第一章『プロローグ』
神名村へ行くには、K府の駅から電車で二時間、そこからさらに一日二往復しかしないバスに揺られて三十分かけなければならない。
大学生になって三回目の夏――僕らは大学の課外授業と称したゼミ旅行に、僕らのゼミの指導者である玖木晃三教授に引率してもらい、この村へ来ていた。課外授業の内容はフィールドワークだ。
フィールドワークといっても、僕らの分野は伝承や神話を主に研究するもので、村の人から昔話を聞いたり、この村の資料館に眠っている文献漁りなどが主である。地味だと思われるかもしれないが、研究というのはそもそも地道なことの積み重ねなのである。
話が脱線したが、そこで得た資料をもとに論文を作成し、夏休み明けのゼミで発表することが決まっていた。とは言ったものの、息抜きをしてはいけないとも言われていないのもまた事実である。のどかな田舎の地で、命の洗濯というやつだ。
皆も頭の中は、遊ぶことで一杯だろう。勉学そこそこ。遊びに本気こそが学生の本分であるという心得が皆一様にあるのだ。
僕らがバスを降りると、冷気によって守られていた空間が一変し、うだるような熱気が襲いかかってくる。
「雲一つない空だな……」
僕は自分にしか聞こえないくらいの声量で、そう呟く。真っ青な空に太陽を遮断する術はない。そんな僕らは照りつける太陽に文句を垂れるだけだ。
「クモ? この村にはクモ一匹いませんよ」
この村の観光協会のおじさんは、不思議そうな表情を浮かべながら、僕らにそう言ってくる。どうやら僕の独り言が少しだけ耳に届いたらしい。
「ところで、鈴木は玖木教授の鞄を見たか?」
そう軽々しい感じで、僕を呼んだのは田森滋である。その口調通りの外見をした人間で、ノリがよく、僕らのゼミのムードメーカーである。
「ああ。あの無駄に馬鹿でかい鞄だろ。なにが入ってるんだろうって、ときどき話題になってたよ」
「もしかして死体でも入ってるのかもよ? ミステリーでよくあるだろ。死体を鞄に詰めて、人里離れた山とかに捨てるってやつ」
「それ、岡島さんも言ってたよ」
「うへぇ。マジかよ……」
岡島さんというのは、この田森の彼女である。二人は旅行前にケンカしたらしく、そしていまも継続中である。おかげでゼミの空気はすこぶる悪かった。
「そういや班分けは、男女半々にしようねって話はどこに行ったんだろうねぇ?」
僕はジト目で、田森を見た。
「俺のせいかよ?」
「原因なんかどっちでもいいんだよ。とりあえず、さっさと謝ればすむ話じゃないか。岡島さん、電車やバスのなかでも結構お前のこと見てたの知ってるだろ? あっちも仲直りするきっかけを探してるんだよ」
「うっせい。他人の恋路に口出しすんなよ」
僕は意地を張ろうとする、田森を呆れた視線を送る。
「ところで! なんの伝承について調べるんだっけな?」
田森は白々しく話題を変えてくる。僕もいい加減にこの話のことは、忘れたかったので、田森に乗ることにした。
「『妖姫伝説』だよ……」
観光協会のおじさんが旅館に着いたと言ったのは、ちょうどそんなタイミングである。
八月のはじまり――夏が本番を告げていた。