロットに腕を掴まれて阻止される。こんな時なのに触れてもらえたのが嬉しくて、どん底の気分が一気に回復した。
「それで……ご領主様。私に、あなたを幸せにする許可を与えてくれますか?」
袖を引っ張られながら上目遣いで見つめられ、バスティアンはときめきを覚えた。やはりこれは求婚ではないだろうかという都合の良い妄想が、またしても頭をもたげそうになる。
「はい……。わたしなどで良ければ、ぜひ幸せにしてください」
バスティアンは挙式前の花嫁のような夢見る気持ちで頷いた。
「早速よろしいでしょうか? わたしのことは、どうか名前で呼んでください。それだけでとても幸福になれますから」
「そんなことでいいのですか? もちろん構いませんよ、バスティアン様」
バスティアンの頭の中で祝福の鐘が鳴り響く。
この瞬間、彼はこの女神のような麗人に完全に恋をしてしまったのだった。




