第7話 『迎撃』
ブンガ・マス・リマ北東5㎞ 街道上
2013年 1月6日 13時02分
マワーレド川の水面が太陽の光を乱反射して金色に煌めいている。その光景はまるで一面に金剛石をちりばめたように美しい。だが大河に沿って伸びる大街道上では、数百名の人間たちが血と泥の海に溺れ、もがいていた。
〈帝國〉南方征討領軍義勇兵団約二千は、完全に統制を失いつつあった。突如、軍の側面に叩きつけられた敵の奇襲は破滅的な威力を発揮した。閃光と共に浴びせられた火炎弾は一瞬にしてカルブ自治市軍の一隊を肥料に変えてしまった。
奇襲を受けた軍は脆い。その衝撃は、精鋭部隊をたやすく烏合の衆に変えてしまう。まして、義勇兵団は精鋭とは言えぬ徴用兵の集まりに過ぎない。
「……あの森から出てきたものは、何だ? あんなものは見たことが無い」
「分かりません。あの様な魔獣は聞いたことがありません」
〈帝國〉南方征討領軍指揮官が魂の抜けたような声で呟き、参謀の一人である魔導師が青い顔をして答えた。
ほんの数分前まで彼は順調な戦ぶりに満足していた。彼が指揮するのは諸都市混成義勇兵団二千と、やはり徴用兵からなる督戦隊二百。そして直率するゴブリン三百と〈帝國〉兵約百騎。
戦闘序列に従い前衛に横陣を組んだ義勇兵団、その後方に督戦隊。最後方に予備兵力として本営を配置し、〈帝國〉軍は南瞑同盟会議軍最後の防衛線に対して攻勢を開始した。
対する南瞑同盟会議の最終防衛線はわずか二百の衛士団に過ぎず、交戦開始からいくらも経たぬうちにあっさりと壊滅していた。損害は義勇兵団に数十程度。〈帝國〉軍指揮官はますます笑いを大きくした。
人の財布で飲み食いするようなものだった。金の代わりに浪費されるのは生命だが、どれだけ使ったところで指揮官の懐は痛まない。
だが、突如義勇兵団に叩きつけられた爆炎と、森から現れた4体の魔獣が全てを台無しにしつつある。
幕下の騎士が咎めるように言った。
「呆けている場合ではありませんぞ。あの魔獣の正体が何であれ、このままでは軍が崩壊いたします」
すでにカルブ自治市軍の半数が壊乱し、周囲の隊もそれに引きずられるように乱れ始めていた。魔獣は軽騎兵も顔色を失うほどの速さで駆け、炎を放ち、徴用兵を蹂躙している。
幸いにして後方の督戦隊と直率する本営は統制を保っていたが、手を打たねばそれを失うことは時間の問題であった。
「……しかし、どうすれば良い?」
魔獣は戦象より巨大で、ヘルハウンドより速く、強力な魔導を用いている。そんな相手にどう立ち向かえば良いのかさっぱり分からない。
「飛行騎兵団か魔獣兵団に援軍を要請しては──」
「莫迦なッ! そのような無様な真似が出来るか」
主将サヴェリューハは無能を許さない。わずかな敵をもみ潰すだけの任務で援軍など求めては、身の破滅である。指揮官は両腕を振り回し参謀の進言を却下した。そうしている間にも、前衛は滅茶苦茶に叩かれ続けている。
「御覧ください! 魔獣の一体が足を止めましたぞ」騎士が弾んだ声で言った。
確かに、左翼を切り裂いていた巨体が足を止めていた。一体何が? 指揮官は目を凝らし数百メートル先の魔獣を見つめた。
「あれは……ソーバーン族の精霊魔法でございます」
「おおッ!」
魔獣の体躯に、太い蔓が幾重にも絡みついている。精霊遣いが森の精霊に働きかけ、召喚したのだった。太いもので人の腕ほどもあろうかという蔓が無数に地面から立ち上がり、まるで壁のように魔獣に立ち塞がっていた。
並みの精霊遣いであれば、せいぜい10メートル先の人間の足を絡め捕るのが関の山である。獣の如く森に生きるソーバーン族が、どれほど濃く精霊と共に在るのかを示していた。
「あれならば、もしかしたら倒せるやもしれん」
指揮官はすがるように言った。自らが征服し従えた者たちに頼らなければならない現状の滑稽さに、彼は気付いていなかった。
「柘植一尉! 大丈夫ですか?」
「ん、ああ……大丈夫だ。状況を」
根来二曹の呼びかけに答えた柘植は、頭を振りながら言った。90式は停止している。システムに警報は──出ていない。発煙も無い。
「今のところ砲その他に異常はありません」根来二曹が操作パネルを確認しながら言った。となれば、駆動系か?
「村上、そっちはどうだ?」
「現在、停止中。エンジン異常なし。ですが、衝撃の後引っかかっているような感じです。車体前面に何かがあるようなのですが……よく見えません」
「車体前面だと?」
柘植は車長用視察装置を見た。数十メートル先に蠢く敵兵。あちこちが掘り返された草原。十時方向に僚車が見えた。2号車だろうか? 当然の事ながら、車体前面は見えない。索敵のためのサイトは、数メートル先の地面を見るようには出来ていなかった。
ハッチ全周に設けられたペリスコープも似たようなものだった。畜生、何が引っかかっているんだ? 戦場で止まったままなんで冗談じゃない。
柘植は速やかに決断した。足を踏ん張り、両手でハッチを持ち上げる。新鮮な、だが生臭さを感じる空気が車内に流れ込んだ。
「直接確認する」
両手両足で身体を持ち上げた。視界が一気に広がった。素早く周囲を確認する。先程より敵が迫っている気がした。気のせいではない。歩兵は、停止した戦車に肉薄しようとするものだからだ。
彼の戦車を止めたもの──それは濃緑色の蔓の群れだった。車体前面下部をびっしりと覆っている。元からあったとは信じがたい。この世界の非常識が襲ってきたことに間違いない。柘植は魔法の非常識さに驚きながらも、被弾では無かったことに安心した。
「こんなものでどうにかなると思ったか! 操縦手、ただの蔓だ。前進して引きちぎれ!」
「了解、前進します」
行く手を塞がれた怒りも露わに柘植が命じると、V10水冷ディーゼルエンジンが、車長に感化されたかのような唸りを発した。排煙が排気管から立ち上る。樹木を裂く湿った音が聞こえ始めた。
森から飛び出してきた敵を足止めせんと、ありったけの精霊魔法をかき集め叩きつけながら、ソーバーン族第四支族長ハイヤ・ソーバーンは絶望的な気分に陥っていた。
敵は──いや敵かどうかもわからない異形は、巨大で速かった。長大な角を振りかざした四体の化け物は、絶えずその角と頭から炎を吐き、義勇兵たちを吹き飛ばしている。
ハイヤは、無意識に登ることの出来る大木を探していた。肉食獣に遭遇したとき、森に糧を求め生きる彼らは樹上に逃げる。身体がその記憶を思い出している。
未熟な若い男の中は、恐怖のあまりその場にうずくまってしまう者もいた。だが、ハイヤは支族長としての矜持と戦士としての経験を総動員し、己を奮い立たせた。
「あれは、祟り神ぞ」誰かが言った。
色とりどりの獣骨で作った護符がじゃらりと鳴る。鮮やかな紋様を全身に彫り込み髪を結い上げたハイヤは敵を凝視した。
古老より口伝えに聞く、森の奥深くに潜む禍。人に祟り仇なすそれは伝説の中にのみ存在していた。
今日までは。
「駄目か……」
高位の術師である彼を含めて、十人以上が精霊に呼びかけ顕現させた戒めも、化け物は容易くかみ砕こうとしていた。野太い蔓が激しい音を立てて引きちぎられる。あの調子では突破されるのは時間の問題だろう。
「何でもよい。放て」
ハイヤが命じると、ソーバーン族の戦士たちは各々が持つありったけの得物を化け物にぶつけた。
彼の右手側で、空気を震わす笛の音に似た音と共に拳大の石が放たれた。投石隊のスリングだ。熟練した戦士が用いれば、100メートル先の重装歩兵を昏倒させる投石が雨霰と化け物に降り注ぐ。矢が放たれる。
左手側では精霊遣いたちが再度〈戒めの蔓〉を詠唱し始めた。付近に精霊が集まっているのを感じる。地中から湧き出た蔓が敵に伸びた。
だがその全てが、化け物にわずかな手傷すら与えられずにいた。化け物は、ついに蔓を引きちぎると、猛烈な勢いで突進を始めた。悪夢のような姿だった。長大な角がハイヤに真っ直ぐ向いた。
彼は化け物の上に人間が乗っていることに気付いた。魔獣遣いか。あれを殺すことが出来れば──いや、出来まい。
化け物は剣歯虎より速く走っている。にもかかわらずその角はぴたりとこちらを向いて少しも変わらない。彼は自分が狩られる獲物であることに気付いていた。
「おお、偉大なる森の精霊よ。彼の祟神をどうか鎮め賜え──くそったれ! あんなものがいるなんて聞いてないぞ」
ハイヤは引き続き何か冒涜的な言葉を発しようとした。化け物の角が赤く光った。何かが放たれる。猛烈な閃光と爆発がハイヤを包み、彼が続きを叫ぶことは無かった。
「命中。目標を撃破」
根来二曹が冷静に報告する。
柘植の90式は車体前面に絡みついていた蔓を纏めて引きちぎると、敵軍に対して突撃を再開した。民族衣装を身にまとった集団は、散り散りになって逃げまどっていた。熱風が柘植の頬を叩く。彼は車長席から上半身を出し、周囲をせわしなく見回していた。
「隊長、危ないですよ」
「ああ、確かに──」流れ矢が車体に当たって硬質な音を立てた。柘植は首を竦めたが、車内には戻らない。
「危ないな。だけど周りはよく見える」
様々な努力が払われているにも関わらず、戦車内部からの視界がごくわずかな範囲に限られるという欠点は、完全には解消される見込みがない。
今世紀に入っても、随伴歩兵無しに敵勢力圏に踏み込んだ主力戦車が、手酷い目に合った事例は無数に存在する。必要な対戦車火器を装備し、地形を利用するのであれば戦車の撃破は可能なのである。
もちろん多くの場合、対価として相応の人命を支払う必要があるのだけれど。
「まずいな」
再度周囲をぐるりと見回した後、柘植は固い声で言った。
いつの間にか彼の戦車小隊は敵と混交してしまっていた。蹂躙された敵兵がバラバラに逃げ散った結果、敵のど真ん中に突入した形になってしまったのだ。数十メートルという戦車にとっての至近距離に武装した敵兵が右往左往している。
「近過ぎて主砲が撃てません。機銃で叩きます」根来二曹の声が砲塔内から聞こえた。
速度を保っているうちは良い。だが、さっきのように足を止められた場合は危険だった。柘植は改めて異世界である事を思い出していた。
身一つで対戦車ロケット並の火力を持つ奴がいるかも知れないじゃないか。迂闊だったかな。とにかく動き続け、敵を叩き続けるしかない。
90式戦車の周囲は、怒号と悲鳴、そして発砲の轟音が支配している。多くの敵兵は逃げ惑っているが、驚くべき事に未だ戦意を保っている集団も存在していた。柘植は、何が敵兵を踏みとどまらせているのか見当がつかない。
彼はひとまず主砲で攻撃可能な相手を探すことにした。車長用照準潜望鏡を回転させる。パノラマサイトがすぐに敵を見つけ出した。300メートル前方に無傷の敵が待機している。あれなら、狙える。
「砲手、二時方向、距離300。あいつをやるぞ」
根来二曹が旋回ハンドルを操作した。電動機の力で長大な砲塔が重々しく右を向く。砲身がわずかに動き、仰角が微調整された。当然の如く装填は終わっている。
「照準よし」
「撃てッ!」
発砲。砲が後座する。すぐに駐退復座装置が作動し砲身は元の位置に戻った。発射された今日8発目の砲弾は、オレンジの光跡を残し敵のど真ん中に吸い込まれた。
本営の前方に展開していたケルド市軍が魔獣の炎に貫かれた。耳を塞いでもなお強烈な爆音が辺りに木霊した。濛々と土煙が上がり、視界を塞ぐ。
今まで、督戦隊として前衛を駆り立てていたケルド市民兵たちは、一撃で大損害を受け戦意を根こそぎ吹き飛ばされた。悲鳴を上げてのたうつ者。悲鳴すら上げることなく横たわる者。それらを残し、あっさりと壊乱する。
それを咎め戦列に引き戻すべき本営は、言葉を失い立ち尽くしていた。
「な、何故あんな化け物が我らを襲うのだ! 南瞑同盟会議の奴らは如何なる手管を用いている?」
指揮官はひたすら狼狽し、金切り声を上げた。本営の〈帝國〉兵にも動揺が広がる。
「分かりません! 分かりません! あれはこの世のものでは無い! あのような魔獣はこのアラム・マルノーヴには──」
そこまで言った参謀は、突然何かに気付いたかのようだった。目を大きく見開き、ガタガタと震える。
「どうした? 何か心当たりがあるのか?」
「まさか、まさか……あれは。あ奴らは!」
「知っているなら申せ!」
「何ということだ。早くサヴェリューハ閣下にお伝えせねば! もし、あれが〈門〉を越えて来たのであれば──」
「〈門〉? それは何だ?」
指揮官は参謀の変貌に得体の知れぬ気味の悪さを感じていた。恐る恐るといった風情で尋ねる。参謀は、白蝋の如き顔色のまま言葉を絞り出そうとした。
「恐らくあれは〈門〉から現れし異──」
「化け物がこちらにッ!」
本営詰めの騎士が警告を発するのとほぼ同時に、いつの間にかこちらを向いていた魔獣の角から、鮮やかな炎が吹き出した。
参謀が最後まで言葉を発することは無かった。彼らを含む本営の〈帝國〉兵たちは、無数に飛び散った弾片を全身に受け切り刻まれた。
ブンガ・マス・リマ北東5㎞
2013年 1月6日 13時11分
正午過ぎに始まった戦闘は、大量の死傷者を発生させつつ拡大の一途を辿っている。始めは南瞑同盟会議軍パラン・カラヤ衛士団が戦神の御許に突撃し、続いて〈帝國〉南方征討領軍が冥界へと進軍した。
陸自マルノーヴ先遣隊が、わずか一両の90式戦車による射撃で〈帝國〉軍本営を粉砕したことは、義勇兵団に致命的と言える衝撃を与えた。
後方に控える〈帝國〉軍の縦列が、華美な軍旗ごと消し飛ぶのを目撃したカルブ自治市軍の一隊──すでに壊滅したマイラーヒ隊とは別の部隊である──は、あっさりと士気を崩壊させた。柘植の90式戦車は、彼らを支えていた「欲」と「恐怖」をまとめて吹き飛ばしたのだった。
「待て! 逃げるな、おい!」
カルブ自治市軍百人隊長が人の波に押し流されながら叫ぶ。当然聞くものなどいない。徴用された市民兵たちは、我先にと逃げ出していた。
「莫迦野郎ッ! あんな化け物相手に何が出来るよ」
「しかし、逃亡は死罪だぞ」
百人隊長の傍らを駆け抜けながら、兵士は呆れたような顔で言った。
「お目付役はみんな死んじまっただ。誰も見ちゃいねえよ。悪いことは言わねぇ隊長も逃げちまいな」
「マイラーヒ様の部隊を見なよ。誰も生きちゃいない。俺はああなりたくねぇ」
百人隊長は辺りを見回した。彼の所属する隊は中央に位置していた。右翼のマイラーヒ隊は、街道上で全滅していた。左翼のソーバーン族は化け物に引き裂かれ散り散りに森へ逃げ込んでいる。
彼は背後を見た。自分たちを戦場に追い立てていた、憎んでも憎みきれないケルド市の連中はすでに壊乱し、〈帝國〉軍本営は跡形も無かった。
うなり声が聞こえた。気がつくと目と鼻の先に、小山のような巨体が迫っていた。角を振りかざし、全てを踏み砕いて進んでくる。気がつくと百人隊長は一人になっていた。マイラーヒ隊の生き残りを合わせて千名以上いたはずの兵士たちは、誰も残っていなかった。
百人隊長は気付いた。目の前の暴力の塊に対し、自分が何を出来るというのだ。無力。ただ挽き潰される存在でしかない。
「ヒッ、ま、待ってくれぇ!」
彼は情けない悲鳴を上げると、武器を放り投げよたよたと森の中へ駆け出して行った。
後には無数の武具や軍旗、そして物言わぬ骸が残された。
柘植は肩すかしを食らった気分だった。あれだけ頑強に抵抗していた〈帝國〉軍は、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったからだ。
「01より全車、状況知らせ」
『こちら02、河川敷へ到達。被害無し。戦闘可能』
『03、車載機銃残弾僅少、戦闘可能』
『04、戦闘可能。付近に敵影無し。みんな逃げちゃいました』
「01了解。全車警戒態勢を維持せよ」
終わるときはあっさりだったな。いくら砲撃を食らわせても引かなかった連中が、急に崩れたのは何故だ?
柘植は一つ息をつくと、森で待機している小銃班を呼び出した。北方から迫る敵がこれで終わりだとは限らない。速やかに生存者を救出し(仮に生き残りがいればだが)、防衛線を再構築しなければならなかった。
「隊長、囲まれています」
村上の声に、柘植は慌てて周囲を見渡した。確かに囲まれていた。いつの間に。だが、戦車を包囲しているのは兵士では無かった。
避難民である。
本来なら〈帝國〉軍に蹂躙され、なけなしの財産ごと焼き払われる運命だった者たちだ。ある者はマワーレド川に身を踊らせ、ある者は諦めの境地でわずかな窪みに身を伏せていた。
だが、森を飛び出してきた巨大な何かによって、あっという間に〈帝國〉軍は撃退された。最初は悪魔が出たと誰もが思った。ところがよく見れば人が乗っているようだ。そのうち、誰かが異国から来た風変わりな軍勢のことを思い出した。
「あなたが大将さまで?」
目の前におずおずと進み出た、泥の塊のような見かけの男(声色で柘植はそう見当をつけた)が言った。そこだけは泥の色ではない瞳が、明らかに怯えた光を湛えている。柘植は右手にはまった『通詞の指輪』を確かめると、なるべく明るく聞こえるように答えた。
「私は日本国自衛隊の指揮官です。あなたがたの敵ではありません」
だが泥の男は、ヒッ、と悲鳴を漏らし後ずさった。思ったより強めの声が出てしまったらしい。柘植はまだ、戦闘の余韻が消せない。
「〈ニホン〉? 聞いたことがございません。同盟会議の御味方で?」
気がつけば周囲には百人を超える避難民が集まっていた。誰一人まともな身なりをした者はいない。傷つき泥にまみれていた。まだ幼い子供の姿もある。小学生くらいの兄が、妹を背中に守ろうとしている姿を視界の隅に見た柘植は、ぐっと奥歯を噛み締めた。
みんな怯えている。殺されるのではと震えているじゃないか。彼は努めて明るい表情で避難民たちに語りかけた。
「我々は、南瞑同盟会議の味方です。〈帝國〉軍から守るために、この地に派遣された者です。もう大丈夫、安心してください!」
その言葉の効果は劇的だった。
避難民たちが一斉に戦車に駆け寄る。泥まみれの顔には笑顔が浮かんでいた。
「助かった! 俺たち助かったんだ!」
「おおお、信じられない。奇跡だ」
「ありがとう! ありがとうございます。あなた方のおかげです」
彼らは口々に礼を述べた。柘植は「危険だから離れるように」と言おうとしたが、あっという間に周囲は避難民たちで溢れかえった。
森を出た小銃班の隊員たちは、戦車が包囲されている様子に色めき立ったが、すぐに状況を理解した。凄惨な戦場でぼろぼろの姿で集まってくる人々。一部の者は額や腕から血を流し、動けなくなるほど衰弱した家族を抱える者もいる。
彼らには90式の武骨な車体が、まるで神の御遣いのように見えているのだ。
小銃班員たちは、速やかに行動を開始した。彼ら自衛隊員にとり、『被災者』救助はすでに本能に等しい。自衛隊創設後の歴史が、軍事組織としてはいささか過剰なまでの民間人保護を彼らのDNAに刻み込んでいた。
「柘植一尉! 一個分隊を警戒に就けます。残りは──」
「任せる。戦車は警戒に就く!」
先回りした柘植の言葉に、小銃班長は感謝の表情を浮かべると部下の半数に救助を命じた。彼自身も突撃するような勢いで、両親を失ったらしい兄妹の元へ走り出す。彼には同じ年頃の娘がいるのだ。
彼の部下たちも班長に劣らぬ勢いで、避難民たちの救護に取りかかった。衛生員が簡易トリアージを行い、治療が必要な避難民を選別する。軽傷の者には隊員が傷口を清潔にし、個人用キットで手当てを行った。
疲労でへたり込んだ老人に、装輪装甲車から引っ張り出した毛布をかけ、少女にチョコレートを与える。隊員たちは淡々と、だが全力で避難民に対処した。
驚いたのは、マルノーヴの民の方だった。戦場では虫けら程の扱いを受けるしかない自分たちを、この騎士団はまるで家族のように扱っている。
「有難てぇ。わしゃもう死んだもんと諦めとったよ……」
上等な毛布をかけられ、額の傷を手当されている老人が言った。目の前の異国の兵士は、戦化粧であろう様々な色で塗られた顔に気遣いの色を浮かべながら、彼を丁寧に扱った。言葉は通じないようだったが、態度が老人を安心させた。
「……おいしい」
少女はここが戦場であることを忘れた。恐ろしげな風体の兵士が近づいてきたときは身を堅くした彼女だが、心外そうな表情を浮かべた兵士が差し出した、銀色の紙に包まれた茶色の塊は、それ程までの威力を発揮した。
今まで体験したことのない甘味に、口の中がびっくりしている。一口噛むごとに疲労した体に力が戻るのを感じた。彼女は(これは聖餐なのかしら)と思った。大地母神の御加護でもなければ、こんな美味しい食べ物は作れない。
「本当においしい……ありがとう」
上目遣いに見上げた彼女が恐る恐る目の前の兵士に礼を言うと、熊のような見かけの兵士は嬉しそうに頷いた。よく見ると優しげな目をしていると思った。
避難民たちは思った。何故〈ニホン〉の騎士団は、自分の領民ですら無い者を手厚く保護するのだろう?
どうやって避難民たちを安全な場所に移したものか。軽装甲機動車や装甲車ではとても追いつかないぞ。
柘植は車長席で周囲を警戒しながら、これからについて考えていた。避難民は二百名を超えさらに集まり続けている。戦闘再開前にどうにかしなければならない。
「〈ニホン〉の大将さま?」
柘植を呼んだのは、壮年の男だ。おそらくそれなりの立場の者だろう。彼の背後には治療を受けた避難民たちがいる。
「あなた様の騎士団が、〈帝國〉軍をやっつけたのでございますか?」
「……はい」
柘植の答えに、避難民がどよめく。口々に「俺は見たぞ。この魔獣が〈帝國〉軍の奴らを蹴散らすのを!」「なんと凄まじい」「いったいどこの国の方々なのかしら」などと話している。見る見るうちに彼らの表情が歓喜に包まれるのが分かった。
「まことに、まことにありがとうございます。〈帝國〉軍の暴虐を前に、我ら死を待つのみでありました。それをお救い下さった皆様の御恩、いくら御礼を述べても足りません」
「いえ、我々は自衛のために戦っただけで……」
「自衛? はて、これは御冗談を。あれほどまでに凄まじい焔、見たことも聞いたこともございません。この魔獣はあなた様が使役なさっておられるのですか?」
「……まあ、そうなります」
「これほどの魔獣を手足の如く使役されるとは、さぞ名のある遣い手でございましょう!」
避難民たちは偵察隊の隊員たちを口々に讃え、感謝を表した。90式戦車の巨大さに目を丸くし、隊員の強さに感嘆した。
そんな時だった。
「どうしてッ!」
甲高い叫びが、温かだったその場の空気を凍らせた。あまりにも悲痛な響きだった。柘植は声の主を見た。予想はついていた。
「……カルフ」
縄を抜けたのだろう。少年は肩を震わせ、全身を強ばらせて柘植を見ていた。柔らかな髪は乱れ、泣きはらした瞳は赤く、はにかむように笑っていた少年の面影は無い。憔悴した表情には絶望と悲嘆が満ちていた。
「どうしてなのですかツゲ様! これほどまでに圧倒的な力を持ちながら、なぜなのです?」
少年の足下には、彼の所属したパラン・カラヤの衛士たちが血塗れの姿で事切れている。抱き起こそうとしたのだろう。少年の華奢な体は衛士たちの血で染まっていた。
柘植は、カルフから目が離せなかった。衛士団との関係が悪化した後も、何かと気を使ってくれた優しい少年は、咎めるような瞳で柘植を見ている。
(憎まれて当然か)
少年が言わんとすることを柘植は理解している。
「これほどの力なら。〈帝國〉軍数千をたやすく屠ることができるのならば、何故衛士団を見殺しになさったのですか? みんな、みんな死んでしまった……私は何もできなかった。でも、でもあなたなら!」
村上三曹は、カルフの元へ駆け寄ろうとしたが、できなかった。ある衛士の死体のそばには、血塗れの写真が落ちている。90式戦車を前にすました表情でポーズをとる三人の衛士が写っていた。
「私には理解できません! なぜ衛士団が全滅するのを待ったのですか? ツゲ様──」
カルフは力無く跪き、血塗れの死体に顔を伏せ泣き続けた。
避難民たちは困惑し、自衛隊員たちは凍り付いている。柘植は理解していた。自分たちは結果として、命の選別を行ったに等しい。
己の選択が、避難民たちを救い、衛士団を救わなかった。その結果は眼前に示されている。
慟哭するカルフの声を聞きながら、柘植は握り拳を90式の砲塔上部装甲に叩きつけた。鈍い痛みが走った。
南からはくぐもった爆発音が響いていた。稜線の向こうに黒い煙が幾筋も立ち昇っている。無線は市内各所で戦闘が行われていることを伝えていた。どうやら敵は複数の経路でブンガ・マス・リマへ侵攻を企図していたらしい。
柘植は部下に命令を発するため、カルフから視線を外した。戦闘の方が楽だと、一瞬でも思う自分を恥じた。
感情のあれこれはあとだ。あとでたっぷりと苛まれてやる。だが、今は己の為したことへの責任を取らなければならない。柘植は思った。俺は指揮官としての責務を果たさなければならない。
まだ、俺が始めた戦争は始まったばかりなのだ。
柘植は熱を持ち始めた拳を頭の上に掲げ、命令を発するべく部下を呼び集めた。
次話で第2章エピローグとなります。