バスティアン、死す(1/1)
牧場での仕事の翌朝。シャーロットがバスティアンたちと朝食を取っていると、エドガーが食堂に現われた。
「お前……!」
バスティアンが血相を変えて椅子から立ち上がる。すさまじい怒りの形相にシャーロットは唖然としたが、エドガーは平然と「そうカリカリしないでください、兄上」と言った。
「今日はお別れを言いに来たのですから」
「お別れだと?」
「名残惜しいですが、そろそろミースを去る時かと思いまして」
エドガーの言葉にシャーロットは晴れやかな気持ちになる。同席していたティモとリルの顔も華やいだ。
(やはり、昨日の牧場見学が功を奏したのですね!)
聖女に任命されたり、第六王子の婚約者になったりしなくてもシャーロットの未来は明るいと分かり、エドガーもようやく諦める気になったのだろう。
シャーロットは席を立って「よくぞご決断くださいました」と言った。
「帰ったらグランツ家の皆さんにもよく言っておいてくださいね。私を聖女にするのは絶対に無理だと」
エドガーは微笑んだだけで何も答えない。右手をバスティアンに差し伸べた。
「兄上、仲直りしましょう。これで終わりなんですから、気持ちよく別れたいでしょう?」
「今さら何を……」
「まあまあ」
突然の嬉しい知らせに毒気を抜かれたような顔になりつつも、バスティアンは苦々しい表情で差し伸べられた弟の手を見つめていた。
バスティアンの気持ちも分からなくはなかったが、シャーロットはここはあえてエドガーの肩を持つことにする。
「いいではありませんか。ただの挨拶なんですから」
「礼儀は大事じゃぞ、バスティアン」
「ちょっとくらい譲歩しなよ。どうせ二度と会うこともないんだろうし」
皆に勧められ、バスティアンは仕方なさそうに弟の手を握り返した。
兄弟が握手する姿にシャーロットは頬を緩ませる。もうエドガーの顔を見なくて済むと思うと小躍りしたい気分だった。
(これでやっと私の気持ちをバスティアン様に伝えることもできそうですね)
やがて訪れるであろうバスティアンとの愛に満ちた日々をシャーロットが夢想していると、エドガーが「実は兄上にプレゼントがあるんです」と言った。
「こちらをどうぞ」
エドガーが懐から出してきたのは真っ赤な色をしたまん丸のリンゴだった。
「……まさか、城の果樹園に生えていたものか?」
「兄上、リンゴがお好きでしょう?」
エドガーが媚びるように言った。人の家の庭から勝手に果物を採ってくるなんて、エドガーは最後まで無作法な男だ。シャーロットは呆れ返ってしまう。
「わたしの好物を把握しているとは感心なことだな」
バスティアンは嫌味っぽく言って、エドガーからリンゴを受け取る。そのまま一口かじった。
シャーロットは「あっ」と声を上げそうになる。バスティアンが歯を立てる直前に、赤い実の表面に禍々しい骸骨の模様が浮かんだように見えたのだ。
けれど、瞬きするとそれは消えていた。光の加減だったのだろうか。
そう思った途端に異変が起きた。
「……っ」
バスティアンが胸を押さえて体を二つに折る。その手から落ちたリンゴが床を転がった。
シャーロットは怪訝に思って声をかける。
「バスティアン様?」
バスティアンがその場に崩れ落ちた。シャーロットは慌てて駆け寄り、彼の肩を揺さぶる。
「バスティアン様!? 一体どうなさったのですか!?」
バスティアンの顔は穏やかだった。まるで眠っているようだ。だが、その表情には蝋人形のように生気がなかった。
「シャーロット! バスティアンの奴、息をしておらぬぞ!」
ティモが泣きそうな声で叫ぶ。シャーロットは一瞬で血の気を失った。
不意に、食堂に哄笑が響く。
笑っていたのはエドガーだった。外套のポケットに手を入れ、シャーロットの腕の中で動かなくなった兄を面白そうに睥睨している。
「今日はお別れに来たと言ったでしょう、兄上?」
シャーロットはまっ青になった。「何をしたのですか……」と震える声で呟く。
「これだよ」
エドガーはポケットから白い粉が入った小瓶を取り出した。
「この外道! バスティアンに毒を盛るなんて!」
リルが金切り声を上げる。「うるさい小娘だ」とエドガーは肩を竦めた。
「バスティアン様、しっかりしてください! 今治療しますから……!」
シャーロットはバスティアンの胸に手を当ててそこから魔力を注ぐ。だが、エドガーは「無駄無駄」とシャーロットをあざ笑った。
「この毒は治癒の魔法じゃ治せないよ。兄上は俺に感謝してくれてもいいと思うけどなあ。ひどい苦痛を与えながら死に追いやる薬だって用意できたんだ。だけど、慈悲の心で眠れるように逝かせてやったんだから」
「誰が感謝なんて!」
シャーロットはバスティアンに魔法を注ぎながら声を張り上げた。
「何故こんなことをしたのです! バスティアン様があなたに何をしたというのですか!」
「シャーロット、そう怒らないでくれ。俺は悪くないんだから」
エドガーは毒の入った小瓶をしまう。
「ミースが豊かになったところでそれを兄上に管理できると思うかい? どうせ大きな失敗をやらかして何もかもダメにしてしまうのがオチじゃないか。だったらもっと相応しい人物にこの土地を譲るべきだよ。分かるか? 俺はここの新しい領主になってやってもいいと思ってるんだ」
「エドガー様が……?」
「だというのに、兄上は俺の申し出を拒否した。バカだよなあ。廃太子なんかより正真正銘の王族に治めてもらった方がここの領民だって嬉しいに決まってるのにさ」
「第六王子の分際で大きなことを言うでないわ!」
ティモがエドガーを罵倒する。
「シャーロット、バスティアンが盛られたのは恐らくカンタレラという毒じゃ。だとするならバスティアンはまだ死んでおらん。仮死状態になっただけじゃ。ただ、あの痴れ者の言う通り、魔法では毒の回りを遅くすることしかできぬ。解毒するためには強力な魔法薬を調合するしかない」
「ほう、博識じゃないか、庭師の獣小僧」
エドガーが小バカにしたように口笛を吹いた。
「私、魔法薬の作り方なんて知りません!」
シャーロットは半狂乱になって叫んだが、ティモは「大丈夫じゃ」と頷いた。
「我に任せておけ。あの毒は古くからあるものなのじゃ。解毒薬が作られるところを我は何度か見てきておる。材料を採ってくるゆえ、しばし待つのじゃ!」
ティモは尻尾をピンと立てながら部屋を出て行く。シャーロットは彼が戻ってくるまでの間、少しでもバスティアンを死の淵から遠ざけようと魔力を注ぎ続けた。
「なあ、シャーロット。本当にそいつを助けた方がいいと思ってるのか?」
揶揄を込めてエドガーが尋ねる。
「君も案外ワガママだなあ」
「どこがワガママなのですか!」
シャーロットは決然と言い返したが、エドガーは「分からないの?」と言う。
「本当にびっくりしたよ。兄上は一体いつの間に魔力を手に入れたんだい? 兄上は魔法が使えないから廃嫡されたのに、その前提が崩れてしまった。こんなの王宮の者たちが知ったら大騒ぎになるよ。きっと兄上を元の地位に就かせようとする人だって出てくるはずだ」
「バスティアン様は王位になど興味はありません!」
「周りがそれを許さないさ。待っているのは、血で血を洗う醜い王座の奪い合いだ」
エドガーがかぶりを振った。
「シャーロット、君って案外物分かりが悪いんだね。だから俺が誰にとっても一番いい解決法を教えてあげよう。兄上が死んでミースが俺のものになる。そして君は聖女になって俺と婚約するんだ。そうすれば君はゆくゆくは聖女兼ミースの領主夫人だよ。素敵だと思わないかい? この幸福な未来に繋がる最初の一歩が兄上の死なんだよ」
「……エドガー様。そんなものが本当に私にとっての幸福な未来だと思うのですか?」
「当然じゃないか。君は俺の言う通りにしていれば幸せになれるんだよ」
エドガーは傲慢に笑ってみせる。シャーロットは目を閉じた。
――あたくしはいつでも正しいの。あれはあんたの幸せを思ってしたことだったのよ。あんたはあたくしの言うことだけを聞いていればいいの。
かつてそう言って、シャーロットからあらゆるものを奪っていった者がいた。
結局のところ、その人が考えていたのはシャーロットの幸せなどではなく自らの幸福だけだった。エドガーも同じだ。彼はこう言いたいのだ。「今後は俺の幸せのことだけを考えて生きろ」と。
シャーロットは笑いたくなる。聖女の陰をやめたと思ったら今度は第六王子の陰になるのか。自分はどこまで屈辱的な目に遭わなければならないのだろう。
(……本当に惨め)
誰かに虐げられ、踏みにじられ、それが当たり前だと思っていた日々。日陰者としての遣る瀬なさが胸に蘇ってきたシャーロットは暗い表情になる。
けれど、それは束の間のこと。シャーロットはすぐに顔を上げた。
「私にとって何が幸せかは私自身が決めます」
シャーロットのオリーブ色の瞳は不屈の決意に輝いていた。
「あなたの考えを私に押しつけないでください。少なくとも私が幸せになるのにバスティアン様は必要な方です」
「何とでも言いなよ」
エドガーが背を向ける。
「兄上が死ぬ頃にまた来るよ。カンタレラの解毒薬は調合が難しいんだ。上手く生成できるとは思えないからね」
エドガーが食堂から出て行く。
シャーロットはバスティアンの治療に専念しようとしたが、リルが退室しかけるのを認めて、「どこへ行くんですか?」と尋ねた。やたらと険しい顔をしていたので気になったのだ。
「アタシは解毒の仕方なんて知らないからさ。別の方法で役に立とうと思って」
「別の方法?」
「大丈夫。心配しないで。上手くいけばあの第六王子には二度と会わなくて済むと思うよ」
リルが出て行く。少し気にはなったが、今はバスティアンの方を優先させるべきだとシャーロットは判断した。
「死んじゃダメですよ、バスティアン様」
エドガーの前では気丈にもこらえていた涙が頬を伝った。
「生きて、また私と一緒に……」
それ以上は声にならない。しゃくり上げながら、シャーロットはなおも魔力を注入し続けた。




