ゼロ距離
早朝だと錯覚する程、暗い空を一点明るく照らす月は真っ赤で、あの山を越えれば触れそうなくらい大きかった。山を切り崩して作ったこの街では、山々に威圧的に囲まれているわけだが、その山と山の間に赤褐色の月がすっぽりとはまっている。私はなんとなく携帯をだしてパシリとシャッターを切った。
「嘘みたいな写真撮れた」
なんと言ったか曖昧だが、なんとかとかいうこの月は巷で大きな話題を呼んでいる。ニュースなんか月の話題で持ちきりだ。たかが月、と思った。それなら、いつもの小さく謙虚にぽっと光るあの月の方が私は美しいと思う。
月と正反対の方向にある泉ヶ岳スキー場の光が、急な山の輪郭を描いている。ここだよ、僕たちはここにいるとでも言いたげな光。冬の真っ暗な空に浮かぶあのスキー場の光が好きだ。冬が来たような感じがする。
ポン。ゆーすけさんがいいねしました。「嘘みたいな月」の写真は君を先頭に25くらいのいいねがついた。
ああ、溶けそう。
溶けそうだ。
冬は全てを凍らせてしまう。
は?と思ったあなたも、すこし聞いてほしい。
冬は道路を凍らせる。凍った道路、特に石階段なんかでは滑りやすいよね、危ないよね。私も今朝滑って痛めた尻がまだ痛いんだ。
冬は時間を凍らせる。氷柱。水溜り。動かない空。過去の私が吐いた息が白く残る。時間が凍ったみたいだ。
過去が音を立てて凍って止まり、私は過去のうえに立っているような気分になる。
冬は心を凍らせる。触ればシャーベットみたいな音がなりそうな心。センチメンタルと言おうか、切なげに、あまりにも青い空に感傷に浸ってしまうのは冬の性。だと思うんだ。
君もそう思うでしょ 分かるでしょ。夏生まれの君にもきっと。
焦らさないで言おう。この冬を溶かせるのは君だ。うっとおしいほどストーブの暖かさと黄色のカーテンから透ける午後の光に包まれて、気怠く、時間が凍ったみたいに1分も動かずもうこのまま一生続いてしまうんじゃないかってくらい長いあの時間。たかだか20分と侮る勿れ、夏とは比べものにならない帰り道の長さ。それを溶かせるのは君だ。あんなに、凍ってしまったみたいに長い時間が、君と一緒にいると一気に溶けたみたいに早く感じる。あんなに長い帰り道が、君と一緒にいるとちょっとそこまで、みたいに感じる。氷をあったかい部屋に持って行って溶け切る感じか、冷凍の豚肉をチンしすぎて焦がしてしまう感じか・・・。
「おーい、ぼーっとすんなよ」
君が言う。私はハッと我に返って君の顔を2秒見た。ごめんなさいといって笑ってみせる。君も笑う。溶けてしまいそうだ。君は暖かい。君がさっきまでいた場所にピックが落ちている。まるで小さい頃やっていたゲームで倒したらドロップするアイテムみたいで笑ってしまった。緑色の小さなピックを手で包んで君のところへ駆けた。
「あの、落としましたよ」
振り返り、ハッと気付き、まったく俺のドジとでも言うような顔をして受け取る。「ごめん、ありがと」ひひっと笑う。私はそのひひっが好きだ。君の手がー暖かすぎる君の手がー私の手に触れる。寒さで芯まで凍ったように冷たい私の手が触れたところから溶けそうになる。今の状況をサーモグラフィーでみたら、真っ青な私の手が、暖かすぎて白になった君の手が触れたところからぽうっと赤くなるだろうなと想像した。私は顔まで溶けて、赤くなった。やっぱり溶かすんだ、溶かせるのは君だ。
「手ぇ、冷たいね」
「先輩の手が温かすぎるんです」
「それもある。手が冷たい人は心があったかいって言うよね?」
「だったら先輩は・・・」
先輩は・・・君は心が冷たいとでも言うのですか、君は心が凍ってるとでも言うのですか。
私は不意に昨日の夜みたあの赤い月を思い出した。触ったらあちっと言ってしまいそうなあの赤い月は、
早朝だと錯覚する程、暗い空を一点明るく照らし、真っ赤で、あの山を越えれば触れそうなくらい大きかった。
山が後光を置いていて、太陽が隠れているのかと思って歩くと真っ赤に染まった大きな月であった。確か順のヤローが月の話をしてたな。俺は心底どうでもいいという顔をしたが実際少しは気になっていて、どうせなら写真の一枚や二枚撮ってやろうと思っていた。けれども月。人間に感動されるために生まれたみたいな今夜の月。俺はあんまり好きじゃないかな。感動の、「すごい」の押し売りだと思った。それなら、この澄んだ冬の空に浮かんだ謙虚な星の方が綺麗だ。オリオン座・・・オリオン座しか分からねえや。中3でもうちょっと勉強してればよかったなあ。
今朝ぬかるんでいた公園の土が凍り、靴がパリパリと鳴らす。俺は小さい頃から体温が高く、みんなのように着込むと逆に熱くなってしまう。あまりさみ〜とか、思ったことがない。夏は誕生日があるから好きだけど、それより冬が好きだ。気温もちょうどいいし、空が綺麗だし、何より・・・
「ただいま〜」
玄関までついてくるオリオン座。
ちょっと土で汚れた靴を脱いで、コートを掛けて座って携帯をみた。
「嘘みたいな写真撮れた」
あの忌まわしい月の写真。俺は迷わずいいねした。ハートが少しのモーションの後赤に染まった。
「先輩、月見えました?」
LINEが来る。君だ。
さっきまでぽっぽと暖かくなっていた指先が凍ったように冷たくなる。君からLINEが来るといつもこうだ。喋るときなんか特に。
というか、君も月の話ばっかり。ちょっと、かわいい。
「うん、見えたよ」
「綺麗だね」
送った後に気付いた。先達の粋な日本語ー「月が綺麗ですね」 いや、そういう意味じゃない。いや、でも、そういう節はある。
「綺麗ですね!」
感動した!という旨の鳥のスタンプ。
俺はふっと笑い、凍った指で返信をする。会話は「おやすみ」をシメに寝る前まで続いた。
いつもそうだ。君といると。俺は凍ってしまう。体温が2度くらい下がったみたいに感じる。君は俺を凍らせてしまう。君の前に立つと、足から凍って動けなくなる。氷の女王とか、いや、君はそんな性格ではないから、氷のお姫様とか、そんな風に思うんだ。氷の魔法を使える肩まで伸びた黒髪と白い肌が綺麗な冬生まれのお姫様。冬は君の誕生日があるから好きだ。君は誕生日みたいに自分が主役になる日はあんまり苦手みたいだけど、それでも嬉しそうにありがとうという君が・・・去年のあの日の君が大好きだ。
朝日が雪を溶かし、昨日よりも随分と地面が見えるようになった。
透明度40%くらいの青い空。ところどころに浮かぶ白い雲はゆっくりと時間をかけて歩く。
昨日の夜、あの月を見ながら、君を想いながら歩いてきた道をなぞり返して学校まで歩く。土曜の朝は好きだ。静かで、まるでこの世界に自分しかいないような感じ。世界でたった1人、まだ少し凍った地面を踏みしめていく感じ。
ゆっくり歩こうと思ったから早めに出たけど、早すぎたみたいだ。部室のドアの前に立って空いてないことを確認し、バッグを下ろして鍵を取りに行こうと後ろに振り返った。
「おはよ」
まだちょっと眠そうな君が右手を控えめに挙げて言う。
「おはようございます」
驚いたのと寒いのでうまく言葉が出なかった。
「鍵は今から取ってこようと思ってて」
君は優しいからきっと俺が取りに行くと言うだろうけど、私はその言葉の前に君の横を通り過ぎて、鍵を取ってこようと思った。
「私行くので大丈
「ちょっとまって」
いつもあったかい君の手が今朝は少しひんやりして、溶けた私の腕を掴む。火照った身体にちょうどいいようなひんやりとした君の手。
「掴んでごめん」
「あのさ」
真剣な顔になるので見つめた。君が次に発するであろう言葉が見つからない。何を言おうとしてるのか全く、全く分からない。
「俺、文乃といると凍っちゃうんだ」
理解ができない。いや、実際には言いたいことは痛いほど分かるんだが、その言葉が私に対する言葉かどうか理解ができなかった。私がえっとと言う前に
「どういうことか、わかんないと思うけど・・・。でも、文乃といると凍るっていうか、文乃のこと考えただけでも凍るっていうか!」
普段程よく紅を差した君の頬が真っ赤に染まり、一昨日の月みたいになった。
「わかりませんけど、わかります。」
「私は先輩といると溶けるんです。」
私も、俺も、互いの言うことを理解した。理解して見つめあった。驚きと、困惑と喜びの目。
私は 俺は
君といると
溶ける 凍る
早朝だと錯覚する程、暗い空を一点明るく照らす月は真っ赤で、あの山を越えれば触れそうなくらい大きかった。
大きく赤いあの月が見えるのは13年ぶりだという。
私はベランダに出て月を眺めた。大きく赤い月。私は久しぶりとつぶやいて、つぶやいた自分が恥ずかしくて笑った。
「文乃ー?」
下から声がする。はあいと返して月が見えるよと言った。あなたが上がって来てベランダに並ぶ。久しぶりだね、と言って笑う。
「さ、夕食作ろうか」
「空が今日は炒飯がいいって」
「しょうがないなあ」
2人で階段を降りて、テレビを凝視する息子を確認して台所に行く。
「母ちゃーん?今日炒飯がいーい」
「聞いてるよー」
台所の窓から見える空が明るい。
照らしているのは太陽ではなく、あの月。立て付けの悪いーあなたが修理しよう修理しようとうるさい窓を開けて顔を出してみる。こっちだよとでも言うように赤い月の光が場所を教えた。
赤い月は相変わらず大きく、君に似ていた。




