第3章 プロローグ
ブンガ・マス・リマ東方4㎞
2013年 1月6日 15時03分
灰色の複合艇が、ビロードのようになめらかな海面を切り裂いて進んでいる。使い込まれ擦り切れた旭日旗が、合成風を受け今にもちぎれそうだ。複合艇は、まるで水切り遊びの小石のように水面を上下に跳ねていた。
乗員は飛沫を頭からかぶりながら、必死にしがみついている。防弾チョッキの下の作業服は、ぐっしょりと海水に濡れて濃紺に近い色合いになっていた。
輸送艦〈ゆら〉運用員の安芸英太三等海曹は、ピストンのように激しく上下する複合艇の上で器用に身体を支えながら、手元のM3短機関銃をどうにかして濡らさないよう、努力していた。
「痛ェ! 舌噛んじまった!」
安芸の隣で、機関科の海士が悲鳴を上げた。その若い海士を含め安芸以外の者はしがみつくので手一杯だ。操縦員と安芸だけが、複合艇の行く手に何があるのかを見ていた。
美しい海と真っ白な砂浜。青と白と緑のコントラスト。そんな光景が広がっているはずだった。しかし、それはすでに失われていた。
臨時編成〈ゆら〉陸戦隊12名を載せ、35ノットで陸地へと走る複合艇の行く手には、どす黒い煙が幾筋も立ち昇り、断続的な銃撃の音と喚声が木霊していた。そこには陸上自衛隊マルノーヴ先遣隊の物資集積所が存在していた。
「ひでぇなありゃ……」
操縦員が思わず呟いた。昨日までは陸揚げされた物資がそれなりの秩序を持って積み上がっていたが、今海岸を支配するのは、怒号と悲鳴であった。
陸地が近づいたため、複合艇は速力を落とした。エンジン音に包まれていた陸戦隊員の耳に、海岸で繰り広げられる戦場音楽が届き始めた。艇のピッチングが収まりようやく顔を上げた隊員たちは、その様子に顔をひきつらせ、息を呑んだ。
陸自後方支援隊が管理する物資集積所は、ブンガ・マス・リマの東約4キロの位置にある、適当な広さの海岸に設置されていた。北側に広がる森を抜けると、柘植が率いる偵察隊の前哨陣地がある。
揚陸適地とされたこの海岸に、自衛隊は輸送艦〈ゆら〉やLCACを用いて、様々な物資を揚陸していた。
ここが襲撃されたのは約1時間前──自衛隊が戦闘を開始してから約1時間が過ぎた午後2時過ぎのことだった。
突如森から現れた武装集団の攻撃により陸自後方支援隊長が戦死。物資集積所は包囲されていた。
後方支援隊と施設隊の隊員たちは、コンテナやパレットに身を隠しつつ必死の防戦を行うとともに、凡そ使用可能なすべてのチャンネルで救援を要請した。不幸なことに既に市全域で交戦状態にあり、速やかに救援可能な陸自部隊は存在しなかった。
唯一、洋上約2キロの海面に、〈ゆら〉が存在していた。
「もうすぐ着くぞ!」
操縦員が声を張り上げた。陸戦隊員たちは顔を見合わせた。そして、指揮官である運用士を見る。四十代も後半に差し掛かった運用士は皆の視線を受け、たじろいだ。見かねた安芸がそっと耳打ちする。
「運用士。装備の点検をさせて下さい」
「お、おお。そうだな」
安芸はすでに装備の点検を終えていた。周囲でおぼつかない手付きで小火器を点検し始めた〈ゆら〉陸戦隊員を見て、安芸は暗澹たる気分になった。
陸自からの悲鳴のような応援要請を受け、急遽編成された〈ゆら〉陸戦隊は、寄せ集め以外の何物でも無かった。指揮官の運用士は銃よりも釣り竿の扱いの方が何倍も得意な男だったし、そもそも陸戦訓練など艦でしたこともない。
「安芸よぅ。頼りにしてるからな」
運用士の本心からの言葉だ。特警課程にいた安芸は、自然と頼りにされていた。
冗談じゃない。俺は基礎課程で落ちたんだ。
物資があちこちで燃えていた。海岸が近づくにつれ、あちこちに転がる緑色の物体が陸自隊員の死体であることに気付いた。地獄のような景色だった。
冗談じゃない。そんな地獄に素人ばかりで乗り込むなんて!
安芸は自然と身を低くかがめ、一番戦闘が激しい地点と、安全に上陸出来そうな地点を探しながら、背筋に冷や汗が流れるのを感じていた。
ブンガ・マス・リマ北方上空
2013年 1月6日 15時05分
澄み渡った青空の下。緑の絨毯を眼下に収め、這うように南下する複数の物体が存在していた。
〈帝國〉南方征討領軍飛行騎兵団の翼龍騎兵と、有翼蛇の編隊である。翼龍騎兵20騎。彼らの背に分乗した6名の『魔獣遣い』に使役された有翼蛇40頭。
南瞑同盟会議北方防衛線をフライ・パスし、森の中で再編成した彼らは、地表約20メートルの高度でブンガ・マス・リマ市街地へ向けて飛翔を開始したのだった。
もちろん、親善飛行などではない。市街侵攻の尖兵として、重要施設、港湾、守備隊等への襲撃を命じられていた。
「あと半里」
操獣士が冷静に言い放った。革の飛行帽をかぶった頭を左右に振り、周囲の警戒に余念がない。操獣士の背中を眺めながら、〈帝國〉南方征討領軍飛行騎兵団『魔獣遣い』ユーリ・ヴラドレン・エーリンは、整った顔面に笑みを浮かべた。
鮮やかな『魔獣遣い』の化粧が、妖しげな雰囲気を纏わせている。
彼の乗る翼龍の前方には、鏃のような隊型を維持した有翼蛇が3頭、身体をうねらせながら飛行していた。エーリンの思念波に従い、翼が触れ合うほどがっちりとした編隊を組んでいる。
このことは、エーリンが『魔獣遣い』として水準以上の力を持っていることを現していた。
並みの技量では、3頭もの有翼蛇にここまで緊密な編隊飛行をさせることは出来ない。切れ長の瞳と、真っ白な肌が印象的な『魔獣遣い』は、華奢な見た目に似合わぬ熟練の遣い手なのだった。
何しろ彼の後方にはもう3頭の有翼蛇が、彼に従っているのだ。
エーリンは周囲を見渡した。複数の龍と蛇が空を駆けていた。彼は最前列を飛ぶ15頭の横列を眺め、嘲るように笑った。
(やはり、ふらついている。バクーニンの奴は多頭使役を誇っていたが、あんなに無様な編隊しか組めぬのでは、襲撃機動も大したことはできまいよ)
右手には、1騎の龍騎兵とひときわ大型の有翼蛇が飛行していた。その機動は鋭い。
(ヴァロフ副長は流石に見事なものだ。だが、だった1頭では火力に不足が出よう)
「やはり、私のように3頭で一個編隊を組むのが、最も優れている」
エーリンは、持論を呟いた。この戦で自分の正しさが証明されると信じていた。
南方征討領軍飛行騎兵団は固定編成が定められていない。
各『魔獣遣い』が、自分の使役する有翼蛇を引き連れて騎兵団に加わっている。このため、一名で15頭を使役するバクーニンのような男から、単騎しか操らないヴァロフのような男まで、多岐に渡っていた。
彼らの戦いぶりは、逐一報告を義務付けられている。また、後方の翼龍に騎乗する本領軍魔導士により、常に評価を受けていた。エーリンが聞いた話では、その結果は本領軍で編成中の飛行騎兵団に反映されるらしい。
(ならば、良いところを見せねばな)
眼下の森が切れた。眼前に鮮やかな屋根が並ぶ巨大な都市が飛び込んできた。商都ブンガ・マス・リマ。蛮人どもの生意気な都市。
『バクーニンは街を焼け。エーリンはヴァロフと商館街を叩け』
騎兵団長の思念波が頭蓋に響く。編隊の半数が高度を上げ、もう半数は低高度を保った。
『突撃』
〈帝國〉軍南方征討領軍飛行騎兵団は、都市への空襲を開始した。
概況
南瞑同盟会議の本拠地である、商都ブンガ・マス・リマをめぐる攻防は、激しさを増すばかりであった。
本来都市を護るべき同盟会議軍は、すでに壊滅している。わずかに市警備隊300名が残っていたが、それらは市街地各所に邏卒隊とともに分散配備されており、組織的戦闘を行える戦力ではない。
アイディン・カサード水軍提督が配下の水夫と撤退してきた敗残兵を再編成し、1000名程度の歩兵部隊をでっち上げようと苦闘していたが、どう考えても間に合いそうになかった。
一方自衛隊は、現地の混乱に翻弄されつつも、各部隊が臨戦態勢をとりつつあった。
交易都市ブンガ・マス・リマは、大陸を南北に流れるマワーレド川河口域に広がっている。川幅500メートルに及ぶ大河は、海に注ぐ前に西に支流を分け、本流と支流に挟まれた大三角州を形成していた。
街は支流の西側、三角州、本流の東側の三つに分けられ、それぞれ『西市街』『中央商館街』『東市街』と呼ばれている。同盟会議の本拠『大商議堂』と中核施設は、『中央商館街』に集中していた。
つまり、三角州の内側だけは何としてでも守りきらなければならなかった。
マルノーヴ先遣隊本部が全滅し一時的な混乱に陥った陸自部隊は、偵察隊の柘植一尉が指揮権を掌握した。柘植は現状から全部隊の統一指揮は不可能であると判断した。
やむを得なかった。彼は市街北東5㎞の地点で戦車に乗っており、全体を指揮するための人員も機材も不足している。柘植は全隊に命じた。
『各地区先任指揮官の判断により防戦に努めよ。帝國軍に対する発砲を許可する』
この命令により、陸上自衛隊はそれぞれの展開地域で帝國軍との戦闘に突入する事となった。
それに対して海上自衛隊は、統制を保つことに成功していた。陸自に比べて海自が指揮統制に優れていた訳ではない。ただ単に敵の攻撃がまず陸自に対して行われたからであり、司令部が生き残っていたからであった。
海自は、ブンガ・マス・リマ沖に展開していた第1掃海隊と派遣輸送隊群に警戒態勢をとらせると共に、ラーイド港に入港中の第1ミサイル艇隊に出港を命じた。
〈帝國〉南方征討領軍は、複数の経路でブンガ・マス・リマに侵攻を開始していた。
マワーレド川の東岸を南下していたのは、混成義勇兵団を主力とする歩兵部隊である。カルブ自治市軍二個兵団、ソーバーン第四支族、督戦隊ケルド中継都市軍。計2000余。
これにゴブリンと〈帝國〉正規兵を加えた2500からなる部隊は、大街道を南下し東市街に突入する任務を与えられていた。
マワーレド川西岸の侵攻路を南下するのは、〈帝國〉軍主力である。コボルト斥候兵を前衛に、ゴブリン軽装兵約1000、オーク重装歩兵500。さらに、魔獣兵団が無数のヘルハウンドや人喰鬼を従えて続いている。主将サヴェリューハ直率の本営も、西岸を進んでいた。
さらに複数の部隊が様々な経路から侵入を試みている。その一つが、東の森を抜け海岸線に到達したドフター族の部隊であり、上空から侵入する〈帝國〉軍自慢の飛行騎兵団であった。
そして、1月6日15時現在。
マワーレド川の東岸と東市街は南瞑同盟会議と自衛隊が確保している。パラン・カラヤ衛士団は全滅したものの、柘植一尉の偵察隊が〈帝國〉南方征討領軍侵攻部隊を撃退したからであった。
柘植一尉は東市街の防備を固めつつ、他地区への増援を図ろうとしている。無線からは各地の不穏な状況が入り始めていた。
対照的に、マワーレド川西岸は酷い状況になりつつあった。
西市街を担当する部隊が司令部の壊滅により立ち遅れたこと。さらに侵攻する敵に対して地形的障害が乏しいこと(成長を続ける交易都市には、市壁が存在していなかった)。そして敵がどうやら主力であること。
どう考えても、突入を阻止できない。
編成の欠けた一個中隊で西市街を守る普通科中隊長は、市内各地からもたらされる交戦報告を聞きながら、市街戦を覚悟していた。
中央商館街は泥縄式ながら防備を固めつつある。東西市街と三角州を結ぶ長大な二つの橋に陣地を構築し、一歩も退かぬ構えである。
とはいうものの、そこに配置された守備兵は精鋭には程遠かった。さらに、〈帝國〉軍侵攻の報を受け逃げ惑う市民の群れが全てに遅延をもたらしていた。
端的に言えば、ブンガ・マス・リマはこの上なく混乱していたのである。
本章では〈帝國〉軍の本格侵攻に対し、混乱を極める商都防衛のため行動を開始した自衛隊の戦闘が始まります。




