凍てつく滝でのプロポーズ(2/2)
「シャーロット様、どうかわたしと……」
ピシリ、とその場に相応しくない大きな音がした。
思ったよりも氷が薄かったのか、バスティアンの足元に大きな亀裂が走っている。シャーロットは「バスティアン様!」と叫んだ。
割れる氷に足を取られる寸前で、バスティアンは横に飛び退いた。だが、亀裂はどんどん広がっていく。
「早く岸へ!」
バスティアンに言われるまでもなく、シャーロットは駆け出していた。途中で尻もちをついて滑るように氷上を移動していく。後ろから迫ってくる割れ目のことを考えただけで生きた心地もしなかった。
「はあ、はあ……」
やっと安全地帯まで辿り着いたシャーロットは地面にへたり込んだ。真冬だというのに体が汗ばんでいる。バスティアンは少し離れた場所で呆気にとられたように滝壺の方を見ていた。
今や氷のほとんどは砕けて、冷たい水の上にはガラス片のような浮氷が漂っていた。
「危ないところでした……」
シャーロットはフラフラした足取りでバスティアンの元に歩み寄る。
「バスティアン様、お怪我などありませんか?」
「は、はい。何とか……ああ!」
両手のひらを見つめたバスティアンが絶望的な声を出した。
「指輪がない!」
「ええっ!?」
どうやら逃げる時になくしてしまったらしい。バスティアンは辺りを見回したが、あの小箱はどこにも落ちていなかった。
「なんてことだ……!」
バスティアンは素早く立ち上がると上着を脱ぎ始めた。嫌な予感がしたシャーロットは「バスティアン様?」と恐る恐る声をかける。
「あの……何をして……」
バスティアンは上半身に身につけていたものを全て脱いで、逞しい胸を凍てつく外気に曝す。脚衣だけの姿になると見事なフォームで水中に飛び込んだ。
「バスティアン様っ! 冗談でしょう!?」
いくらバスティアンが激情家だからといって、指輪のために真冬の滝壺に飛び込むとは。あまりの無謀さに起きたことがすぐには信じられない。シャーロットは水辺に手をついて「バスティアン様!」と声を張り上げる。
「こんなことやめてください! 死んでしまいますよ!」
それから十秒ほど経って水面に顔を出したバスティアンの唇は紫色に変色していた。シャーロットは「早く上がってください!」と懇願する。
「指輪なんていりませんから! あなたの言葉だけで充分です!」
「それではわたしが納得できません!」
バスティアンはもう一度水中へ潜っていった。
その後も指輪捜索は続く。シャーロットが何を言ってもバスティアンは聞く耳を持たず、夜になっても魔法で水中を照らして探し続けようとする始末だ。
そんなバスティアンに対し、ついにシャーロットの堪忍袋の緒が切れた。
「バカ!」
岸部近くに寄ってきたバスティアンの頬をシャーロットは思いきり平手打ちした。
「さすがの私も怒りますよ! ご自分の命と指輪、どちらが大切なのですか!」
バスティアンは濡れた黒髪を額に貼りつけ、ぶたれた頬を手で押さえながら唖然としていた。
「もうバスティアン様なんて知りません! あなたみたいな自分勝手な方は嫌いです!」
シャーロットはバスティアンに背を向けて滝から遠ざかる。
(ここまで言えば、さしものバスティアン様も反省して指輪探しを諦めてくださるでしょう)
シャーロットは、今にバスティアンが自分を追いかけてくるだろうと思った。だが、彼は奇妙なまでに沈黙したままである。
期待した通りのことが一向に起こりそうにないために、シャーロットは焦れてくる。思わず肩越しに振り返ると、バスティアンは頬を押さえた格好のまま固まっていた。
「……バスティアン様?」
瞬きもしないその様子に不信を覚え、シャーロットはバスティアンのところへ戻る。彼の目の前で手を振ってみたが、何の反応も返ってこなかった。
(まさか……目を開けたまま気絶しているのですか?)
これは大変だと思い、シャーロットは苦労しながらバスティアンを岸に引き上げた。魔法で火をおこし、なるべく服の下を見ないようにしながら濡れた脚衣を脱がす。バイコーンに積んでいた毛布で体を拭いてやった。
「……っ!」
石像のように固まっていたバスティアンが意識を取り戻したのは、シャーロットが散らばっていた彼の服を集めている時だった。
バスティアンはきょろきょろと周囲に目を遣り、自分が腰に毛布を一枚巻いただけのあられもない姿だと気付いてひどく動揺する。
「何もしてませんよ」
シャーロットは慌てて弁解した。バスティアンは真っ赤になっている。身を縮こまらせて自分自身を抱きしめ、子ウサギのようにオドオドしていた。
「濡れた服を着ていると風邪を引くかと思いまして」
「え、ええ。もちろんそうでしょうとも!」
分かっていますよ、とばかりにバスティアンは首を縦に振ったが、顔は赤いままだった。
「本当にすみませんでした」
バスティアンはいそいそと服を身につけ始める。もう一度滝壺に飛び込んだらどうしようと思っていたシャーロットは彼の気が変わって安心した。
「どうやらわたしは悪い夢を見ていたようです」
バスティアンは外套のボタンを上までしっかりと留める。
「その夢の中でわたしはシャーロット様に……き、嫌いだと言われました。現実ではなくて本当に良かったです……」
「……ええ、そうですね」
また気絶されたら困るので、本当にあった出来事だとは言わないことにした。それに、あのセリフは彼に指輪探しを諦めさせるためのものであり、シャーロットはバスティアンが嫌いになったわけではなかったのだ。
「指輪はきっと、どこかへ流されてしまったのでしょう」
バスティアンは滝壺から伸びる川をやり切れなさそうに見つめた。
「わたしはまったく良いところなしですね。ご心配をおかけしました。こんなわたしでも嫌いにならないでくださるなんて、シャーロット様は本当にお心の広いお方です」
「……これほどまでにあなたに惹かれているのに、見限れるものですか」
シャーロットは傷ついたバスティアンをそっと抱きしめた。
「指輪なんてなくても構いません。どうかあの時の続きをここでなさってください」
「シャーロット様……」
バスティアンの腕が背中に回される感覚がした。
だが、次の瞬間にはシャーロットはバスティアンから引き剥がされている。
「そんなのダメです……!」
バスティアンは身も世もなく泣きじゃくっていた。両手で顔を覆って肩を震わせる。
「指輪なしの求婚なんて! もしそれで上手くいったとしても、わたしは墓に入るまで後悔し続けるでしょう! 愛を告げるのにその証も用意できないなど、情けないったらありません!」
またしても感情が高ぶってきたバスティアンはもう一度服を脱ぎだした。
「やはり指輪は必要です! これはわたしの誇りの問題です! あなたと歩み始める愛の一歩は完璧でなくてはならないのですから! それを叶えるためなら冷たい水底で息絶えても構いません!」
「それなら私が指輪を用意します!」
ロマンチシズムの行き過ぎも困ったものだと思いながら、シャーロットは叫んだ。マフラーを解いていたバスティアンの手が止まる。
「……シャーロット様が指輪を?」
バスティアンはきょとんとした顔だ。シャーロットは、これは随分とおかしなことを言ってしまったかもしれないと狼狽えそうになった。
だが、もうあとには引けない。シャーロットはふんぞり返る。
「そうですよ。私が指輪を用意しましょう。そして、私の方からバスティアン様にプロポーズします。私はかつてバスティアン様を幸せにすると約束しました。それを叶えて差し上げるんです」
これなら求婚する側とされる側が逆転しただけで結末に変化はないはずだ。バスティアンは呆然としたまま動かなくなってしまう。
(……もしかしてまた失神ですか?)
心配になったシャーロットだったが、今度のバスティアンはすぐに我に返った。
その時の彼の表情の変化は劇的だった。あまりに嬉しすぎて魔力を制御できなくなったのか、ヒマワリの花びらが雪のように空から降ってくる。
「シャーロット様がわたしに求婚を! 天にも昇る心地です! もちろん、『はい、喜んであなたの夫となります』とお返事いたしましょう! ああ、当日が待ちきれません!」
プロポーズの返事はもうもらってしまった気がしたが、シャーロットは聞かなかったふりをした。「正式な求婚」というバスティアンの楽しみを奪うのは心苦しい。
相談の結果、夜道を行く危険は冒さないことにした。山を降りるのは明日まで延期だ。バイコーンを連れて手頃な洞窟を探し、たき火と毛布で暖を採る。携帯食料を二人でちびちびと分け合った。
「シャーロット様がプロポーズ! シャーロット様がプロポーズ!」
色々あって疲れていたシャーロットだが、浮かれ放題のバスティアンは元気いっぱいだ。婚姻前の男女が同じ洞窟で一夜を明かすという状況の異常性には気付いてもいないらしい。
シャーロットは重くなる瞼を無理に開こうと努力しながら、「そんなに嬉しいのですか?」と尋ねた。
「もちろんです!」
バスティアンは魔法で炎を大きくしながら金の瞳を煌めかせる。
「実を言えば、先ほどのわたしは求婚が上手くいかなくてすっかり自信を喪失していたのですが……。シャーロット様のお気持ちを知って、落ち込むにはまだ早いと思い直したのです」
バスティアンが余っていた毛布をシャーロットの肩にかける。
「あなたに愛されていると分かった途端に、わたしもまだまだ捨てたものではないと思えてくる。やはりシャーロット様はわたしの女神なのですね」
「もう、バスティアン様ったら……」
勢いで求婚すると言ってしまったシャーロットだが、その決断に後悔はなかった。
(……ひょっとして、これが私の心の底からの望み?)
もう何ヶ月も前に、バスティアンから「もう少しワガママになってほしい」と言われたことを思い出す。
(なるほど……そういうことだったのですね……)
あれほど頭を悩ませていた問題が瞬時に解決するのを感じた。
(私は何としてでもバスティアン様と共にいたい。彼と幸せになりたい。そのためなら自分の方からプロポーズしてしまえと思うほどに……)
少々強引で強欲。けれど、そんな自分に嫌悪の感情を抱くことはなかった。代わりに、この望みは何としてでも叶えてやろうという闘志にも似た想いが膨れ上がっていく。
こんなにワクワクしているバスティアンを見ると、こちらも相当気合いを入れて臨まなければならないと感じ始めていたのだ。そこにさらなる意欲が加わったのである。シャーロットは身が引き締まる思いがした。
だが、計画を練るのは明日からにしよう。今は体力を回復し、山を無事に降りることだけを考えなければ。
そんなことを思いながら、シャーロットもバスティアンに負けないくらい、来たる日に向けて心を燃え上がらせていたのだった。




