蜘蛛の糸
『蜘蛛の糸』芥川龍之介の名作である。現在の国語の教科書にあるかは知らないが、子供の頃、私は考えた。
おっと、その前にあらすじを少し。
蜘蛛の糸とは、地獄に落ちた悪人が、生前、一度だけの善行により、ワンチャン、天国へと登れるというチャンスをもらえるのだ。
その善行は蜘蛛を助けたという行為なので、蜘蛛の糸が地獄へと降りてくるのだ。
悪人はその糸を辿って天国へと登ろうとする。
そして、天国の光が見える頃、地獄の亡者がその糸を辿って登ってくる。
地球上で最強の繊維と言われる蜘蛛の糸。しかし、この人数でキレそうになる。
さて、悪人はどうするのか?
この話は、たびたび、考えるテーマだった。
人生のいろんな場面で考え方が変わる。
皆んなを救おうとするべきか、それとも初めから登ろうとはしないか(蜘蛛の糸である。その先には蜘蛛がいるということだ。クトゥルフ神話の世界観なら食われてる気がする。
webで小説を書き始めると、天国がトップランカーに見えてくる。
さあ、問題だ。
ここで、誰か、人気と人徳のあるトップランカーか、人気のスコッパーが私にワンチャンの蜘蛛の糸を投げてくれたら…
そう考えると、簡単に極楽への、トップへの蜘蛛の糸なんて掴めるのか、躊躇する。
上に行けば、ブックマークや評価をもらえると思う。
でも、貰い物が多く慣れば、それを返さなくてはいけなくなる。
それは、更新であり、チャラクターの幸せだったり、感想がえしだったりする。
そして、明る場所に行けば、敵とも戦わなくてはいけない。
批判に笑顔で、誠意と夢という名の剣で戦わなくてはいけない。
面倒臭い。そして、更新しないといけない。
そう考えると、極楽っていうのも、地獄より大変な気がしてくる。
発言から、行動、ファッションなんかも気を遣わなくてはいけなくなる。
面倒くさいのである。
私は活動するほど未完が積もる。
賽の河原の餓鬼のように、何度も泣きながら小説を積む。
積んだところで問題が発生、またやり直し。
でも、あのきらやかな書籍化作家の仲間入りするのも、想像すると恐ろしい。
一次選考にも残れない身の上かrすれば、書籍化した作家は、一冊だけでもすごいと思う。
羨ましい。さぞかし誇らしいと思うが、彼らからすると、今度は、アニメやコミカライズと上の人間との戦いが待っている。
万年底辺と言われるのと、一発屋と言われるの。どちらが辛いことだろう?
そう考えると、極楽というのも、怖いところに思えてくる。
私の世代は、よく、ハスの花に人生を例える。
泥の中に落ちても、ハスの花は美しく咲き誇るのだと。
でも、味方を変えたらまた違う。泥は悪いものではない。栄養が豊富な西部他の楽園である。
ハスは農家の収入源になるから、ハスの落ちる泥は、高級で栄養満点な泥なのだ。
この、優しい泥の世界から、栄養の少ない水辺へと茎を伸ばすのは、結構、辛いことのように思えてくる。
私の思いは、極楽まで辿り着くだろうか?
多分、それは無理な気がする。
『蜘蛛の糸』の悪人の様に。糸を切ろうとそうしなかろうと、実力がない人間は極楽もまた地獄。
でも、蜘蛛の糸、切るか、登るか、どちらかしか、選択がないのだろうか?
ここは、天国から地獄へと極楽アイテムを引っ張り込む。という第3の選択もあっていいんじゃないだろうか。
そう、我々には二次小説とういう文化がある。
二次の枠に好きなイラストを使われてもらえるように働きかける。これもまた、地獄の選択じゃないだろうか。
なんて、考えも浮かぶこの頃。
でも、そんなもんは、まず、極楽を目指して糸を上る亡者を増やしてから考える事である。
なんだかんだと言っても、みんな正面突破の物語が大好きなんだから。




