第7話 『ブンガ・マス・リマ』
第7話 『ブンガ・マス・リマ』
交易都市『ブンガ・マス・リマ』
アラム・マルノーヴ南部沿岸地方の経済・文化の中心地であり、中継地でもある。現在は『南瞑同盟会議』の本拠地として会議本体が置かれている。
マルノーヴ大陸の南岸に突き出たメンカル半島は、無数の島々が浮かぶ広大な多島海に面している。この半島の先から海に流れ込むマワーレド川の河口に、最初の集落が作られた。
すぐに誰かが、この集落の立地が周辺の市邑を繋ぐのに大変都合が良いことに気付いた。
目端の効く商人達は迷わなかった。大陸からの交易品はマワーレド川を用いて運ばれ、島々に送り出された。逆に、島々で産出する様々な品は『ブンガ・マス・リマ』を一大集積地に大陸各地へもたらされて行った。
街に交易品と情報が流れ込み、人が集まった。人が集まれば物と金が動き情報が集まる。この地は、マルノーヴ大陸沿岸を東西に進む交易船が補給し情報を得るのに絶好の場所となって行った。数百年繰り返すうちに、街は河口域では収まらなくなった。
無数の中洲上に市域は広がって行った。商取引をもって栄えた街は、自然と商人が権力を握る様になっていった。歴史上数度に渡り周辺に勃興した王朝の支配を受けたが、最終的にこの地を握ったのは常に商人であった。
そして現在、土砂の堆積を避ける為河口から離れた地に大型交易船用の岸壁と港湾が整備され、広域都市・商業同盟〈タジェル・ハラファ〉の盟主となった『ブンガ・マス・リマ』は、人口凡約二十万を抱える巨大都市に成長していた。
その商都はいま、大騒ぎの真っ最中である。
「帝國の飛龍十騎を瞬く間に叩き落とした異界の水軍が入港するらしい」
「はぁー? あんた与太話もいい加減にせんね」
「いや、まことらしいぞ。その船は隼の如き速さで海を走り、光の飛礫が十哩離れた敵を落とすとか」
「あほらし。そないな事、古代王国の魔導軍でも無理やわ」
通りのあちこちで、商談の途中で、洗い場で、市民達の口に噂がのぼった。訛りのキツい者が多いのは、既知世界の彼方此方から集っているからである。
彼等の肌の色・目の色が千差万別なのは当たり前で、耳が長かったり、ふさふさしていたり、犬歯が鋭かったり、尻尾が有ったりしていた。
だが、誰も気にしない。「目が三つだろうが、鱗が有ろうが『商い』が出来る相手なら細かい事はどうでも良いだろう?」
彼等は徹頭徹尾そんな感じであった。
「魔人でもなけりゃ、そんな芸当出来っこないぞ」
「魔人?」
「そう言えば、知り合いの漁師がすげぇ速さで走る船と島ほどあるどでかい船を見たって!」
「そいつは豪気だな。見てみてぇもんだ」
「儂の聞いた話じゃと、異界の船乗りは一つ目の大男で目から怪光線を放つんじゃと」
「眩しくないんかのう?」
「聞いたか!? 昼にカサード提督の水軍と例の異界船がラーイド港に入るらしいぜ!」
「あたし見たい!」
「行くか、面白そうだし」
「行くべぇ行くべぇ」
交易都市の住民というものは、好奇心に溢れた人々である。
結局、老若男女人獣精妖がこぞって「帝國の飛龍百騎を一瞬で全滅させた巨人の操る軍船」を見物すべく、商都の表玄関であるラーイド港区に押し寄せる事となった。
たちまちのうちに石造りの岸壁は見物客で溢れ、それを当て込んだ物売りとスリと邏卒が入り乱れた。
あちこちで普段から仲の悪い商会の丁稚や、交易船の漕ぎ手の間で喧嘩が起きる。巻き添えを喰らったドワーフの放浪鍛冶が海に突き落とされた。怒り狂った同輩が騒ぎに飛び込む。
その周囲では、すぐさまどちらが勝つかの賭が始まり、人混みに酔った森妖精が青い顔でひっくり返った。すかさず、彼女を介抱しようと両手に余る数の男達が群がるが、彼等はたぎる下心と共に仲間の拳と魔法で纏めて吹き飛ばされた。笑い声が辺りに満ちていた。
気がつけば、祭の様な景色である。
その日のラーイド港区二番邏卒詰所邏卒長の日誌には、こう記されている。
『人々が集まり騒ぐこと甚だしく、非番を含め総員が此に当たる。この日、乱闘に及ぶ者百七十四名。落水者二十七名。摺りに遭う者、迷い子の数、数えきれず。
異界の舟は噂よりよほど小さく、さほどの異形に非ず。ただ一つ、突然舟が上げた咆哮に肝を潰すもの多数。運荷船二艘が転覆。明日水軍に抗議の予定』
『されど、民衆の笑い集う様、久方振りの事なり。水軍の勝利をもたらしたこの舟を、人々は好意をもって迎えた事を此処に記す』
一方。
『2012年12月16日 不明飛行物体との戦闘終結後、目的地「ブンガ・マス・リマ」へ向かう。当初旗艦〈ぶんご〉を伴う予定であったが、現地住民の船舶多数が港内外に遊弋しているとの情報あり。
航行の安全を考慮し本艇に政府代表を移乗後、第2ミサイル艇隊でラーイド港に入港する事とされた』
『ラーイド港にて、無数の人々の出迎えを受ける。港内の水面は、手漕ぎや帆走の小型船で埋まっていた。港の規模はかなりの物であった。機械の類は一切見えない。
近い風景といえば、東南アジアだろうか? だが、東南アジアにはエルフもドワーフも存在しない』
『岸壁にエルフと騎士と魔法使いらしい集団を見つけた。盗賊と神官とドワーフの戦士は探しても見つからなかった。何だか期待外れな表情をしている現地人が多かったので、艇長に汽笛を鳴らし歓迎に応える事を進言した』
『現実感の無い景色に、浮かれてしまった事を反省する。だが、信じられないがこれは自分に本当に起きた出来事らしい。何てこった』
〈はやぶさ〉航海長の日誌より。
大商議堂 中央商館街 ブンガ・マス・リマ
2012年 12月16日 16時27分
「日本国政府を代表し、盛大な歓迎に感謝致します」
かつては商業同盟〈タジェル・ハラファ〉大商議堂として、現在は『南瞑同盟会議』の本拠として、その威容を衆目に示し続ける白亜の商館の中、その一室に人々は集っていた。
細密な紋様を丁寧に織り込んだ極彩色の絨毯の上には、巨大な円卓が鎮座している。その席の片側には『南瞑同盟会議』に連なる諸勢力の重鎮が座り、もう一方には異界から来た使者が腰を下ろしていた。
高価な調度品の置かれた部屋の天井は高く、採光窓からは柔らかな明かりが室内に注いでいる。部屋の空気は精霊の助けにより絶えず循環し、爽やかな温度に保たれていた。この事からも、この建物の主達が莫大な富を手中にしていることを窺わせた。
同盟会議重鎮の、一様に威厳と財力を競うかの様な装飾品と衣装の鮮やかさに比べ、異界の使者は驚くほど地味な服に身を包んでいた。
僅かに装飾と言えるのは、首から下げた飾り布と襟元に着けられた四角い青色のブローチのみである。いささか肉の付きすぎた身体を分厚いクッションに預けたある都市の代表などは、あからさまに侮った表情を見せている。
だが、目端の利く者は使者の履く靴を一瞥し、僅かに眉尻を上げた。素知らぬ顔で気を引き締める。そもそも、勇猛さで鳴らすカサード提督が手放しで褒める相手である。さらに、ロンゴ総主計からは彼の国の驚くべき報告が上げられている。
目の前の貧相にも思える男が、見かけ通りである筈もない。
「御礼を申し上げるべきは此方でしょう。我が水軍の危機、貴軍無しでは切り抜けられませんでした。百万の味方を得た思いです」
同盟会議側が、礼を述べた。〈ニホン〉の使者は頭を下げたが、表情一つ変えない。
「我々は攻撃を受けた為、必要最小限の自衛措置をとったに過ぎません。全てはこれからの交渉次第です」
「慎み深い事ですな」
〈ニホン〉執政府代表と名乗る男は、慎重に言葉を選びながら次のような要求を示した。
〈帝國〉に関する情報の提供
『門』に関する情報の提供
周辺海域及び地形調査の許可
市内に出先機関の設置。郊外の土地の借り上げ
『通詞の指輪』購入を始め、『南瞑同盟会議』との商取引の許可
これに対し、『南瞑同盟会議』側は、
対〈帝國〉戦への参戦
魔導兵器の供与若しくは売却を求めた。〈ニホン〉側の要求に対しては、出先機関の設置や土地の借り上げについては応じ、商取引についても指定する商会を通すことを条件に許可した。
周辺海域の調査については、水軍が彼等に大変な好意を示している事が大きく影響した。〈ニホン〉側は、ほぼ自由に調査活動を行うことを認めさせる事に成功した。
逆に『門』に関する情報の提供は「リユセ樹冠国の秘儀に当たる」として『同盟』は〈ニホン〉に参戦の確約を求めた。〈帝國〉の情報についても、小出しにする態度を示している。
〈ニホン〉側も、「参戦の判断は〈帝國〉が我が国民を害したかどうかを慎重に確認しなければ不可能である」とし、魔導兵器については「兵器売却を禁ずる国法有り」として突っぱねた。
結局のところ、情報提供と参戦については次回以降の交渉に持ち越されることとなった。両者は一定の成果を得た事を確認した。
交渉において〈ニホン〉代表は『南瞑同盟会議』の諸国家代表に対して、頑なに「住民代表の皆さん」と呼び掛けた。いささか不遜な響きであり、〈ニホン〉側の慎重な姿勢の中に見えた、僅かな違和感である。
これに不快感を表する者は多く一時会議は紛糾した。
それとなく訂正を求めるロンゴ・ロンゴに対し、〈ニホン〉代表は不思議な笑いを浮かべ、申し訳無さそうに言った。
「私は、まだ皆さんが求める表現を用いる事を許されておりません。どうか、ご容赦頂きたい。大変難しい問題なのです」
「理解出来かねますな」
「ところで、この周辺において無人の島の扱いはどの様になされているのでしょうか?」
何を言い出すのか、という表情でカサードが答えた。
「無人の島などそれこそ豆魚の数程在ろうよ。有益な島には人が住むが、それ以外は誰も知らぬ。漁師が風待ちに寄ることも有ろうが、魔獣のいる島も多くてな」
「では、無主の島々は数多存在すると?」
「応よ」
「それを聞き、安堵しました。遠からず良いお話が出来るかと、その様に期待しております」
〈ニホン〉執政府代表はそう言って、今度は本当の笑顔を見せた。
南瞑海上 異世界
2012年 12月19日 13時15分
「いくぞ、1、2、3!」
「そりゃ!」
あちこちに錆が浮き、いささか古びた風情を見せる甲板上で乗員達が機械を操作する。ぎらつく陽光を受けながら、ブイが海面に投下された。
ブイは海面に落ちると、派手な音と水柱を立てた。すぐに灯標が点灯する。
海上保安庁の設標船〈ほくと〉は、急ピッチで航路の啓開を進めていた。付近では〈明洋〉が海底地形や海流、水深その他諸々の観測データを集め、精査し、海図の作成に取りかかっている。
二隻に寄り添う様に巡視船〈てしお〉が遊弋していた。
別の海域では〈海洋〉が〈おいらせ〉を護衛に、ロランC局及び中波無線標識局開設の適地を求めている筈であった。
GPSも海図も無い、浅瀬を示すブイも無い。天測も出来ない。そんな海で戦う事など不可能である。自殺行為だ。
至極真っ当な現場の意見を受け、日本国は先ずこの世界の有り様を調べ始めていた。
「左20度、ヘリコプター1機」
見張りの報告に船長が空を見上げる。汗が目尻に流れ、染みた。滲んだ視界の中で日の丸を付けた海自のヘリが、ローター音を響かせ飛び去っていった。
「どこもかしこも、フル稼働だなぁ」
あの機の他にも、聞くところによれば無人機が多数投入されているらしい。
陸地に関しては海自の掃海母艦を基地に、国土地理院の測量チームや陸上自衛隊中央地理隊が測量を始めている。沿岸部では掃海艇が走り回り、EOD(水中処分隊)が揚陸適地を探し回っていた。
異世界の理がどの様な物なのか、全く分かってはいない。それを解明するのは、本来学術研究者達である。
だが、ここは民間人が立ち入るには危険過ぎた。
日本にとっても異世界にとっても。
「ま、でかい仕事では有る、か」
船長は、まだ手付かずの大海原を眺め、一人呟いた。
ブンガ・マス・リマ北方約100キロ
2012年 12月23日 11時42分
騎兵斥候が街道沿いを南下する軍勢を発見してから、七日が過ぎていた。
触接を続ける斥候からの報告を受け、南瞑同盟会議の諸都市自警軍及び、傭兵団は集結を完了。兵権の一時委任の手続きを持って連合軍を編成し、根拠地を進発した。
その数、自警軍歩兵六千、騎兵千余に傭兵団二千を加えた計九千の大軍であった。
これに対し〈帝國〉南方征討領軍は歩兵約三千、妖魔兵団二千の計五千余という兵力である。神出鬼没の戦い振りで同盟会議側を翻弄し続けた〈帝國〉軍は、ここに来て遂に捕捉されたのだった。
ほぼ二倍の兵力を揃えた同盟会議は、これを決戦により戦況を挽回する好機と見た。罠を怪しむ声は、兵站を脅かされ、ゆっくりと、だが確実に衰退する諸都市の決戦を望む声にかき消された。
〈帝國〉軍の跳梁による商取引の停滞と、これに対抗する為に集結した兵備の維持費に諸都市は悲鳴を上げ始めていたのだった。
一応の手当として、斥候に多くの兵が割かれた。伏兵を十分警戒しつつ、連合軍は軍を北上させた。
両軍は『ブンガ・マス・リマ』より北方約100キロの平原で互いを捕捉、対峙した。
丘に定められた本陣からは、戦場が一望出来る。
両軍が南北に対峙する平原は、西をマワーレド川がゆるやかに流れ、東にはいくつかの森林が点在している。川と森に挟まれた平地部分に、両軍は陣を敷いていた。
南に布陣する南瞑同盟会議連合軍は、自警軍五千を五つの隊に編成し横陣を組んだ。その右翼には騎兵を配置し、予備隊として傭兵団を後方に置いた。
兵力に勝る側ならではの、手堅い備えである。当然、右翼に点在する森林は斥候により確認し「軍が統制を維持しつつ踏破するのは不可能」という報告を受けている。
隊列を組まない兵がどれほど伏せていたとしても、予備隊で容易く粉砕出来る。この世界の野戦において、陣形とはそれ程の意味を持っている。
一方、〈帝國〉軍も同様に横陣を構えていた。予備隊は妖魔兵団と見積もられた。騎兵は見えなかった。
両軍を一望し、南瞑同盟会議連合軍指揮官は、勝利を確信した。
戦場はほぼ平坦。兵力差は二倍。日没までは半日あり、天気は晴れ。敵に騎兵は無く互いに横陣を組んで対峙している。
平押しに攻めても、右翼から騎兵を旋回させても、勝てる。彼は己の信ずる神に感謝の祈りを捧げた。勝利は自分の人生に、栄光をもたらすだろう。富と名声という形で。
戦闘は、両軍前衛部隊の弓射を皮切りに開始された。互いに矢を射掛け合う。射撃戦は当然の如く連合軍が優位に立った。
〈帝國〉軍の弓射は弱く、専門兵では無い事を示している。直ぐに〈帝國〉軍の戦列が乱れ始めた。
鐘が鳴らされる。
射撃に耐えかねた〈帝國〉軍が、前進を開始したのだった。どこか投げやりな喚声が周囲に木霊する。地響きと共に、数千の兵が押し寄せるのを連合軍は眼前に捉えた。
「何だ、あ奴ら?」
「まさか、カルブ自治市の旗か?」
「ソーバーン族の戦士もいるぞ!」
各戦列を指揮する中下級指揮官達は、すぐにそれに気付いた。
調整のとれていない様子で前進する敵勢が、少し前まで取引相手として、近隣の住民として、付き合ってきた者達である事に。
降り注ぐ矢に討ち減らされながら前進する〈帝國〉軍の軍装は、貧弱な上に不揃いであった。普段着に革や綿入れ程度の鎧を着込み、木製の盾を構える者が居ると思えば、カラフルな民族衣装のみの者もいる。
武器は手入れの悪い短槍や片手剣なら良い方で、農具を手にした者も少なくない。
〈帝國〉軍は、兵士では無い男達で作り上げられていたのだった。
「降伏した諸都市や市邑の民か。哀れな……」
一個隊を指揮する将が、顔をしかめた。だが、その口調とは裏腹に右手を掲げる。武将としての彼の思考は、勝利を確信し冷酷とも言える命令を下していた。
「横隊前へ! 蹴散らせ!」
進軍の角笛が鳴らされると、〈帝國〉軍とは対照的に、戦列を維持した連合軍が前進を開始した。各隊は兵制も装備も異なる。しかし、訓練を受けた兵士達であった。
両者は激突した。
連合軍の穂先を揃えた槍が突き込まれ、鍬や鎌を振り上げた男達がバタバタと倒れた。悲鳴があがる。血飛沫が、隣りで戦う兵の顔に飛び散る。
がむしゃらに振り下ろされる〈帝國〉軍の攻撃は、盾の壁に容易く跳ね返された。
「押せやぁ!」
騎士や兵長の胴間声が響く。勢いを増した連合軍兵の人波が、降兵からなる〈帝國〉軍歩兵に襲いかかった。
「市民兵諸君! 逃げよ! 敵は帝國ぞ!」
連合軍指揮官の中には、寝返りを促す者もいた。
だが──
「何故、崩れぬ?」
〈帝國〉軍は、持ち堪えた。甚大な被害を出しながらも崩れない。泣きながら棍棒を振り回す若者がいる。喚きながら連合軍兵士に飛びかかる農民がいる。
明らかに異常な戦意であった。
一人の百人長が気付いた。
「敵勢の後方に在るのは──まさか!?」
カルブ自治市兵の後方には、中継都市ケルドの旗印。ソーバーン族の後には、ドフダー族が見える。何れも水源争いや、通行税問題等で仲の悪い勢力である。
「督戦させているのか!」
前衛で血みどろになる部隊の後方には、必ず彼等と対立する勢力の軍勢がいた。しかも、督戦隊の役を担うのは普段劣勢に立っていた勢力ばかりである。
斧で横凪に襲いかかる敵をかわし、たたらを踏んだ首筋に剣を振り下ろす。百人長は、元は樵であろう敵兵が叫んだ言葉に、愕然とした。「ここで勝たにゃ、家族が!」樵はそう言って死んだ。
対立する二つの勢力の扱いに差を付け、人質をとって戦わせる。人でなし共め。しかし所詮は浅知恵よ。いずれ、崩れるのは間違い無い。
この時点において、百人長は勝利を疑っていなかった。
〈帝國〉軍の戦意は異常な程高く、素人兵の集団に過ぎない彼等は、次々に倒れながらも連合軍の攻撃を良く受け止めた。
右翼側で新たな喚声が上がったその時、連合軍指揮官は思わず地面を蹴っていた。
〈帝國〉軍後方に控えていた妖魔兵団が右翼側に旋回し、連合軍側面を突いたのだった。味方の戦列が敵に拘束された事による隙を〈帝國〉軍は見逃さなかった。
突撃衝力の高いオークや俊敏なコボルトが、連合軍右翼を食い破り始めている。放置すれば、半包囲を受けてしまう。
指揮官は即座に決断した。
「傭兵団を出せ。妖魔共の側背を突け!」
命令を伝える伝令が、傭兵団に分け入る。すぐさま数十から数百名規模の傭兵達が、報酬を得るべく各々突撃に移っていった。
地鳴りが大地を震わせる。迎え撃つ妖魔兵団と傭兵団が接触した瞬間、遠目にも鮮やかな血飛沫と、断ち切られた手足や頸が宙を舞った。
戦は再度膠着した。だが、兵数で劣る敵に打開策は無い。このまま行けば勝てるだろう。連合軍指揮官は、冷静さを取り戻し、その時を待った。
四半刻の後、崩れたのはゴブリン共の集団であった。連合軍右翼に押しまくられた妖魔兵は、一隊が逃げ腰になると支えきれなくなった。
ここで、決する。
指揮官は切り札を投入した。
虎の子の騎兵約八百騎が、一丸となって右翼に出来た間隙に突入を開始する。各都市からかき集められた彼等は、一撃で全てを破砕し得る打撃力である。
泥を跳ね上げ土煙を引いて、騎兵が駆ける。南瞑同盟会議の騎兵は、機動力重視のいわゆる軽騎兵であったが、その威力は主に心理面で発揮された。
「よし、乗り入れるぞ! 馬蹄の錆びにしてくれる!」
目を血走らせた八百の騎馬が突撃する様に、意志の薄弱な妖魔兵はあっという間に戦列を乱した。
悲鳴を上げて逃げ惑うコボルトに、騎兵が槍を突き、馬蹄にかける。騎兵部隊に接触した部分から、〈帝國〉軍は溶ける様に崩れ始めた。
「勝ったな」
「御味方の勝利です。しかし、後味は悪いですな」
「うむ。傷ついたは我等の同朋ばかりよ。〈帝國〉め──」
連合軍指揮官と軍監が勝利を確信したその時、味方騎兵の側面に新たな敵が現れた。それは、森に隠れていた敵の様であった。指揮官は鼻で笑った。
伏兵か。だが散兵が少々あったとて、何ほどのものか。
間もなく、騎兵と敵の伏兵が接触した。
それは、突然の出来事だった。
妖魔兵を蹴散らせつつ進撃する騎兵隊長の耳に、魂を凍らせる様な雄叫びが聞こえた。獰猛な捕食者のみが為し得る咆哮。
少なからぬ騎馬が棒立ちになり、幾人かの騎兵が振り落とされた。騎兵隊長も、苦労して愛馬を落ち着かせる羽目になった。
「何事だ!?」
その問いに、部下が答えた。
「右の森林より伏兵! 散兵百余!」
右翼で悲鳴と剣戟の音。そして、絶えぬ咆哮。何かがいる。
放置すれば危うい。即断した騎兵隊長は配下に命じた。
「我に続け! 伏兵を蹴散らし、再度敵の後方に回り込む!」
だが、それは果たせなかった。
悲鳴が大きくなる。気がつけば彼のすぐそばまで、戦闘が近付いていた。何者だ? 騎兵隊長は短槍を脇に構え馬首を巡らせた。
配下の悲鳴と共に、配下の乗る頑強な軍用馬の首が消し飛んだ。乗り手が巨大な影に飛びかかられ、地面に落ちる。
「信じられん……」
呆然と呟く騎兵隊長の前には、巨大なヘルハウンドの姿があった。鋭い牙に騎兵だった物の一部を貼り付かせ、うなり声を上げている。
ヘルハウンドの群れは、次々と騎兵を屠る。よく見れば、魔獣達の間に〈帝國〉兵の姿が見えた。ヘルハウンドは、兵の指図を受け騎兵を襲っている。
別の隊では巨大な獅子が荒れ狂っていた。騎兵隊の背後にはいつの間にか剣牙虎の群れが回り込んでいる。側背を突かれた騎兵隊は、細切れに切り刻まれつつあった。
諦めず離脱し再編成を図った騎兵隊長であったが、指揮官の存在に目ざとく気付いた敵兵が使役する剣牙虎により、愛馬諸共肉片と化した。
「騎兵が!」
眼下で、優位であった味方が敗走を始めていた。騎兵が敗れると、背後に敵を抱えた傭兵団もまた敗走した。
敵横陣の突破にてこずっていた味方の歩兵部隊は、包囲されマワーレド川に追い詰められた。落水し、溺れる者が続出している。
「莫迦な……」
「指揮官殿、どうされますか!?」
「こんな事が……莫迦な!」
連合軍指揮官は完全に我を失っていた。それは、上空に現れた有翼蛇の編隊が放った火球によって、彼の身体が松明の様に燃え上がるまで、続いた。
南瞑同盟会議野戦軍は敗北した。
周囲に〈帝國〉軍に対抗可能な兵力は存在しない。再編成までの間〈帝國〉軍を阻むものは無い。
〈帝國〉南方征討領軍が、交易都市ブンガ・マス・リマに迫るのは時間の問題であった。
青森県むつ市 大湊湾
2012年 12月25日 01時21分
政府の避難勧告に従い、住民が避難したむつ市の街並みは闇の中に沈んでいた。人気の絶えた街では、信号機の灯りが黄色く点滅している。
一方で、海上自衛隊大湊地方総監部や大湊漁港の敷地では、深夜にも拘わらず多くの人々が動き回っていた。
彼等は『門』の警戒に当たる警察官、自衛官を始め、凡そありとあらゆる省庁・機関から派遣された官僚、学者、技術者達であった。
敷地にはエアーテントと天幕、応急のプレハブが立ち並び、昼夜を問わず車両が出入りする。電源車が唸りを上げる横で、クレーン車が資材を輸送艦に搭載している。小銃を構えた警備が辺りを睨む中、書類を抱えた研究員が右往左往し、ケーブルに躓く。
基地内は活気と混乱に満ちていた。長距離偵察用無人機から大豆粉栄養食品に至るまで、山積みの物資で埋まっている。
敗戦から70年。戦火の絶えて久しいこの国に出現した、紛れもない前線基地の姿であった。
冬の陰鬱な曇り空は月明かりを完全に遮り、大湊湾に闇をもたらしている。煌々と灯りの点る陸上施設に対し、湾内は空と海の境すら見通せない。強い北風に煽られた白波が、辛うじてそこが海である事を証明していた。
そんな中、この夜で最も過酷な任務に就いている者は海上にあった。彼等は湾内に突如出現した『門』から祖国を護るべく、そして、『門』に近付こうとする全てを阻むべく、警戒監視を行っていた。
彼等──海上保安官と海上自衛官の乗る巡視艇や警戒艇は、快速と機動性を重視し小型である為、酷く揺れている。
陸自の沿岸監視隊が運用するレーダーは、波の影響で余計なエコーを拾ってしまっていた。操作員があらゆる手を尽くすが、完全には解消出来ない。
それを補う為に、彼等は身を切る冷気と船酔いに耐えながら、闇夜に目を凝らし続けていた。
投光器の光が海面を舐める。
常に形を変える白波の中に、異物があった。それは、僅か数秒間海面にあったが、投光器の光に捉えられる前に、海中に没した。
「視界内、巡視艇が二隻だ。『門』も確認した」
「ソーナーからの情報と一致しています」
「上の連中は、真面目に仕事をしているようだな」
「気の毒な事です」
潜望鏡のアイピースから顔を離した艦長は、非常灯の赤い光の下で静かに笑ってみせた。
「両舷前進最微速。針路000度」
「宜候」
艦は水面下を、静かに進んでいた。
「この辺りの水深を考えると、浮上航行で行きたいところです」副長が言った。
「そうもいかん。海保はもちろん、大湊警備隊にも見つかるわけにはいかんからな。連中、レーダーに加えて暗視装置も使っているはずだ」
艦長が、キャップを被り直しながら言った。狭い発令所は、大きく左右に揺れている。海面ぎりぎりの現深度では、潜水艦も波の影響を大きく受ける。船酔いという訳では無いが、艦長は見かけほど楽な気分では無かった。
油断すれば、海面に飛び出すか、海底に腹を擦るか、はたまた警戒艇に衝突するか。艦長には細心の操艦が求められていた。
「どうせこの波では、暗視装置など五分と覗けやしませんよ。隠密行動は潜水艦の宿命とはいえ……」
「まあ、そう言うな副長。何しろ封緘命令だ。何をさせられるのか俺も知らん。まぁ、積荷とお客さんを見れば、ある程度予想はつくがな。とにかく、こっそりと向こうに渡らなきゃならん」
「やれやれです。……『門』通過10分前、針路上クリア」
副長は溜め息をつき、気持ちを切り替えた。艦長は、額に滲む汗を拭うと明るい声で言った。
「剣と魔法の異世界で極秘の任務。どうにもワクワクするじゃないか。なあ副長、折角だから楽しもう」
「私は艦長ほど気楽に生きられません。貴方が羨ましいですよ」
「この境地が分かるようになれば、一国一城の主まであと一息だぞ」
十分後、艦は『門』を潜り異界へと消えた。『門』が微かな光を揺らめかせたが、それに気付いた者はいなかった。
次話からは、商都『ブンガ・マス・リマ』をめぐる攻防に話が進んでいきます。残念なことに、自衛隊の参戦には紆余曲折あります。