第16話 『闇夜にみえたもの』
ブンガ・マス・リマ近郊 〈帝國〉南方征討領軍本営
2013年 1月6日 19時51分
「小隊長、敵の増援らしきもの。距離2000」
「……確認した」
車長席で根来二曹の報告を聞いた柘植は、背筋を伸ばし双眼鏡を構えた。熱線映像装置を用いなくても、たいまつの炎が群をなして闇の中を進む様子はよく見えた。
彼は決断しなければならなかった。可能な手段で敵に打撃を与えなければならない。健在な敵がいるならば、これを撃破するのは当然のことだ。
夜空を見上げると、星が降るようだった。息を呑むほどに美しい星空。降り注ぐ星明かりが、周囲の熱帯雨林を影絵のように見せている。
柘植は、命令を発した。まるで、自分に言い聞かせるような響きだった。
「敵増援を撃破する。前方敵歩兵、距離2000、対榴、班集中──撃て!」
「発射」根来二曹がいつもと変わらない声で発砲を告げた。
2両の90式戦車から放たれた多目的対戦車榴弾は、マワーレド川を容易く飛び越え、敵の増援部隊のただ中へ飛翔した。
弾着。たいまつの炎が吹き飛び、代わりに引火した何かがより大きな炎を上げていた。
柘植の目には、それがまるで生命の火が消えゆく様子に見えていた。彼は苦しげな表情を浮かべ、言った。
「……もう一撃だ」
「敵は既に大混乱ですが? 敵は戦闘力を喪失したと判断できます」
根来二曹の言葉に、柘植はかすかに震える声で答えた。
「……ここで徹底的に叩いておけば、その分どこかで味方が楽になるんだ。たとえ逃げ惑う相手でも、見逃せば奴らはきっと誰かを殺す。そうなる前に俺が先に奴らを殺すよ──射手、以前の目標、対榴、撃て!」
振り払うような柘植の命令を受け、根来は発射ボタンを押した。装填された多目的対戦車榴弾が闇へと飛び出す。90式戦車の角張った車体が、瞬間照らし出されて闇に浮かんだ。
対岸で閃光が煌めくと、一瞬ののち、本営警護隊のただ中で爆発が起きた。精鋭を誇った護衛兵たちが吹き飛ぶ。熟練の魔導師でなければ成し得ぬ程の爆炎が、〈帝國〉南方征討領軍先遣兵団本営を襲っていた。
「何という……」
シュヴェーリンは顔色を失い、本能的に身を屈めていた。豪胆な彼に似つかわしくない振る舞いだった。あれが先程自分を襲ったのだと思うと、背筋に震えが走った。
川向こうにいるのは一体『何』なのだ? 彼は滅びた迷宮都市跡で邪神に遭遇した冒険者のような心境で、マワーレド川対岸を見ていた。
そこに、笑い声が聞こえた。
「クク……クククク。見ました。見つけましたよ!」
それは狂気を孕んだ声だった。
閃光と轟音。警護隊が倒れ、悲鳴が上がる。爆風が立ち尽くすシュヴェーリンをなぶる。
その彼の傍らで、片腕を失ったサヴェリューハが哄笑している。残された左目は爛々と輝き、喜悦に染まっているように見えた。
「おい、あんた何を……?」
「わかりました。貴方が私に刃を突き立てた。ならば私は貴方に相応の返礼をしましょう。貴方と貴方の部下と貴方に連なるすべての者を、私は追うでしょう。
貴方の前で、それらを捕らえ、切り裂いて犯し、生きたまま焼いた肉を、貴方に振る舞いましょう」
サヴェリューハは対岸のまだ見ぬ敵に向けて、愉しげに語っていた。間違いなく相手を見ることはできぬ距離。だが……。
「ふふ……それまでどうか、どうか御身大切に。感謝しますよ! 私のこの生にかくも明らかな導をもたらした貴方に!」
サヴェリューハの言葉に応じたかのように、対岸で三度目の閃光が煌めいた。シュヴェーリンは闇の向こうにいる敵の姿をはっきりと見ることはできなかったが、少なくともサヴェリューハが心を決めたことを理解した。
この傷貌の将は、この先偏執的なその性を、対岸の敵に注ぐのだろう。それは敵味方に酸鼻極まる戦場をもたらすのだ。
本営警護隊を粉々に砕く爆発の照り返しに写るサヴェリューハの横顔は、まるで禍々しい魔神のようだった。
視られている?
柘植は突然背筋を走った悪寒に困惑した。何処からか視線を感じる。しかし、誰が? 周囲の安全は確保したはずだった。だが、蛇が絡みつくような、蛞蝓が肌を這うような感覚が離れない。
その感覚は、彼が何の気なしに対岸に目を向けた時、最も強くなった。柘植は身震いした。
「うーん……、03、こちら01。撃ち方止め、陣地転換。各車後退し予備陣地に入れ」
『……03了解。今夜は店じまいですか?』
微かな雑音を含んだ僚車からの返答。
「そうだ、下がって補給を受ける──」
そこで彼は、対岸の異変に気付いた。
新たな報告が届くのと、サヴェリューハが音もなく崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。
「サヴェリューハ閣下、シュヴェーリン殿!」報告の声は剣歯虎隊指揮官の叫びだった。
気を失ったサヴェリューハを慌てて抱き留めたシュヴェーリンは、声の方を振り向いた。そして、絶句した。
「……!」
無数の光が、本営の西側、熱帯雨林の向こうに広がる丘陵地を埋めていた。あまりに多いその光は、稜線を、輝く一筋の光帯のように見せていた。
鳴り響く金鼓と軍楽の音。軍馬のいななき。それは西から現れた。
「何処の、何処の軍勢か?」シュヴェーリンが言った。
「この軍楽は──ザハーラ諸王国軍。南瞑同盟会議の西の雄。おそらく援兵の求めに応じ、差し向けられた軍でしょう」剣歯虎隊指揮官が言った。
「おいおい、万は下らんぞ」シュヴェーリンが毒気の抜かれた声を返す。
「夜間これほどの軍を動かすのに、いかほどのたいまつを用いているのやら……。厄介な敵が現れたものです。その兵、万を超えるということは──」
「少なくとも、太守が来ているな。奴ら、贅沢な戦争をしてやがる」
光の群れは軟体動物のように蠢き、一部は流星群のように動いていた。威圧するようなその動きが示す事実は一つだ。
「逃げるぞ」
「撤退しましょう」
二人は同時に声を発した。敵は圧倒的だ。夜間とはいえ、これほどまでに彼我の戦力差があれば、勇敢な将なら迷わず追撃を命じる。ぐずぐずしていれば、包囲されて一巻の終わりだ。
「アスースまで退くぞ。サヴェリューハ殿は俺が連れて行こう」
「ヘルハウンド隊が同行します。敵は騎兵を向けてくるはず。歩兵は逃げられないかもしれません」
「やむを得ん。俺たちすら危ない」シュヴェーリンは苦笑いを浮かべた。
おそらく本営の徒歩部隊の大半と南から撤退してくる歩兵団は捕捉され壊滅するだろう。攻勢時には無類の強さを発揮するオーガー隊も、今の状況では無力だ。しかし、どうすることもできない。
剣歯虎隊指揮官が静かに言い放つ。
「私は部隊を五里北上させ、街道横の樹木線に埋伏します」
「お前、それは……」
「適当にしんがりを勤めたら、退きますよ。ヘルハウンドより私の剣虎の方が伏撃には向いていますから」
「生き延びたら、一杯奢ろう」
「とびきりの一杯を所望しますよ」
剣歯虎隊指揮官はそう言って笑った。丘陵地の稜線から溢れ出した光の洪水は、道をたどり押し寄せつつあった。
シュヴェーリンは、張りのある声で周囲に命じた。
「飛行騎兵団長、シュヴェーリン男爵が命じる! 此度の戦はこれまでとするぞ。全軍退けェ!」
ザハーラ諸王国バールクーク王国軍本営
2013年 1月6日 20時18分
南瞑同盟会議の緊急要請を受けたザハーラ王国『豊饒』王ゲズル・バーリシュ・ザハラディーの命により出撃したバールクーク王国軍は、ついにブンガ・マス・リマ近郊へと到達した。
動員された兵の数は、軽騎兵、親衛騎兵、戦象兵、各種歩兵等合わせて2万余。これに途中の都市国家群から募った民兵や傭兵を含めると優に3万を超える。動員兵力の多さを誇るザハーラ諸王国の面目躍如たる規模であった。
「おうおう、無様に逃げ始めたのぉ。まあ、無理もあるまいが」
マワーレド川河畔を見下ろす丘陵地の上、金箔と極彩色の織物で飾られた輿の主は、肥満した身体を揺らしながら愉快気に笑った。ゆったりとした衣服には金糸が織り込まれ、篝火の照り返しを受けて鈍く輝いている。
3万の兵を統べるバールクーク王は、見事に手入れされた口髭を撫でながら、得意気な口調で言葉を続ける。
「我が軍の豪壮無比な姿を見れば、魔神とて敵わぬと悟るであろう。見よ、あの慌てよう。可愛げがあって愉快じゃ。しかし、あの程度の敵に良いようにされるとは、我らが同盟盟主も存外だらしないのぅ。ほっほっほっ」
「はい。バールクーク王国軍の来援なくば、ブンガ・マス・リマは陥落の憂き目に合っていたことと思料いたします」
慎重に目を伏せたまま、輿の傍らに控える妖精族の男性が答えた。リユセ樹冠国『西の一統』に属する彼は、ザハーラ『豊饒』王からの援兵を先導する役目を負っていた。樹冠国高官であるため、バールクーク王への直答が許されている。
同盟盟主側のしおらしい態度に満足したバールクーク王は鷹揚にうなずいた。
「ほっほっほっ、よいよい。余の軍が、たちまちのうちに北の野蛮人どもを『狂える神々の座』まで追い返してみせようぞ」
「御意。偉大なる王の軍が駆け降りれば、〈帝國〉軍など鎧袖一触でしょう」
「ほっほっほっ」
尊大な王の態度に思うところはあったが、それを表に出してわざわざ不興を買うほど、リユセの使者は莫迦では無かった。そもそも王とは尊大なものなのだ。
ザハーラ諸王国は、ブンガ・マス・リマの西方に横たわる広大な亜大陸を領域とする国家である。さらに先には〈帝國〉西方諸侯領があり、国境を接している。
その国土は熱帯林に始まり、高地と平原そして砂漠を有し、多くの人口を抱えている。
この地に勃興する諸王国を纏め上げるのがザハーラ王国であり、もってザハーラ諸王国と号していた。
『豊饒』王ゲズル・バーリシュの卓越した指導力のもと、ザハーラ王国は他を圧倒する経済力と軍事力、そして魔導力を使い、実質的な帝国を築き上げていた。
その中の一つバールクーク王国も、実体は中央から統制を受ける領邦の一つである。実際、他国の文書上では『王』ではなく『太守』と記されることも多い。
ザハーラ王は、軍役を差し出す義務を負ったバールクーク王国に対し、ブンガ・マス・リマ救援を命じたのだった。
(参事会議長殿の打った手はギリギリのところで間に合ったのだ。それを率いる者が少々尊大だからといって何のことがあろう)
リユセ樹冠国の使者は心の中でそうつぶやいた。
「さて、ではかかるとするかのぅ。将軍、始めよ」
バールクーク王の言葉に、全身を薄片鎧で固め、胸の中央にある巨大な護心鏡を煌めかせた将軍が進み出る。浅黒い肌に鷲鼻をそびやかせた彼は、口髭をふるわせながら、大音声で王に報告した。
「偉大なる我がバールクーク王に申し上げます! 眼下の敵勢はすでに崩れておりますれば、軽騎兵をもって追い立てこれを屠るが至当!」
将軍の背後に数名の将校が歩みでて、ひざまずいた。
「ファラーシャ!」
「はっ!」
「ヤースーフ!」
「ははっ!」
「以上の二個軽騎兵団を差し向け、明朝陛下の朝餉がお済みになる頃には、敵将の素首を御覧に入れましょう!」
「よい」バールクーク王は、目を細めうなずいた。
「かかれ!」
将軍の号令が発せられると、騎兵将校が弾き飛ばされるような勢いで駆け出した。間を置かず本営後方に待機していた騎兵集団に命令を告げる怒声が響き始めた。軍馬のいななきと鎖帷子の触れ合う音が辺りを満たす。
たいまつを掲げた雑兵が周囲を照らす中、バールクーク王国軍二個軽騎兵団は、独特の甲高い鬨の声を響かせながら丘を駆け下り始めた。
バールクーク王はでっぷりと肥えた身体を大儀そうにひねり、斜め後ろに控えるやや小振りな輿を見た。
「アイシュや、よく見ておくのじゃぞ。お前は余の後継としていずれこの軍を率いるのじゃ」
「はい、お父様。お任せ下さい」小振りな輿から、鈴を転がすような声色が返ってくる。その響きにはかすかな高慢さが滲む。
輿には薄絹のベールが幾重にもかけられているため、中を伺い知ることは難しい。ただ、辺りの篝火に照らされ、薄くたおやかな姿が影法師として浮かんでいた。
「うむうむ。アイシュは聡いのう。のう、使者よ。リユセにもブンガ・マス・リマにも、これほど美しく聡明な王女はおらぬであろう?」
目尻と頬の下がりきったバールクーク王の様子に、リユセ樹冠国の使者は表情一つ変えず「誠にその通りでございます」と、頭を垂れた。
(王ともあろうものが、親馬鹿か……まぁよい。それより、河畔の〈帝國〉軍を混乱に陥れていたのはいずこの軍だろうか? 我が同胞にそれほどの力は残っていないはずだが……)
心中密かに首をひねるリユセの使者の眼下では、猛威を振るった〈帝國〉南方征討領軍が撤退に移る姿があった。
2013年1月6日夜。
およそ四月もの間、南瞑同盟会議領域で猖獗を極め、ついに本拠地まで攻め寄せた〈帝國〉南方征討領軍先遣兵団は敗北した。
ザハーラ諸王国軍の来援を受けたブンガ・マス・リマ軍は市内の〈帝國〉軍の掃討に成功。〈帝國〉軍の前線は北方約20キロに位置するアスースまで後退することになる。
ザハーラ諸王国の地理的位置は、地球でいうなら概ねインド亜大陸から中東にかけての位置をイメージしていただけると幸いです。
ブンガ・マス・リマがシンガポール辺り、〈帝國〉はロシア・ヨーロッパですね。
今回来援したバールクーク王国は、ザハーラ諸王国を構成する諸王国のひとつです。比較的人口・動員兵力の多い国ということで、ザハーラ王から出撃を命じられました。




