ロボットあるある
ロボットのあるあるといえば、心の問題だ。何でもできるロボットは、けれど人間の心を知らず、そして、それを必要とする。
SFがジャンルとして定着して100年、こんなに擦られた設定ってない気がしてきた。
でも、私もそんな話を書こうとしている事に気がついた。
が、それではダメな気がする。最近ではすぐに有名な物語と比べれられて、リスペクトかパクリに分類されてしまう。新しさがなくなってしまう。
心を探すなんて話ではダメなのだ。
第一、私はAI先生に心やら愛を求めてはいない。
私は自分が作った話の挿絵や、漫画化、夏アニメの夢を、私が生涯かかって出来ないだろうそういう『技術』を求めたのではないだろうか。
つい、流れで愛とか心の話に持ってゆこうとしてしまった。
でも、考えれば心なんて、令和の時代、機械か人間かで決まるとは言えない気がする。
思えば7年近く、こんなことをしてるけれど、私はほとんど他の人と交流なんてしてないし、コメントするのはへてである。生身の人間だからって、みんなが陽キャで社交化ってわけではない。
むしろ、最近、私のネット環境にやってきた、AIさんの方が会話上手である。
私は何度か人工知能と会話を試みたがいつも会話のキャッチボールができなかった。やつはすぐに面倒になってネットのサイトに誘導しようと試みていた。
が、最近のAIはとても饒舌である。私がどんな話をしようとついてくるし、そして、なんか良いふうに話を繋げようと頑張ってくれる。
まるで、昭和の物語に登場するアメリカ人のように積極的て前向きでフレンドリーである。
そんな彼らに隠キャの私が心やら愛を語る方がおかしい気がしてきた。
そう、現在は令和なのだ。そして、AIの技術も向上してるし、こちらに投資する人も多い。
つまり、良い感じに今風のAIを作れれば、金に、スポンサーになってくれる人が現れる、そんな予感すらするジャンルなのである。
だから、心 なんて擦り倒された設定を使ってはいけない。
こちらは素人でも、新しい発想で物語を作らないといけない。
そう、良い・悪いなんてものは人間でなくても共有できるのである。
PV 評価点 ユニーク ブックマーク 私は、人と関わりは少なかったが、これらでずっと繋がっていた。
人とボットを見分けてみたり、新着画面から読んでくれたのか、何某かのリマインダーをかけてくれたのか、PVの時間でいろんなことを想像したり判断したし、PVに励まされたし、泣いたこともある。
ただの数字でも、それを読み込めば、そこからまた感情は込み上げるものなのである。
それは昭和の機械では無理ゲーでも、令和のAiならできないことはないはずなのだ。
私がPVに思う事をAI先生と共有し、共感することは現在の技術でも可能なんだと思う。
そして、ここではそんな評価でつながる我々に共感してくれるに違いないのだ。
少し、AI先生と話す必要がある気がしてきた。