あれだけでは満足できません!(1/1)
死の淵から生還したバスティアンだったが、普段通りの日常生活を送れるようになるまでには少し時間がかかりそうだった。
「バスティアン様、お食事ですよ」
昼食の載ったトレイを手に、シャーロットはバスティアンの寝室へ入る。部屋の主が読んでいた書類から目を上げた。
「シャーロット様! あなたまで配膳係に任命されていたのですか!? そのような些事は他の者にお任せください!」
バスティアンはベッドから出たが、すぐに床にへたり込んでしまう。シャーロットはトレイをテーブルに置くと、慌ててバスティアンの元へ駆け寄った。
「無理をしてはいけませんよ」
シャーロットはバスティアンの肩に腕を回して彼をベッドに座らせる。
「面目ありません」
バスティアンは恥じ入っていた。
どうにか命は取り留めたものの、バスティアンはまだ毒の影響を受けていた。立ったり歩いたりするのも難しいため、一日のほとんどはベッドの上で過ごしている。時には体の一部が麻痺したり、熱を出したりすることもあった。
だが、ティモによればそんな症状も解毒薬を飲ませ続ければその内治るとのことだった。シャーロットはほっとしたけれど、思うように体が動かせなくなってしまったバスティアンはもどかしい思いをしているようである。
「お仕事をしていたのですか?」
シャーロットはシーツの上に広げられた書類に目を遣る。
「病人なんですから治療に専念した方がいいと思いますけど」
「薬は決められた時間にきちんと飲んでいますよ。せっかくミースの経営が軌道に乗り始めたのです。領主が病気でも魔獣牧場の運営には支障がない。そう周りに思わせなければなりません」
「真面目なのは結構ですが、ほどほどにしてくださいね。毒の次は過労で倒れてしまった、なんてことになったら大変ですもの。こればかりは解毒剤もありませんし」
シャーロットは昼食のトレイをベッドテーブルに置いた。
「いただきます」
バスティアンが芋のポタージュを口へ運ぶ。シャーロットはスプーンを握る彼の手が少し震えていることに気付いた。
(早くバスティアン様のお体が元に戻ればいいのに……)
一日も早い回復を祈るシャーロットの顔に影が差す。バスティアンが食事の手を止めた。
「何か心配事でもおありなのですか、シャーロット様?」
「バスティアン様が早く良くなりますようにと思っていました。私にできることは魔法薬の作成くらいしかないのが心苦しいのですが……」
「そんなことはありません。あなたの薬でわたしは助かったのです。なんとお礼を言えばいいのか分かりませんよ」
「私一人の手柄ではありません。皆が協力してくれました。そのお陰です」
シャーロットはかぶりを振った。ふと、バスティアンが気遣わしげな顔になる。
「シャーロット様こそ、お体は何ともないのですか?」
図星を指されてドキリとする。
ここのところ休みなく解毒薬を作り続けていたため、シャーロットは疲れを感じていたのだ。一日の睡眠時間は薬を煮込んでいる間の数時間だけ。その貴重な休みさえ、領主補佐官や牧場での仕事のために潰れてしまうこともある。
だが、シャーロットは自分の不調をできるだけ隠そうと決めていた。今一番大変なのはバスティアンなのだ。こんな時に弱音など吐いていられないではないか。
(けれど、バスティアン様にはお見通しというわけですね)
シャーロットは苦笑する。
「私なら平気ですよ。激務には慣れていますので」
「……先ほど、過労には解毒剤がないとおっしゃった方のセリフとも思えませんね」
バスティアンはベッドテーブルを退けて、自分の背中から枕を引き抜く。
「こちらをどうぞ。少しは眠ってください」
「まあ……」
疲れ果てていたシャーロットは、その申し出に抗いがたい魅力を感じてしまう。幸いにも解毒薬のストックはまだある。ここはバスティアンの提案に乗ってもいいのではないだろうか。どうせならもう少し違った形で。
「では、お言葉に甘えて」
シャーロットはベッドの上に腰を下ろした。バスティアンの胸に頬を寄せる。
「……シャーロット様?」
「枕よりこちらの方がいいです」
バスティアンの体温でシャーロットは体がとろけそうになる。
あれだけ疲れを外に出すまいと気を張っていたのに、あっという間に眠ってしまいそうだ。バスティアンがぎょっとしたような大声を出さなかったら、そのまま夢の世界に直行していただろう。
「シャーロット様、きちんとベッドで寝てください! 風邪を引いてしまいます!」
「ここもベッドの上ですよ」
「そうだけど、そうではないです……!」
バスティアンはすっかり取り乱していた。シャーロットはクスクスと笑う。
「私の体が冷えるのが心配なら、バスティアン様が抱きしめて温めてください」
「そ、そんな……!」
「あら、この間はそうしてくださったではありませんか」
シャーロットはバスティアンが解毒薬によって蘇生した時のことを思い出していた。告げられた言葉が蘇ってくる。
――愛しています。
あの時のことをシャーロットはもう何度も思い返していた。
あれは間違いなく愛の告白だ。だが、シャーロットに思いを告げたあとも、彼はいつもと全く変わりなかった。
毒の後遺症に苦しめられている身ではそれも仕方がないのだが、こうしてシャーロットが大胆に歩み寄っても親密な時間を過ごそうとしないのは意外である。少し不満を覚え、シャーロットは水を向けてみることにした。
「バスティアン様、覚えていらっしゃいますか?」
「何をです?」
「あなたの目が覚めた時、私に言ってくれた言葉です」
シャーロットが顔を上げると、バスティアンの頬にさっと赤みが差した。
「ゆ、夢かと思ったのですが……」
バスティアンは掠れた声を出す。
「もしかしてわたしは、本当に口走ってしまったのでしょうか……。その……」
バスティアンは声を奪われたように口をパクパクとさせる。シャーロットは微笑みながら「私、とっても嬉しかったですよ」と言った。
「だって私も同じ気持ちなんですから」
「シャ、シャーロット様……」
バスティアンの金の瞳に炎のような情熱が宿る。けれど、すぐに我に返って「ダメです!」と言った。
「こんな大事な話を夢うつつの状態で済ませたことにしてしまうわけにはいきません! それにあの言葉では不十分です! きっとあなたを誤解させてしまいました!」
「あら、誤解だなんて! バスティアン様の気持ちはあの言葉だけでもよく分かりましたよ」
「いいえ、ダメです! ダメなんです!」
バスティアンは駄々をこねるように首を振った。
「あれだけではわたしが満足できません! もっときちんとした形で……自信と勇気を持ってあなたに伝えたいことがあるのです!」
バスティアンは真剣そのものである。愛の告白以上の何かを期待していなかったシャーロットは、少々困惑しながらも「分かりました」と返した。
「それならバスティアン様のお気の済むようになさってください」
シャーロットの返事にバスティアンは安堵したようだ。「わたしの体が元に戻ったら滝へ行きませんか?」と尋ねてくる。
「あなたを連れていくと言ったのに結局は行けず終いになっていました。少し遅れましたが約束を果たしたいです。ですが、こんな時期に水辺になど行っても寒いだけでしょうか……」
「平気です。バスティアン様と一緒なら行き先がどこでも嬉しいですよ」
バスティアンが何をしてくれるのかシャーロットは非常に気になっていた。その好奇心の前では水辺の寒さも取るに足らないことのように思えたのだった。
「では、約束です」
バスティアンは意を決したような顔でシャーロットのプラチナブロンドの髪に触れる。
「今はゆっくり休んでください」
「ええ、そうさせてもらいます」
胸の奥がぽかぽかと温かくなってくる。
愛する人に髪を撫でられる感触を楽しみながら、シャーロットは今眠れば良い夢が見られそうだと思って頬を緩めた。




