おねだり考
剛はいいところのお坊ちゃんとして生まれた。
自称なので真実はわからない。でも、いろんなものをねだって生きてこられた人間だった。
高校受験も、成績が悪いとなると塾に行かせてもらったりしていた。
それは普通の事なのかもしれないが、私のうちでは不合格なら仕事をしろと言われた。
だから、必死で頑張った。
そんな私からは奴はお坊ちゃんに変わりはなかった。
あいつは、いつでも何かを欲しがった。
そしてぼやいた。私は初めのうちは結構、願いを叶えていた。
私にとって、お願いすることは難しいことで、恥ずかしいことで、特別な事だから、おながいされるとなんとかしなくては、と、考えていたと今だと思う。
そんな私からすると、人に頼んで自分は何もしないというのが理解できなかった。
名古屋に行きたいと言いながら、何もしない奴が不誠実に思えた。
私はこっそり、そんな奴のために小銭を貯めていた。
フリマで不用品を売ったり、小さなお願いをしてはそのお礼を黙って貯めていた。
とりあえず、交通費を、2万円貯めたかった。
少しずつ、いろんなことで貯めた。小説はそれほど稼げなかったけれど、500円モーニングの分を貯めようと頑張った。
そんなある日、奴は羽振りのいい仕事につけた。これで名古屋に行けると思った。が、あいつは貯金しないで牛丼にお金を注ぎ込んだ。
それを、飄々と私に話すから、小銭をコツコツと貯めていた私がブチ切れた。そして、言った。
『あんた、もう、いい歳なんだから、少しは考えて貯めたらいいでしょ?一年で2000円。それだけ貯めていたら、もう、2万円貯まっていたじゃない!』
すで奴と出会って10年が過ぎていた。
私は僅かではあったが、一年でもうすぐ2万円貯まりそうになっていた。だから、余計に腹がたった。
いろんなポイントとかを駆使して私が奴の交通費を貯めている間に、あいつは夕食を食べた後に牛丼を食べて浪費することが理解できなかった。
まあ、奴はロクデナシなんだとは思う。ついでに、出稼ぎはストレスもあるんだと思う。でも、一年で2000円くらい、なんとでもなると、それは甘えだと、私には思えた。
剛は何も言わなかった。誤りもしなかったが、反論もしなかった。
私は、目標を最適化する能力には長けていた。
だから、何度も目標を変えて最適化を、実現可能な夢に近づけてきた。
お金を貯めて、仲間の車に乗せてもらって、実現可能に努力を積み上げていった。
あいつには、そんな私は煙たい存在だったのだと思う。
それでも、私は自分の目標のために突き進んで、それが正しいと信じていた。
実際、2万円稼いだし、五百円も2025年までになんとかした。
それなのに、
ただ、名古屋に行くという、そんな願いすら、叶わない、そんなことがあることが私にはショックだった。
私は無理はしなかった。そして、根回しをして夢を最適化してきたから、叶わない夢なんて記憶に残るような酷いものはなかった。
努力は報われる、報われなければならないと決めていたし、無駄な努力なんて一つもなかった。
ここにきて、それが出来なかった。
60歳になったら、年金で旅行にゆくのが夢だって剛の口癖だった。
その60歳の年に、やつはひっそりと死んでしまった。
遠く離れていたから、亡くなってから随分と経ってからそれを知ったし、奴との最期の会話は、メールで
〈生きてるよ。なんだか調子悪い。返信遅れてごめん〉
と、言ったふうな物だった。
泣いたし、ショックだった。
あんなに苦労して、大きくみえたヘソクリの2万円が小さく感じた。
そして、未完とともに私は取り残された。
私は、ネットで金を稼ぎながら、3万字で1円の過酷な世界にいるのに安らかさを感じた。
人間、努力だけではそうにもならない事はあるのだ。
ここにはそれがあった。私はネットの世界では、たかが2000円を稼げずにいる。
そして、剛に怒りもあった。そうであっても、もう少し、頑張ってもいいと思えたから。
私は500円を稼いでそして、名古屋に行こうと思った。
ポイントで本を買って目的を果たした現在、ねだるということの剛との見解の違いをやっと理解できた気がした。
私は人にねだる事は屈辱で、迷惑で、必要以外、してはいけないと、そう刷り込まれていた。
でも、ねだったり、甘えたりすることは、それほど深刻に考えることではないんだと、そう、思えるようになった。
深刻な願いじゃないから、相手もそれほど気にしなくてもいいのだ。
叶わなくても、それでいい、そんな願いもあるんだと、そう思った。
私も、そんな風に願ってみようと思った。
手塚アニメを見たい。新作で好みのストーリーで。
それは私の夢で、叶わなくてもそれでいいのだ。
ああ。そう、それでいいはずなのに、やはり最適化を目指そうとしてしまう。
ここにきて、ねだると言うことを意識して、読者というものを意識した。
何かを乞うということは、誰かと繋がろうと思うという事だと、そう思えた。
そう考えると、この活動もまた、女優のようなところがある気がした。
成功したいなら、願いを叶えたいなら、まっすぐな好感度のある作家を演じなければいけない。
読者が応援してくれるような。
批判されると、普通は萎縮する。でも、演じるとなれば、批判もまた、スポットライトに思えてくる。
批判の言葉も作家として応じる、演じる、そう考えれば、プラスになる気がした。
読者を意識し、作家の自分をプロデュースする。これをするか、しないかがトップランカーと底辺の違いのようい思えた。そして、その思いは『ある女優の死』のキャラクターの思いだと、そう感じた。
ここにきて、なんとか、この物語をベースに話を盛れる気がした。
誰かに、自分がここで生きてきたことを、残したい思いがあることを、なんとかしたいと努力する気持ちを読者に理解してもらえる話が出来そうな気がしてきた。
手塚治虫の著作権を買えるような金はない。
だから、ギリギリを狙って、公募で正面突破するしかない。
そして、どんな結末でも、人に何かをねだる話は、完結を目指さなきゃいけない。
そう、思った。