廃太子は聖女の陰に恋をする(1/2)
(聖女補佐官……シャーロット・グランツ様……)
自室の扉にそっと手のひらを宛がいながら、バスティアンは高鳴る胸の鼓動を聞いていた。
(聖女様の補佐官をしているのに魔力が無いとは……。それでも、あの方は自らに与えられた役目を立派にこなしている。なんと素晴らしい気概の持ち主なのだろう。それに、こんなわたしにも優しく寄り添ってくださって……)
バスティアンは、早くもシャーロットに憧れの気持ちを持ち始めていた。先ほどだって、本当はこの扉を開け放ちたくて仕方がなかったのだ。
だが、鏡を見てすんでの所で思いとどまったのである。
(今のわたしはひどい格好だ。髪はグシャグシャで服装も乱れ放題。無精ヒゲは伸びているし、目元にはクマもあって顔色も悪い。酔いなんてとっくに醒めてしまったが、まだ酒の匂いもするかもしれない……)
こんなやさぐれた姿で憧れのシャーロットの前になど出られない。彼女に軽蔑されたくはなかった。
(……今の会話、シャーロット様はどう思っただろう? この城の者以外と話すなんて久しぶりだ。きちんとした応対ができていればいいのだが……)
あの会話の中で、シャーロットは一度だけ「バスティアン様」と自分の名前を呼んでくれた。
せめてあと一回だけでいいから、あんな風に優しく呼びかけてほしい。もし望みが叶うのなら、ミース城の一番高い塔から身を投げても構わなかった。
(夕食まであとどれくらいだろう……)
時計を確認したバスティアンは、もうあまり時間が残されていないことに気付いて衝撃を受けた。天井からぶら下がる呼び鈴の紐を引っ張り、執事を呼び寄せる。
「風呂の用意だ!」
バスティアンはオラフに向かって叫んだ。
「それから、一番いい服を持ってきてくれ! あとは……花だ! あの方に贈る花が必要だ!」
「あの方、とは?」
「シャーロット様に決まっているだろう!」
バスティアンは部屋をウロウロと歩き回る。
「オラフ、お前はすでにシャーロット様に会ったことがあるんだよな? どんな方だった? やはり聖女様の補佐官というからには神秘的で……いや、何も言うな! 会った時の楽しみにしておく! けれど……ああ、気になるな! やはり今すぐに会いに……いや、こんな格好では行けないんだった!」
「おやおや」
オラフは慈愛のこもった目でバスティアンを見つめる。
「あなた様のことはお生まれになった時より存じていますが、特定の女性相手にこうなったところを見るのは初めてですなあ」
「シャーロット様はただの女性ではない。あの方は聖女様だ。……いや、聖女補佐官か。……どっちでもいい! とにかく早く風呂の用意をしてくれ! 何かしていないと気が変になりそうだ!」
しかし、身支度を調えている間も、バスティアンはそわそわと落ち着かない。しょっちゅう時計に目をやっては、面会まであと何時間か計算しているのだった。
「オラフ……やっぱり会うのはやめておこうか」
時折、不安げな声でそんな弱音まで漏らす始末だ。
「せっかく夕食を共にすると約束したのに、わたしのような者が出ていけばシャーロット様はがっかりするのではないだろうか。『まあ、なんて目付きの悪い方なんでしょう! あなたなんて嫌いです!』と言われてしまったらどうしよう……」
鏡台の前に座り、執事に髪をとかしてもらいながら、バスティアンは青い顔になっている。
(どれほど身綺麗にしようが、真の人間性は隠せない。もしシャーロット様が、わたしがどんな男なのか見抜いてしまったら……)
バスティアンの頭の中にあったのは過去のことだ。
――バスティアン様は礼儀正しいし、勉学も本当によくお出来になって……。あれで魔力さえあればねえ。
王太子時代のバスティアンは、周囲からよくそう言われていたのだ。皆を失望させてばかりだったという苦い記憶が、シャーロットも自分を蔑むようになるかもしれないと彼を怯えさせていたのである。
「お会いする前からそのようなことを心配なさっても仕方がないでしょう」
オラフは呆れ顔だ。
「行くと約束したのに土壇場になって取りやめる方が、よっぽど印象が悪いかと思いますが」
「……それもそうだな」
バスティアンだって、本当はシャーロットに会いたくてたまらないのだ。ただ、自分にそんな資格があるのだろうかということだけが気がかりだったのである。
バスティアンが憂鬱になったり気分を高揚させたりと忙しくしている間にも時は進む。やがて、午後六時を告げる鐘がミース城に鳴り響いた。
(……こうなったら腹をくくるしかない)
最後に鏡の前で入念に身だしなみを整えると、バスティアンは大きく深呼吸をした。バラの花束を片手に、震える脚で廊下を進む。
「バスティアン様……両手と両足が一緒に出ていますよ」
オラフがこそっと注意したが、緊張しきっていたバスティアンの耳には入らない。もうあとには引けないと思いながら、食堂の中に入った。