ジョーカー
トランプで一番強いのはジョーカーである。
ジョーカーは道化。
世の中の仕組みから外れた…居なくても社会から問題視されない最弱の存在である。
しかし、何も持たないので、いわゆる『無敵の人』と言う立場でもある。
だからこそ、道化は王に意見をいったり、『いじる』事もできた。
弱いと言うのは、全く悪い事ではない。
私はブックマークも一桁だし、ある作品を抜かしては評価が100を越える作品もない。
底辺と言われるらしい。
でも、底辺だからこそ、漫画王と共作を作りたいなんて言えるんだと思う。
これを見た人も、それが殆ど叶わない夢だと知っているのだ。
だから、本気で批判やバカにもしてこない。
痛い行為だ。
書いてるこっちもそれがわかる。だから、痛い。
私はあんまり目立つ所に出るのは苦手だし、弁がたつ方でもない。
でも、夢は心に閉じ込めても叶わない。
外に発しないといけない。それが出来なくては、そこから先がないからだ。
恥ずかしいのは、発する夢が周りを動かす力が足りないからだ。
聞いてる人に、自分がやりたいこと、その熱が伝わらなければどちらにしても改変の成功はない。
最近の改編はそれが足りないのだと思う。
調べると、昭和でもドラマやアニメで原作者と制作者でもめてはいた。
手塚先生も、色々、ご苦労があったようだ。
それでも…なんとなく回っていたのは、時代が違うと言うこともあるけれど、何より、テレビは夢であり、混乱はあっても、見ている人の熱が後押ししていたのだと思う。
ドラマについても、ずいぶん前から宣伝された記憶がある。
テレビはもとより、雑誌などでも。
そして、俳優の人気がそれを後押しした。
今は、それが足りないんだと思う。
本に漫画、ネットにゲーム。娯楽はたくさんあるし、昔と違ってライフスタイルも様々だ。
情報はスピード感がもともめられるから、気がつくと、ドラマが始まり、終わっている…そんな感じがする。
視聴率も昔とは随分違うし、目減りした視聴率を海外配信で稼ごうとするから、ドラマに違和感が生まれ、逃げて行く人間も増えて行く。
なんだか、機械的に『仕事』としてドラマが作られて行くなかで、あんな事件がおこった印象を受ける。
あの事件が衝撃だったのは、同じ時期に脚本家の本音トークと呼ばれるものが情報として流れてきた事もある。
ネットの二次情報だから、どこまで本当かはわからないけれど、『原作は欲しいけれど、原作者はいらない』とか、そんな刺激的な言葉が流れてきた。
小説の脚本化と違い、漫画の場合、台詞も、衣装から、家の配置まで丁寧に描かれているのだから、やりやすいには違いない。
小説の脚本の場合、『今風の流行り服』とか、『軽いジョークの楽しい会話』と言った、ふわりとした表現を、具体的な会話やら、服にしなきゃいけないが、基本、漫画はそれを絵や台詞にしているのだから。
色んな話を聞いてるうちに、原作漫画はただの素材として…ジャガイモやトマトのように脚本家は考えている印象を受けた。
100万部…物凄くコミックが売れても『素材』なんだ(T-T)
確かに、ある程度、出来上がったものを加工する方が大量に作品を作れる。
普通、人気作家と言っても、一生に一作、凄いのが出るか、出ないかくらいだ。私なんて、一生書き続けて、二次選考にいけるかどうかだろう。
本が出るとしたら、私の生涯をかけた活動に読者が払うご祝儀みたいなものだ。普通なら、独りひとつのご祝儀を代わりに預かって、そこからいくらかもらって行く、労力は格段と少なく儲けられる。
勿論、これは原作からの視点で、脚本家や漫画家にしてみれば、料理に例えるなら、我々はシェフであり、素材だけでは表現できない、誰も真似できない+αを加算してると反論されそうだけれど。
ともかく、じゃあ、我々のコミカライズって、何を出版社は買おうとしてるんだろう?
今まで、自分の世界観を丸ごと評価してくれるのだと思っていた、世界観がガラガラと崩れて行くのを感じた。
下には下がいる。
私は…誰かの素材のために投稿してる訳じゃないのに!
と、嘆く自分のそのうらで、もう一人の自分が囁く。
素材を作るのが、面倒な社会なら、素材屋になれば良いじゃない。
ただの素材屋じゃなく、一流の…
今なら、もしかしたら、手塚治虫の作品に食い込めるかもしれない。
そう、ジョーカーは最強なのだ。
何もないから、大きな夢を語れる。
語れる場所があるなら、そこから、夢を膨らませることも出来る。
手塚先生が亡くなって、平成がマルッと行き過ぎていった。
そして、先生は、AIになって復活したはずだ。
改編は嘆くだけのものではない。
我々は、悲しい底辺作家と言うだけではないのだ。