第八章『田波との会話』
夕食後、僕らは大部屋でくつろいでいた。
田森は用事があると言って、大部屋にはおらず、僕は暇つぶしにと『妖姫伝説』の資料を斜め読みしていた。
「なあ、この村の神社ってどこにあるか知ってるか?」
僕は斜め読みしていた文献から目を離し、傍らでノートパソコンのディスプレイと睨めっこしている田波に訊ねた。そのパソコンは田波の所有物で、この村に持ってきた主な目的はデジカメで撮った画像の編集である。
「この村にはじめて来た俺に聞くことか? そんなの地図を見れば載ってるだろ」
田波はパソコンから目を離し、僕へ呆れたような視線を送ってくる。
「地図を見ても載ってないから聞いたんだけど」
「そりゃ、地元のヒトに聞いたほうがよくないか?」
田波が言ってるのはごもっともで、僕もそれは思っていたことだ。
「でもさ。だいたいどんな小さな集落でも神社の一つはあるもんだろ。それが地図に載ってないってどういうことなんだ?」
それが僕の浮かんだ疑問であった。あと祭事なども大体にして、神社で行われるのが普通だ。つまりイベントが多くある場所であり、観光名所にもしやすい。それなのに地図には載っていない。それはどうしてなのだろうか。
この村に神社がない。あるいは載せられない理由がある。あるいは――
僕はそんなもの思いに耽っていると、田波がいきなりパソコンに向かって、嘆息した。
何事かと僕は彼に視線を向けてみる。しかし、答えは一向に返ってこない。そのため自分から聞くことにした。
「どうかしたのか?」
「……クモがいない」
「クモ? クモってあのクモ?」
彼が言ってるのは、空に浮かぶ雲ではなく、節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目のことだろう。つまり八本足で、糸を吐きだして、家の外なんかで巣を張ってるあの生き物のことだ。ちなみに、この長ったらしい名前は田波の入れ知恵である。
「そうだよ。せっかく田舎に来たからデカイのを撮影しようと思ったのにさ」
田波という男、普通に一緒にいるぶんは人畜無害の目に入れても痛くないという好人物なのだが、無類のクモ好きという非常に変わったところがある。そんな彼だが、彼のワンルームマンションに訪れてもクモを一匹も飼っていない。理由は世話が面倒だということらしく、彼の場合はクモを撮影することに喜びを感じているらしい。
そんなわけで彼の部屋を訪れるとクモの出迎えはないが、クモの写真集を見せつけられる。どちらかというと後者のほうがマシだと言えるのだろうが、どちらにせよ見せられて気分のよくなるものではない。
実際に僕は何百枚にも渡ってクモの写真を見せられ、その日に夢に出てきたという恐怖体験もあった。そんなわけで、あれ以来僕は田波にクモ関連では近づかないように心がけている。
「そいつは残念だったな」
「そういやさ。この村に来てから動物を見てないんだよな」
「まさか。暑さでボーッとしてただけだろ」
「じゃあ、お前はこの村に来てからどんな動物を見た?」
そう言われて、僕は首を捻る。そういえばどんな動物を見ただろうか。誰かがイヌを散歩している場面に出くわしたわけでもなければ、吠えられたわけでもなく、スズメが電線の上に止まっているのを見たわけでもなかった。
だが、そんな日常的な風景をいちいち気に止めないのもまた事実というもので、ましてやこの暑さは、そんなことさえも視界の片隅に追いやってしまうほどの力を持っていた。そんな大きな力に僕が抗えるわけもなく、だから僕は気づかなかっただけだと思っている。
「そりゃ俺もボーッとしてただけかもしれないけどさ。でも、仮にこの村に動物が一匹もいないとしたらさ。この村に住んでいるヒトってなんなんだろうな」
「なんかの謎かけか?」
「そんな難しいことじゃなくて、ふと浮かんだ疑問だよ」
ニッカリと気持ちのいい笑みを浮かべる田波に、僕は肩をすくめるしかなかった。