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道の向こう

作者: 鏑坂 霧鵺

 十二月、二十四日のひどく寒い、冬の日の夜。気がつけば、見上げた空にひらりひらりと白いものが見受けられた。道理で寒いはずだと、俺は静かに白い息を吐き出した。

 世間には喜ぶ者も多いだろうが、独り身の、三十路に近い男にとっては特別歓迎するものでもない。かといって、唾棄するほどのものでもない。もっと若い時分であれば、同様の可哀想な連中を集めて、残念会とでも称してこの上なく非生産的な集まりを催す楽しみもあったのだが、今となってはそんな楽しみに乗ってくれる友人も少なくなったし、そんな楽しみを催す気力も自分から失われた。前者は、あるいはいるのかも知れない。変わってしまったと、俺が思い込んでいるだけかも知れない。所帯持ちの友人も随分増えたが、それでも同数くらいは独り身がいる。その中には、同様にやはり暇を持て余して、そんな愚かな集いに賛同してくれる者もあるかも知れない。しかし、後者は確実に俺の中から失われていた。独り身の、三十路に近い、実家暮らしの男の中には。

 雪は、積もるには程遠い様子である。ちらりちらりと風に舞っては、何かに出会ってはすぐに消え去る。中途半端に積もられて、翌朝の通勤で酷い目に会わされる可能性はなさそうであった。それを口実に、会社を休める可能性はもっと。

 さしたる興味もないくせに、これが十年ぶりのホワイトクリスマスだということは知っていた。恐らく、俺はずっと忘れることはないのだろう。

そう、あの聖夜を。十年前の、あの雪の聖夜を。

 それは、俺の胸中に鈍く疼く古傷だった。疼きはある種、甘い痺れにも似ていた。普段は意識することなくとも、時折、ふいと何かの弾みに思い出しては、微かに痛む。儚く、切ない。そして愛しい古傷だった。

 心許ない降り方ではあっても、それでも夜の冷気は幾許かの雪を大地に残すことを受け入れていた。うっすらとした、透き通るほどにうっすらとした白い皮膜が道路を覆いかけていた。そんなささやかな雪原の向こうに、小さな公園が見えた。ふと時計を見やると、間もなく十時といったところか。そんなところまで、あの日と同じとは。俺は思わず苦笑する。

 今でも、ほとんど色褪せることなく鮮明に思い出すことができる。あの、雪の夜のことを。あの雪の夜の、手を伸ばせば届きそうで、しかし触れれば壊れてしまいそうな、彼女の肩を。そして、結局は俺の腕をすり抜けていって、二度とは戻らなかった愛のことを。目を閉じると、そこにはあの日の情景が広がっていた。




「うわあ、寒いはずだわ。雪、降ってきちゃったもんなあ」

 いささか寒さを完全に防ぐには足りない安物コートの前をしっかりと閉じて、俺は底冷えする夜空の下に自転車を漕いでいた。高校最後のクリスマスイブを、同じくして相手のいない、なんとも可哀想な連中と、なんとも哀れな宴を開いた、その帰り道であった。

 仮にも受験生であり、ましてや本番も近い。本来はそこまで無益なことに現を抜かしている暇もないはずではあったが、なにせ息の詰まる状況でもあるからして、たまの息抜きと企画されたものだった。相手があるやつらは、なんだかんだ宜しくしっぽりとやっていることであろうし、相手のない俺たちは、どうせ机の前で寂しく過ごすのであれば、女っ気のない哀れな男どもだけで、とことん哀れで愉快に過ごしてやろうという開き直りでもあった。

 実際、それは大いに盛り上がった。結局のところ、名目などどうでもよく、ただ単に集まって騒ぎたかっただけという向きもある。また、独り身なのは無論男だけに限ったことでもないので、同じような境遇のクラスの女子などに声をかけてもよかったが、そうして変に意識をしたり、気を使ったりも面倒臭かろうとのことで見送られた。

 まあ、確かに別段必要性を感じるものでもなかった。気心知れた男友達と他愛もない馬鹿話で盛り上がれるだけで充分であった。たとえば、今日ここにいる資格のない幸せ者どもについて、やっかみ半分の悪口を言ったりしていれば、それで楽しめた。

 しかし、楽しい時間にも終わりはくるもので、酒に酔いながらも――おおらかな時代だったのだ――そんなところで頭は妙に冷静に、そろそろお開きにせねば明日に支障があろうと、宴の幕は下りた。明日以降は、また受験生に逆戻りなのである。あまり浮かれて、騒いでいてばかりもいられない。名残を惜しみつつも、俺たちは各々帰りの途についた。

 酔って火照った体には、いっそ雪の降るほど寒い夜は心地よかった。酒酔いの上に雪道となれば自転車は半ば自殺行為に思えたので、俺はそれから降り、とぼとぼと押して坂道を下っていた。積もりそうな気配もあまりなかったが、まあ折角の雪なのだ、幾らか楽しんだところで罰は当たるまい。急ぐ必要もない。それに、早々に帰って、現実に引き戻されるのも勿体なかった。

 民家以外には小さな商店がちらほらとしかない住宅街の一角は、酷く静かであった。まだ多くの家の明かりは点いているが、特別騒いでいるわけでもない。騒ぎたい連中は街に出ているし、そうでない連中は家族と静かに祝っているか、あるいは家で一人、ふてくされているのだろう。

 のんびりと歩いているつもりであったが、さして広くもない町、思っていた以上に早く家の近くの交差点まで着いていた。車がどうにかすれ違えるくらいの道幅しかない、信号もない、そんな小さな交差点である。街灯はあるにはあるが、充分な光量とはお世辞にも言えず、暗がりの向こうには申し訳程度の遊具を置いた、やはりこれも小さな公園があった。そんな公園だが、子供の時分はこれでも充分に楽しむに足りていた。

 ここを通り抜けて帰ることもできる。俺は何の気なしに、車避けの柵を縫うように自転車を押して公園に入っていった。ブランコと、滑り台、端にはベンチ。それくらいしかない、思ってみれば久し振りに立ち入った公園は、記憶の中にあるものよりもさらに小さく、そして通りよりもさらに暗かった。頼りなげな街灯しかないとはいえ、それでも近くの家々からの漏れさす光のあるのに比べ、こちらは木々に囲まれてしまってそれすらも望めぬのだから、仕方がないといえば仕方がない。ましてや、こんな時間に公園に来る物好きも少なかろう。煌々と照らす、意味も意義もない。

 なんとはなしに上機嫌に――酔っていたのだ――鼻歌など歌い――酔っていたのだ――暗がりの、静かな、雪がしんしんと降る公園の中を歩いていった。クリスマスであるし、こんな時間であるし、雪も降っている。俺が独占している公園で、俺が何をしても構うまい。一応は近所迷惑にはならないように気は使っている。控えめな音量なのだ。いいではないか。別に、無意味に上機嫌でも。

 知らず知らずに鼻歌の音量は幾分上がっていた。調子を合わせるように。風に揺られたのか、ブランコがキィと小さく軋む音がする。小さな音だが、辺りが静かなので思った以上に大きく響くのだ。俺はそちらに目をやった。そこには、ちょこんと見知った顔が座っていた。風で揺れたのではなかった。彼女が揺らしたのだ。俺が公園を独占しているわけではなかった。彼女もいた。幾分呆けたような、珍しいものを見るような、そんな顔でこちらを見ていたが、最終的にはくすりと小さく噴出した。

 途端、急に気恥ずかしさが足元から上ってきて、酒酔いとは別の理由で顔が赤くなったのを自覚した。むしろ、酔いは一瞬で醒めていた。頭を抱えて座り込んでしまいたい気分でもあったが、どうにか体中から気力と尊厳をとをかき集めて気丈に振舞ってみせる。

 気恥ずかしさは消えていなかった。なにか、これらの醜態を返上できる、気の利いた一言が必要だった。

「こんばんは」

 何も、気などは利いてもいなかった。




 俺と彼女は所謂幼馴染というやつで、ちょうど互いが道を挟んで向かいの家に住んでいた。それだけ近所で、しかも同い年とくれば、物心もつく前から一緒に遊んでいた。実際、俺の記憶において親兄弟以外の最初の登場人物は彼女だった。

 少なくとも、小学校に入るくらいまでは、それこそ兄妹――あるいは、姉弟。どちらであろうか――のように、一緒に過ごしていた。

 今思うと、彼女が俺の初恋の相手だったのだろう。もっとも、それは無論幼い子供の無邪気な恋心であり、幾許か異性を意識しだしたときに、一番身近にいて仲のよい異性が彼女だっただけなのかも知れないが。そして恐らくは、彼女のそれの相手もまた、俺だったのではないかと思う。

 しかし成長するにつれ、お互い同性の、他の仲間と過ごすことが多くなり、特にそうしようとしたわけではなかったが、次第に俺たちは疎遠になっていった。少なくとも、齢が十にもなるころには、顔を合わせればたまには話したりもするが、特に進んで顔を合わそうとはお互い思っていなかった。お互いの中で幼いころの恋心――彼女のそれは、推測でしかないが――は、ほとんど完全に消えて失せていた。

 小学校を卒業する頃には、顔を合わす機会はそれこそなくなり、せいぜいが見かけるくらいであり、そして見かけても特に声をかけようなどともしなかった。誤解なきようにあえて言うのであれば、逆に特段に仲が悪かったというわけでもない。ただお互いがお互いに対し、無関心となっていただけなのだ。

 中学に上がったことは、決定的だった。俺と彼女の家の間を横切る道。これがちょうど、まさに学区の境目で、俺たちは違う中学に通うこととなったのだ。同じ学校でもほとんど全く接点を失っていたのに、こうなってしまえばなおのことである。想像通り、俺たちは顔を合わせることさえほとんどなくなった。会話などはましてや。恐らく、挨拶も含めて中学の三年間は言葉を交わしたことがなかったろう。少なくとも、そんな記憶はない。流石にないはずもなかろうとは思うのだが、しかし記憶の箱をひっくり返して漁ってみても、そんな記憶は欠片も見付からなかった。もっとも、気を払っておらず、また、忘れているだけかもしれないが。

 だから、偶然にも同じ高校に進み、再び意識をしての再会となったのは、本当に久し振りに会ったと感じるほどのことだった。だからといって、再び親しくなるようなこともなく、むしろ三年の完全な空白は思いの外深く間を横切る溝となり、さりとて別段残念にも無念にも感じることもなく、あっさりとした再会ではあった。

「久し振り」などと通り一遍の挨拶などはしたし、余所余所しくもなかったが、二人とも以前とは決定的に違っていた。一番の変化は、昔は名前で呼んでいたのが、苗字で呼ぶことに変わったことだった。何かが胸のうちを横切った気がしたが、それが錯覚であるのか実際であるのか、そしてそれが何であるのか、当時は分からなかった。今思えば、あれは一抹の寂しさであったのだろうか。

 それからの三年間近く――あの、クリスマスの夜まで――、やはり何もなく過ぎていった。時には会話することもあったが、特別踏み込んだことを話すわけでもない。やはりどこか余所余所しく、どう振舞っていいのかお互い分からず、そんな風に接していた。俺は俺で恋人がいた時期などもあったし、彼女も彼女で、同じく似たようなものだったであろう。というよりも、詳しくは知らない。噂で聞くこともあったが、彼女から直接聞いたこともないし、こちらも言ったこともない。幼馴染であることは変わらないが、それ以上でも以下でもなかった。いちいち、彼女ができたであるとか、彼氏ができたであるとか、逐一報告し合うような仲ではなかった。

 三年のときは同じクラスではあったが、あの夜のころは先も言ったように受験の前で、忙しくしていたので、やはり疎遠なままであった。話すときも、近くには他の誰かがいる状態だったし、そう考えると二人きりで面と向かって話すなど、本当に久し振りのことだったのだ。




「何してるの?」

 飾らない、素朴な疑問を投げられる。あまりにも核心を突くその質問で、答えに窮するが、それを悟られまいと答える。

「酔ってるんだよ。おまえこそ、何してるんだよ」

 くすくすと彼女は笑いながら、小さくブランコに揺られている。被った帽子には、うっすらと雪が積もっていた。どのくらい、こうしていたのだろう。

「未成年の飲酒は禁止されてるって、知ってる? まあ、わたしも人のこと、言えないけれど。それに、受験生でしょう、菅原君。いいの? 遊んでて」

「深津だって、受験だろうが。それより、本当に何やってるんだよ、風引くぞ? それに、一人で飲んでたわけじゃないだろう? 連れは、どうしたんだよ?」

 相手は誰だかは知らないが、このとき彼女が誰かしらと付き合っているらしい、という話だけは知っていた。当然、そいつと一緒に過ごしているものだとばかり思ったが、どうにも勝手が違うようだった。

「わたしは、ほら。推薦で決まっているから……」

不意に、彼女は俯いて、嘆息とも取れる小さな息継ぎを入れた。言葉を選んでいるような、言葉にすることを忌避しているかのようだった。少しの間の逡巡の後、意を決したように続ける。

「……それと、こんな風に一人寂しく、雪降る中でブランコに揺られてるのを見て、察して欲しいかな」

 精一杯の強がりのような、自嘲のような、痛ましい笑みを浮かべて、彼女は肩を竦めておどけて見せる。俺はどうするか少し迷った後、彼女の隣のブランコの座り板にうっすら積もった雪を払い、そこに腰を下ろした。さすがに簡単に払っただけではまだ大分塗れたままで、ズボン越しに悲鳴を上げそうになるほどの冷たさを存分に尻に味わう。

「……よりによって、こんな日に喧嘩するなよ」

 半ば呆れた、それでも半ばは同情した声をかける。彼女は苦笑して見せて、小さく「そうだね」と呟いた。暗がりに慣れた目は彼女の目に涙に似たものがあることを発見した。同時に、彼女の目が赤く泣き腫れていることも。

「菅原君は、彼女さんと?」

「皮肉かよ? 寂しい独り身の野郎どもと、むさ苦しい残念会だったよ」

「あれ? 朱美ちゃんは?」

 別れた、以前付き合っていた彼女の名前を出される。多少不意を突かれはしたが、取り繕っても何にもならない。

「……朱美とは夏過ぎに別れたよ」

「あはは、ごめん。でも、なんで別れちゃったの?」

「わざわざ、そうやって他人の古傷を抉って回るのも、どうかと思うがな……。単に、あれだよ。受験が近づいてきてさ、朱美も予備校とかあったし、俺もだけど、単に、忙しくって会う暇が全然なくってさ。気が付いたら、別れようか、そうだね、って。そんな感じさ」

 俺は、小さくブランコを漕いで見せた。彼女もそれに習うように、漕ぎ出した。冬の夜の、雪降る静かな公園に、二つの振り子の影がゆっくりと揺れながら、彼女は少し視線を伏して、寂寞と羨望が混じったような声音で言った。

「じゃあ、受験終わって、二人とも進路決まったら、また一緒になるかも知れないね。いいね、そういうのも。わたしたちは、もう駄目かなあ。あんなに、喧嘩するとは思わなかった。あんなに、好きだったのにね」

「俺たちも、もう駄目なんじゃないかな? 嫌いになったわけじゃ勿論ないけど、好きでもなくなった気がする。なんというか、色々と変わってしまった感じかな。俺にも、よく分からないけどさ」

 暫し、深くて長い静寂が続いた。鳴り響くのはただ、雪の舞い降る無音だけだった。雪の勢いは、気が付けば先ほどよりも強くなってきている。雪は舞い降り、俺たちの吐く白い息の、煙のような塊だけが立ち昇っていた。

「わたしたちも、もう駄目だと思う。あんなに喧嘩したの、初めてだ。あんなの好きだったのに、不思議だね。喧嘩をしている最中、そんなことは完全にすっかり忘れて、相手の嫌なところばっかり見えるし、見つかるんだ。いつもは逆なのに。好きなところばっかり見つけてて、それしか見えなかったのに」

 そう言うと、彼女はまた俯き、声もなく静かに小さく肩を震わせたが、やがて顔を上げ悲しく笑んで俺を見据える。俺は何故か、その視線を真っ直ぐに見つめ返すことができずにいた。

 ぐずつく彼女を尻目に、俺はブランコから立ち上がった。一体、どのくらいの時間こうしていたのだろうか? 体は芯の芯まですっかりと冷え切っていた。かじかんだ指を擦り合わせて、どうにか心許ない感覚を取り戻す。背後で、彼女が動揺に似た、恐れのような不安に身を震わせるのを感じた。俺はこれ以上余計な心配をかけぬよう、なるべくゆっくりとした動作で手をひらひらと振ってみせた。ざわめきが若干遠のいたのを背中越しに確認し、俺は手近な自動販売機で温かいコーヒーを二本買い、そしてそれを持って彼女の元へ戻った。熱いくらいのコーヒーは手袋越しでも指先にじんじんと痺れのような痛みをもたらす。

「寒いだろ? どこにも――、とりあえず、おまえの気が済むまでは、どこにも行かないからさ。まあ、安心しろよ。大したことも言えないだろうけれど、それでも愚痴を聞くくらいはできるしな。だから、おまえが満足するまで愚痴を聞くくらいなら、付き合う」

 驚いたような、ほっとしたような、戸惑うような。そんなものが一瞬顔によぎった後、彼女は再び笑んで見せた。完全に駆逐するには至らなかったが、そこから悲しみは幾分消え去っていた。

「……ありがとうね?」

 俺は気にするなと肩を竦めて見せた。

「近頃はこんな感じだったけど、それでも幼馴染だしな。今更、遠慮なんてするなよ」

 受け取った缶コーヒーを両の掌で包み込むようにし、それを寒さと、涙とで赤らんだ頬、その顔の稜線に添えてその熱を確かめるようにし、彼女は黙って俺の方を向いていたが、しかし見ているのは俺ではなかった。

 彼女が見ているものは、かつての俺だった。かつての俺たちだった。まだ、この小さな公園を、どこまでも広い世界に感じていたころの俺たちだった。俺は、未だ雪を舞い落とし続ける、冬の空の、暗い灰色の空を見上げた。身を預けたブランコの、その支柱は想像よりもずっと低くそこにあった。

 時に昂ぶることもあれども、ぽつりぽつりと、彼女が思いの丈を吐露した。俺はときどき相槌を打ち、あるいは同意し、時に自分の考えを述べたが、しかし往々としては聞き役として徹した。気が付いたころには、開けるのを忘れていた缶コーヒーは、手の内ですっかり冷たくなっていた。

 やがて、彼女の気が済んだように見えた。最後に大きくうなだれて、細く、長い嘆息を吐いた。白い息が細く、長くたなびいた。そしてすっと顔を上げると、その眼には先ほどまでとは違う涙が湧いて出ていた。

「こんなに優しいのなら、アキちゃんと一緒にいればよかったのにね……?」

 俺は、その言葉の真意を図りかねていた。なにより、その呼ばれ方に戸惑っていた。恐らくは、もう十年近くもされていなかった呼び方だった。

 子供のころは、彼女は俺のことをそう呼んでいた。いつからか、呼び方が苗字に変わった。思えば、それは俺たちの距離が広がり始めたのと同じころからではなかったか? それらのいずれが先かは分からない。あるいは、同時に訪れたのかも知れない。

「でも、そうはなってなかったんだよ。だから、今みたいになってる。俺は男友達と馬鹿やってたし、ユキはユキで、彼氏と過ごしてた。もしかしたら、俺がそこに収まってた可能性もあったのかも知れないけど、実際にはそうじゃなかった。だから、こうなってる」

 彼女につられるように、自然と俺も昔の呼び方をしていた。口にしてからはっと気付くくらい、それくらいに自然と言葉になっていた。

「そうだね。起きちゃった嫌なことを棚に上げて、こうだったらよかったのにじゃ、虫がよすぎるね。でもね? わたしは昔。本当、昔。本当に子供のころの話ではあるけど、わたし、アキちゃんが好きだったんだよ? 知ってた? それでね、アキちゃんも、わたしのことが好きなんだと思ってた」

「多分、知ってたし、俺もそうだった。俺も、ユキのことが好きだったし、ユキも俺のことが好きなんだと思ってた。それこそ、子供の戯言で、好きと仲良しの差も分かってないくらい、子供のころのことだったけど」

「気が付いたら、アキちゃんとはあんまり話さなくなってたね。勿論、嫌いになったわけじゃなかったけど。ただ、世界が広がったんだと思う。アキちゃん以外にも、色々と知っちゃって、アキちゃん以外に時間だとか、興味を払わざるを得なくなって。少し寂しくはあったけれど、仕方ないのかなって思ってた」

「そうだな。俺も同じだ。近所の、同い年で仲良しの女の子で、ユキは子供のころの俺にとっては特別だった。ましてや、近所にあんまり歳の近い奴いなかったしな。尚更だったんだと思う。でも、段々とユキ以外の知り合いも増えていって、ユキ以外のやつらと過ごす時間も増えていった。別に、ユキから遠ざかろうだなんて考えていたわけではないけれど、結果的にはそうなってた」

 俺はそこで一度言葉を切って、それに、と続けた。

「仮にさ、俺たちがあのまま身近なままで、それこそ今夜を一緒に過ごすような仲になってたとして、それでも上手く転がったとは限らないし、どうなってたかなんて、誰にも分からないんだし」

 彼女は小さく、うん、と頷いて、すうと目を細めた。

「寂しいね。どっちにしても。一緒にいなかったから悲しいのか、一緒にいなかったから、悲しまずに済んだのか。でも、どっちにしても、寂しいね」

 そうだなと、俺は言って天を仰ぎ見た。気が付けば、いつの間には雪は弱まっていた。戻した視線の先、彼女の顔が思いの外近いところにあったことに、今更ながら気付いた。考えてみれば、それほど不思議なことではなかった。子供用のブランコのそれぞれに、隣り合って座っていたのだから。彼女はすぐ隣にいたのだ。最初から。それこそ、手を伸ばせば、簡単に届くほどの近くに。

「雪、弱まってきたね」

 俺と入れ替わるように、今度は彼女が天を見上げていた。俺はいつの間にか、躊躇いながらも彼女の方に手を伸ばしていた。ほとんど上の空のまま、ああ、とだけ返事をした。先ほどまであんなに近くに感じた彼女が、今はひどく遠かった。いつまで経っても、その手が彼女の肩に届くことがない気がするほどに。

 限りなく長い一瞬の後、ようやく俺の凍えた指先が彼女の肩に触れようとしたその瞬間、彼女はこちらに視線を戻していた。

「雪は止みそうだけど、それでもやっぱりまだまだ寒いね」

 その視線は、その言葉は。俺の手から、意思から、一切の力を奪っていった。俺たちは、そうはならなかったのだ。今までずっと。そして、恐らくはこの先もずっと。俺の完全に力を失った手が、彼女の肩を叩いた。

「寒いし、こんな時間だし、雪が弱まってる今の内に帰ろうぜ? おばさんも、心配してるんじゃないか?」

 そのとき、彼女の表情に過ぎったものは、落胆か、それとも安堵か。あるいは、その両方か。

 俺は立ち上がり、彼女に向けて手を差し伸べた。彼女はすんなりそれを受け入れたが、しかし俺の手以外のものは何一つ掴んでいなかった。俺の手もやはり、彼女の手以外のものは、何一つとして。代わりに、何かが砂のように俺の手から漏れ、逃げていくのを感じた。

 手袋越しに触れたそれが、最後に触れた彼女であった。俺たちは連れ立って冬の夜道を歩き、そして互いの家の前――ちょうど道の真ん中で別れの挨拶をして、互いに背を向けた。思えば、あれは完全なる別れだったのだ。




 あの夜の後、俺たちの距離は幾分縮まったように思えた。しかし、それがそれ以上に近づくこともまた、なかった。それまで以上には会話する機会も増えたし、卒業のころには付き合っているのかと思われたこともあったが、結局はそうならなかった。

 別々の大学へ行くことになり、更にお互い遠方の学校だったために、家を出ることになった。また長い別れとなったが、今度の別れは二人の距離を特に変えるものでもなかった。帰省の時期がたまたま重なって会うこともあったし、その際は他愛のない会話も自然にできた。大学を出て、勤めるようになってから俺はこちらに戻ったが、彼女はそのまま遠くで働き、更に会う機会は減った。せいぜいが盆と、暮れ正月くらいか。それでも何度か、二人で酒など飲みに行ったこともある。お互い、恋人などできれば彼女ができた、彼氏ができたなどと話すこともできた。それでいいとも思えた。

 しかし、何度思ったことだろう。あの夜、なぜ俺は彼女の肩を抱き寄せなかったのか。なぜ、抱き寄せることができなかったのか。そして、もしあの夜、抱き寄せていれば、彼女はどうしたであろう。

 答えは、出ないままでいる。そして、分からないままでいる。ただ、不思議と後悔だけはしていなかった。ただ、時々、無性に寂しく思うだけである。

 彼女のことを、愛していたのか。それは、異性に向けるそれであったのか。それとも、兄妹―あるいは姉弟に向けるそれであったのか。それすらも、分からない。分からないからこそ、十年経った今でも思い出すのかも知れない。

 あの夜、結局は二人のそれぞれの手の中で冷たくなった、あのコーヒーを買った自動販売機が見えた。俺はあの時と同じように、コーヒーを買った。今度は、一本だけだった。そして、冷める前に開けて、それを飲みながらあの夜、二人で帰った道を歩いた。今夜は、一人だけだった。

 あの夜、俺たちが分かれたあの場所に、今俺はいる。ここでの別れが決定的な別離となったのであろうか。それとも、そんなものはもう、とうの昔に訪れていたのか。俺は小さく嘆息を吐き、いい加減未練がましい自身に、少しだけうんざりした。恐らくこの先もずっと、暫くは俺はあの夜のことを思い出すだろう。そして、その度に見えない答えを探すだろう。

あの日と同じように、道の真ん中に立ち、そこから回れ右で我が家へと足を向けた。ほんの十歩か、それにあまる程度の距離。俺は、なんとなく振り返ってみた。いうまでもなく、そこに彼女はいなかった。彼女のいない、彼女の家だけは変わらずそこにあった。もうじき暮れ正月の時期に、帰ってはくるだろう。恐らく。

 この前に会ったとき――それは今年の夏だった――に、今度結婚すると聞いた。幸せそうな顔で、あの夜とは違う終始笑顔の彼女に、おめでとうと心から祝福を送った。そろそろ、いい加減に忘れるべきなのかも知れない。あの夜のことに、いつまでも囚われたままではいけない。

 微かに雪の積もった、道を挟んだ向こう側。幼いころは、すぐ目の前に感じていた道の向こう側は、今ではひどく遠い。

 誰もいない背後に向かって、俺はさようならを言った。



――了

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