役者
深夜アニメで『推しの子』をみている。
最近は劇中劇の物語で、役者がちょこちょことアドリブを入れるシーンがある。
この作品はそれで良いのかもしれないけれど、作者になってみて、本番で勝手にアドリブを入れられたら嫌だなと思うようになった。
私は、昔から、正確に何かを模写する事が苦手だ。
だから、対外、オリジナル要素がにじみ出てしまう。
図画工作の成績は悪かった。
小説を書くときも、キャラクターが本番で粗を見つけてみたりして、話がまとまらなくなる時もある。
劇とかも、上手く演じることが出来なかった。
どこかに『私』がにじんでしまう。
だから、正確に演じられる役者が凄いんだと思う。
野球じゃないのだから、昼の部と夜の部で内容にばらつきがあってはならない。
だって、客は同じ金を出して、同じものを…その劇の唯一無二のスーパーエンディングをみたいのだ。
ストーリーゲームのように違う内容や結末は必要ない。
今ならそう思う。
でも、昔は私もアドリブを入れる方が凄いと思っていた頃もあった。
が、『ガラスの仮面』で演技に迷う主人公、北島マヤを見ながら、それは違うんだと思うようになった。
最近、弥助の件から、何でも黒人を主人公にする事に反発があるのを知った。
黒人の役者の出番を増やせと言うことらしい。
でも、ここで、なんか、頭がこんがらかってきた。
なぜなら、日本人は、様々な国の話を日本の話に改変してきた。
鎖国していた日本が、全く違う西洋の世界観を理解できなかった、そんな人達に、説明するのが難しい。
明治時代の人間に、シェークスピアの『マクベス』を娯楽で楽しませるには?
勿論、劇にするには、小道具も必要だ、だが、日本の貨幣は弱かったから、小道具を買い求めるのは難しいし、当時、細かい情報を入手するのも難しい。白人役者もいない。
そこで、時代劇に変えた。
確かに、すごい改変だが、これに非難はあまりないと思う。
実在の人物を使ったり、史実とか言わなければ。
逆に言えば、『忠臣蔵』をイギリスで日本の時代劇として描くのが難しいから、アーサー王の世界観で作る。みたいな話だ。
でも、最近の改変が非難があるのは、キャラを改編してしまうことにあるんだと思う。
こんな事を考えて思い出すのは、『ガラスの仮面』で引退した女優月影先生が演じた紅天女と女神だ。
月影先生は、申し訳にも若くはない。
いや、はっきり言って初老である。バーさんなのだ。
それを、今をときめく二大主人公のマヤ、亜弓を目の前に、伝説の女神を演じるって言うのだから、もう、びっくりだ。
バーさんが、10代の姿の超美麗の女神を演じるって、それを漫画で見せるって、どうやるんだろう?
みるまでは混乱した。
普通、こんなの無理だと思う。
見せられた方も、反応に困る。まさか、10代は無理ですとかは言えないし、苦笑いしかない。
これを漫画でやるというのだから、本を買う私も苦笑いしながら、ヤレヤレ気分で漫画本を開いた。
まあ、仕方ない。
月影先生の演技はともかく、あれだけ引きまくった『紅天女』の情報を、少しでも知りたかったから、それが知れたらラッキー位に考えていた。
が、これが凄かった。
さすが、一流が描く大女優だ。発想が違った。
月影先生は、能面をかぶり、能として『紅天女』を演じるのだ。
あれはビックリした。
そして、騙された気分だったのが、話に引き込まれて行く。
たしか、一巻分はあるボリュームタップリのエピソードだったが、飽きることがなかったし、紅天女について、凄く考えさせられた。
演じる…そこに、容姿や年齢は関係ない気がした。
演技に、人種や年齢、性別は関係ないのだ。
どう魅せるのか、引き込めるのか…
そんな事を考えさせられた。
それを踏まえて、考える。
例えば、紫式部を黒人の女優が演じるとする。
それだけなら、無理そうだけれど、御簾や扇、影を使い、顔を見せない平安の設定を上手く使う。
簡単ではないけれど、そういう事が演技なんじゃないかと考えた。
まあ、現代ドラマは、そう簡単では無いのだけれど。
まあ、日本の場合、外国人が醸す違和感を使って、あやかしを表現したりもするんだよな。




