吐露する治療法
カウンセリングを受け始めた時には、彼は別の街へ仕事で行くようになって、月に一度か二度会いに来る程度になっていた。
通院初日の夜、どこかぼーっとしたあたしの姿を見て長女が不安げに聞いてきた。
大丈夫なのか、と。
なので、病院でされたアドバイスを説明して、協力をお願いした。
自分だけでやれる自信はなかったのと、それまでと違う行動をしている母親を見ていたら心配かけてしまうかもしれないと思ったからだ。
深くうなずいて、理解と協力を約束してくれた長女。
次女と三女にも大まかな話をして、小さな不安を消せたと思うことにした。
実際どうだったかなんて、時間が経過しないとわからない上に答えは娘たちの心の中にしかないんだから。
まわりへの周知をしてから、あることに気づく。
別の問題がまだ残っているという事実に。
先に書いたように、本人=彼がいなくてもいるような感覚が消せなくて、どこかバグった状態になってしまうのが終わらない。
彼に会う、話す。その機会が明らかに減ったというのに、心が、記憶が、それが嘘だと言っているよう。
『彼は、今でもそこにいる』
がんじがらめに縛りつけられていた、過去の自分がいつまでも消えない。
消せない。
「どうして? もう、隣に寝ていないのに。奥歯を噛みしめながら抱かれることも、なくなったはずなのに」
――眠れない夜は、なくならない。
うなされ、泣きながら飛び起きる夜もなくならない。
ただただ限界が来て眠る夜があるだけ。
生活改善が進んでいるのかどうなのか、目に見えないものだけに不安な日々を過ごす。
その次のカウンセリングの時にも、いろんな話をした。
それまでに自分がしてきた、自分の気持ちとの向き合い方や吐き出し方。
彼にだけ特化した愚痴ブログを書いて、なるべく家の中に持ち込まないようにしていた。
それでもあっという間に愚痴や不満が溜まるので、どうしても残ってしまう時はある。
そのことも担当医に話をすると、どこか驚いた表情をするので首を傾げた。
「なにか変なこと話しちゃいましたか?」
と、疑問をそのままぶつける。
担当医は「うーん」とすこし唸ってから、「実はね」と前置きをして説明をしてくれた。
それは、こういった事例の治療法についてだ。
心の中に何を抱えていて、何がストレスで、どう恐れているかなどを把握することが治療には大事で。
普通はそのための情報を本人から引っ張り出すのが難儀で、自力か他力=医者があの手この手で引っ張り出す。
引っ張り出すというよりも、治療対象者本人に傷つけられた相手への意識を持たせるのが大変というか厳しいという。
あたしは眠れない体にした諸悪の根源について、自分の意思で自ら場所を作って吐き出して、記録として残していた。
担当医曰く、「その方法は心に痛みを伴う方法だから、いよいよの時にならなきゃ選択しないんだよね」という内容だとか。
「心が傷だらけなのに、そこにその傷を開けということを強いれないのが普通でしょう?」とも言葉を続けた。
「なのに、あなたはそれを自分で必要として、その場所を作った。そして、無意識のままでその治療法を行っていた。本来であれば、ここから何年かかけてするはずの治療法を。……ちょっと、なかなかそういう人いないから驚きすぎちゃって」
そんな治療法があると知らなかった。
それに、向き合っていくつもりでブログを立ち上げたわけではなかったし。
そんなにお客さんが来るわけでもない、鍵垢に近いブログだろう。
でも、その精神状態でその治療法が自力で叶えられたのは、きっとその時に自分が抱えていた別の病気が理由だろう。
解離性同一性障害。
彼と出会う前の、最初の旦那さんとまだ戸籍上のつながりがある段階に発症したソレ。
その旦那さんが出張で留守の最中に起きた、拉致軟禁事件とその後に起きたストーカー事件。
警察に相談も出来ず、旦那さんに知らせることも叶わないままに悪化していった“ソレ”は、その後の人生にいろんな影響を与えていく。
本当ならば、一番気づいてほしくて、一番向き合ってほしかった相手。
それが最初の旦那さんだ。
あたしに起きたことに気づかないで、出来事が起きる前と変わらない態度で「ただいま」と言われ。
自分のせいじゃないのに、罪悪感で胸がいっぱいになった。
苦しさを隠しながら、「おかえりなさい」と返す。
顔を見るたび、会話をするたびに幾度となく告白しそうになりながら。
息苦しさを抱えても、笑って過ごす。
矛盾が日に日に色濃くなっていく。
自分だけで解決できないものにぶつかったまま、どこかに逃げたい気持ちが生まれたのかもしれない。
この痛みから逃げたい。誰かたすけて……と叫び出したい気持ちが、事実を隠そうとする自分の何かを引き裂いた。
きっと。
一昔前の言い方でいえば、多重人格者になってしまった。
意図しないことや認識出来ないことが、日々重ねられていった。
何かが起きていても、誰かにそれについて問われても「あたしは知らない」と返す以外なかった時期。
記憶にないのだから、嘘ではない。
年単位でその病気を抱えていくと、どこか自分が分離している感覚を理解していく。
違和感を早い段階で感じていても、知ることが怖かったのは事実だ。
そして、自分だけで向き合えるとも闘えるとも思えなかったから、きっとどこかで見ないふりをしていた気がする。
後でその状態を調べてみると、それは一種の自己防衛だともいえると書かれていた。
あれ以上、自分を壊したくなかったんだろう。
目覚めれば、本当に抱かれたい人はそばにいない。
見知らぬ誰かが「おはよう」と笑う。
自分であって自分じゃない時に出会ったのに気づき、嘘の笑顔で「おはよう」と微笑む自分がいる。
心の中で「アナタハダレ?」と呟きながら。
普通じゃないことを、まるで痛みを知れといわんばかりに繰り返し見せつけられたあの時期。
異常ともいえたあの頃に、愛おしくて触れたい対象=最初の旦那さんに会えたのは何回だろう。
どんな話をしたっけ?
思い出せるだけの会話はなかったと思う。
そして、妻の違和感を見つけられる場所にいなかった旦那さん。趣味に没頭し、あたしへの興味もなかったようだった。哀しいことに。
見つけられるだけの時間一緒にいなきゃ、話していなきゃ……無理。
でも一緒にいても、どうにかして隠したかもしれない。
その頃には、とうに肌に触れることなどなかったのに、彼への想いを抱えながら。知られるキッカケなど、存在し得なかっただろうに。
愛していない誰かに抱かれていました、とか言いたくない。
誰かの使いまわしみたいに思われたくなくて、きっと言えないままで。
一番抱かれたいのは貴方だけなのにと、泣いても許されない罪を告白するだなんて。
――――揺れる。
何度も……。
葛藤に揺さぶられた。
途切れ途切れの記憶を感じ、誰かがしたナニカを共有している感覚に吐き気がした。
分離する自分を認識し始めた時期だ。
時々、ふわふわしたどこかにいて、テレビか窓越しに誰かを見ているような不思議さを感じて。
見ている相手は、自分なのに。
その感覚のせいなのか、彼にされていることがモラハラだと心身ともに痛みを伴っていても、その出来事を思い出しながらブログを書くことに抵抗がなかったんだと思う。
実際、書いていた時に自分自身だったかは定かじゃない。分離している感覚の中で、他人事のように自分の傷を吐き出していた気がする。
書きながら心が何度も軋んだりもしたのに、書くことへの抵抗はいつまでも感じられなかった。