魔獣牧場の危機(1/1)
馬の背に乗り夜道を駆けながら、シャーロットは胸をざわめかせていた。
死傷者の数や牧場が受けた被害について最悪の想像が脳裏をちらつく。
領主が不在の今、その補佐官である自分がミースの最高責任者なのだ。下手な対応はできない。シャーロットは身を硬くする。
馬を飛ばしたお陰で平時の半分ほどの時間で牧場に到着した。目の前の光景にシャーロットは立ち尽くしそうになる。
炎に包まれる建物と、落ち着かなげにいななく魔獣たち。煤にまみれ、火傷を負った人たちが力なく地面にうずくまっていた。
「シャーロット様!」
領主補佐官の到着に気付いた男性従業員がほっとしたような顔になった。
「良かった! 使者が無事に知らせを届けたのですね!」
「何があったのです?」
「火元は素材の加工場です。作業が終了したのに火を消し忘れたのが原因でしょうね」
男性は忌々しそうに言った。
素材の加工場は魔獣牧場に併設されている建物だ。魔獣から採れた素材を売りに出す前に、洗ったり磨いたりして商品価値を高めるための施設である。
「最悪なのはそのあとです。保管してあったサラマンダーの尾に引火したんですよ! あれに火がつくとどうなるのかご存知でしょう? 加工場はあっという間に丸焼けです!」
シャーロットは男性と共に炎上中の加工場へ向かう。灰が宙を舞い、煙の嫌な臭いが漂ってくる。
「怪我人は?」
「大勢いますよ。加工場と隣り合っていた事務所や倉庫にも火は燃え移りましたからね。それに最近では遅くまで仕事をする者も増えましたし。幸いにも死者が出たという報告はまだ受けていません。ですが、このままですと死体の山が築かれてしまいます! 人間ではなく魔獣の! 結界が張られているため、火が迫ってきても魔獣たちは逃げ出せませんからね!」
加工場は牧場の外れに建っている。魔獣たちのいるところとは少し離れた場所だ。話を聞く限りだと、まだ飼育区画には延焼していないのだろう。
シャーロットは頭の中でするべきことを素早くまとめ上げた。起きてしまったことは仕方ないとして、これ以上被害を大きくするわけにはいかない。
「怪我人を一カ所に集めてください」
シャーロットは男性に命じた。
「動かすと危険な方はそのままで構いません。皆に声をかけて治療魔法の得意な方の協力を仰いでください。私もあとで行きます。それから医師も呼んでおいてください」
「承知しました」
テキパキと指示を下す領主補佐官に、男性は尊敬の眼差しを向けて去っていく。シャーロットはそのまま加工場の方に駆けていった。
火元に近いところに飼育場がある魔獣たちは半狂乱になっていた。我先にと逃げようとするが叶わず、結界に激突している。
結界を解除しようとしたシャーロットだが、今のままでは危険ではないだろうかと不安になった。
(いくら牧場にいるのは大人しい魔獣ばかりだとはいえ、こんなに怯えた状態では何をするか分かりませんね。もしかしたら従業員の方たちに怪我をさせてしまうかも……)
だが、放っておいたら皆焼死である。どうしようかと焦るシャーロットだったが、そんな彼女に声をかけてくる者がいた。
「シャーロット、退いてて! ここはアタシの出番でしょう?」
「お姉ちゃん!」
ミース城から心強い助っ人が来てくれたと分かり、シャーロットは声を弾ませた。結界の中に入ったリルは「皆、落ち着きなさい!」と一喝する。
その途端、魔獣たちの暴走が止まった。シャーロットは「やっぱりお姉ちゃんはすごいです!」と感心する。
二人で協力して魔獣を安全なところまで連れていった。ひとまずこれで魔獣の焼死体は出さなくて済みそうだ。
そこに先ほどの男性がやって来た。どうやら怪我人たちの召集が終わったらしい。
「アタシは他の魔獣たちの様子を見てくるよ」
そんな風に言うリルと別れ、シャーロットは男性のあとに続く。
怪我人たちが集められていたのは、新しい事務所の建築予定場所として空けておいた区画だった。シャーロットの指示通り、無傷、もしくは軽傷の者たちがひどい怪我を負った人たちに対し、魔法で治療をしようと試みている。
「聖女様、何とかしてください!」
シャーロットを認めると、誰もが救われたような顔になった。シャーロットは胸の前で指を組み合わせる。
「癒やせ!」
魔力の波が外側へと溢れ出るのを感じる。シャーロットから放たれた治癒の魔法は、たちまちの内に効果を発揮した。
「すごい! 手の感覚が戻ってきた!」
「火傷が治ってる……!」
「ありがとうございます、聖女様!」
避難民たちは歓喜した。
その後もシャーロットは動けないほどの重傷者を助けるために牧場中を飛び回り、魔法で癒やせるだけの怪我を治していった。
そして、やっと自分が手を貸さなくてもどうにかなりそうだというところまでこぎ着けたが、安心するのはまだ早い。どうしても片づけておかなければならない大仕事が残っていた。
シャーロットは牧場の外れに向かう。加工場や事務所を包む炎はまだ消えていなかった。辺りには灰と火の粉が飛び交っている。
集まった人たちは魔法を使うほかは、近くの小川からバケツリレー方式で水を汲んできて建物の火を消そうとしていた。だが、あまり効果は上がっていないようだ。
「ダメじゃダメじゃ!」
バケツリレーの列の中には汗だくのティモも加わっていた。彼は絶望を露わにしながら首を振る。
「火を消すのに千年かけるつもりか!? 燃えているのはサラマンダーから採れた素材じゃぞ! 炎の精霊の力を舐めすぎじゃ!」
「私が何とかします!」
シャーロットは進み出た。
「水よ!」
シャーロットが唱えると建物の上空から土砂降りの雨が降り注ぐ。「その調子です!」とバケツリレーをしていた人たちが活気づいた。
しかし、火の勢いは止まらない。炎が揺れて悪鬼のような表情を形作る。その悪鬼は降ってくる雨をあざ笑うかのように、赤い舌をこちらにチロチロと出してみせた。
まるで意志を持つかのようなその様子を見て、消火活動をしていた人たちの顔に怯えが走った。ティモが「何ということじゃ!」と悔しそうに尻尾で地面をバシンバシンと叩く。
「シャーロット、もっとじゃ! もっと水が必要じゃ! あの生意気な炎を黙らせてやるのじゃ!」
「分かってます!」
シャーロットは上空に向かってさらに魔力を注ぎ込んだが、どれだけ雨が激しくなっても炎が消える様子はない。悪鬼はこちらをニヤニヤ笑いながら見ている。建物の屋根が崩壊し、どこからともなく絶望的なうめき声が聞こえてきた。
シャーロットは唇を噛む。
(このままでは牧場全体が燃えてしまう……)
魔獣牧場はミースの希望の星。その輝きがたった一夜で消え失せてしまうなどということがあってはならない。
(けれど、私の魔力ではもう……)
シャーロットはすでに能力の限界まで力を使っていた。素材加工場には大嵐の時にしか見られないほどの雨が降り注いでいる。
それなのに炎の悪鬼は平気な顔をしているのだ。どうすればこの炎を止められるのか分からず、シャーロットは途方に暮れた。
(せめてバスティアン様がいてくだされば……)
シャーロットは魔力を二分割してバスティアンに分け与えた。今のままでもシャーロットの力は相当強いものだったが、この炎に打ち勝つにはバスティアンの協力が必要なように思えて仕方なかったのだ。
けれど、今彼はここにいない。いつ帰ってくるのかも分からなかった。
(バスティアン様……)
シャーロットは領主の打ちのめされた顔を想像する。もし出発した時は順調に運営されていた牧場が、帰郷後に灰になっていたらバスティアンはどう思うだろう。彼が悲嘆に暮れる姿などシャーロットは見たくなかった。
シャーロットは今の自分に打てる最高の一手を必死で考える。もっと水が必要だ。雨とは比べ物にならないくらいのたくさんの水が。
ふと、シャーロットの目が消火活動で使ったバケツに吸い寄せられる。
(確か……皆さんは近くを流れる川からバケツリレーで水を運んでいたのでしたね)
シャーロットの頭の中で、あるアイデアが閃く。次にシャーロットはティモを見た。
――無から有を作り出すのは簡単ではないのじゃ!
かつて彼はそう言っていた。無から有を作るのは難しい。それなら、すでに存在するところから必要なものを持ってくればいいのではないか?
シャーロットは懐を探る。迷っている暇はない。牧場が全焼しない内に何としてでも火を消さなければならなかった。
「バスティアン様、力を貸してください!」
シャーロットは懐から指輪の入った箱を取り出すと、中身を自分の指に嵌めた。バスティアンの指に合わせて作られたものなので、シャーロットには当然ブカブカである。落としてしまわないように指を折りたたんだ。
シャーロットの瞳がアクセサリーの頂点を飾る乳白色の石を捉える。御供石だ。シャーロットは結婚指輪にミースで採れた鉱石を使用したのである。
御供石はミースの危機を救う要の一つ。そんな石が領主の指で光り輝いている光景はさぞかし素晴らしいだろう。そう思って手ずから発掘作業を行い、成形と加工を職人に頼んで指輪にしてもらったのだ。
指輪を嵌めると、すぐ傍にバスティアンがいるような気分になった。プロポーズはまだなのにおかしなことだ、とシャーロットは心の中で笑う。
「水よ!」
シャーロットは力強く叫んだ。御供石が強い虹色の光を放ち、段々と小さくなって消えていく。それと入れ替わりで地を這うような低い音がした。
それまで余裕綽々だった悪鬼が顔を引きつらせる。誰かが「竜だ!」と叫んだ。
「まさか。ただの水だと言ったでしょう?」
シャーロットはニコリと微笑んだ。
上空から竜の形をした水の塊が牧場目がけて飛んできている。シャーロットの魔法によって川の水がここまで輸送されてきたのだ。
「さあ、勝負です!」
シャーロットは竜に指示を出すように手を振り下ろした。竜が顎を大きく開き、巨大な口で炎の悪鬼を丸呑みした。
ジュウウウゥゥ……
まるで末期の悲鳴のように炎が消えていく音がした。竜は体ごと燃える建物にぶつかっていく。辺りはビショビショになり、シャーロットも顔に冷たい水滴が当たるのを感じた。
「……勝負ありですね。私の勝ちです」
シャーロットは濡れたプラチナブロンドの髪を掻き分けながら呟く。素材の加工場や事務所の炎は見事に消え去っていた。あとには焼け焦げた建物の残骸が散らばるばかりだ。
「シャーロット、やったな!」
「聖女様が火を消してくださったぞ!」
「やはり聖女様にはできないことなんてないんだ!」
ティモたちがシャーロットの周りを囲む。その時、冷たい北風が吹き抜け、シャーロットは小さくくしゃみをした。
「誰か着替えを持っていませんか?」
シャーロットは苦笑しながら尋ねる。「もちろんありますとも!」と元気のいい声で従業員が服を取りに走っていった。
先ほどの竜を見た人たちが何事かと駆けつけてくる。
そんな同僚に対し、現場に居合わせた人たちはシャーロットの功績を嬉々として語った。話を聞き終わるやいなや、皆シャーロットを「ミースの救世主」と褒め称え始める。
彼らの賛辞を聞く内に、シャーロットは牧場に来て初めて緊張を解くことができた。
何はともあれ最悪のシナリオは回避できたのだ。これでバスティアンの打ちひしがれた顔を見ずに済むだろう。
安堵したシャーロットは賞賛を浴びせてくる人たちに向かって軽く手を振る。確かにあの竜はちょっとした見物だったと自分でも思ったのだった。




