第九章 世界の崩壊
最初は、ニュースだった。
「原因不明の昏睡状態が全国で発生」
「奇跡的回復の事例が激減」
「医療機関、対応に追われる」
テレビのアナウンサーの声は冷静だった。
でも、画面の下を流れるテロップは、明らかに異常を示していた。
“奇跡的生還率、前年比82%減”
僕はリモコンを握りしめる。
背後で、神が立っている。
以前より、薄い。
けれど消えてはいない。
「影響が出始めた」
神は淡々と言う。
「君たちが奇跡を拒んだ結果だ」
胸がざわつく。
「俺たちのせいだって言うのか」
「選択には波及がある」
神の声は静かだ。
「奇跡を望む者が減れば、世界の“補正”は弱まる」
補正。
まるで世界がバグを修正するかのような言い方。
翌日、学校でも噂は広がっていた。
交通事故の生存率が下がった。
重病患者の回復例が消えた。
「昔はさ、助かったのにってケース多くない?」
クラスメイトの声が、妙に現実味を帯びる。
凛は黙っている。
その横に、神。
薄く、しかし確実に。
放課後、校門前で救急車が止まる。
担架で運ばれる生徒。
心停止。
誰かが言う。
「前なら助かったかも」
その言葉が、胸に刺さる。
凛の指が、わずかに震える。
神が囁く。
「世界は、奇跡を前提に設計されている」
「君たちが拒めば、余剰は消える」
「余剰?」
「救われるはずだった命」
冷たい言葉。
凛が小さく言う。
「……私のせい?」
「個ではない」
神は答える。
「選択の連鎖だ」
だが、その視線は明らかにこちらを向いている。
夜。
河川敷。
空気が重い。
「もし」
凛が言う。
「私が契約してたら」
言葉を飲み込む。
「何か変わってたのかな」
答えられない。
神が代わりに言う。
「一人の強い願いは、均衡を保つ力になる」
「犠牲があるほど、奇跡は強くなる」
その理屈は、あまりに美しい。
あまりに危険だ。
「じゃあ」
凛の声が震える。
「誰かが犠牲になれば、みんな助かるの?」
神は微笑む。
否定しない。
僕は言う。
「それは、脅しだ」
「現実だ」
神が返す。
「奇跡は有限だ」
「無償ではない」
遠くで、救急車のサイレン。
また。
凛が耳を塞ぐ。
「やめて」
神は続ける。
「君の弟一人ではない」
「君が選べば、数百が救われる可能性もある」
世界規模の天秤。
個人と多数。
最悪の問い。
凛の瞳が揺れる。
「私が、世界を救える?」
その瞬間。
神の輪郭が、わずかに濃くなる。
危険だ。
「凛」
声がかすれる。
「それは、お前が背負うものじゃない」
「でも、見過ごしていいの?」
涙が浮かぶ。
「私が拒んだせいで、誰かが死ぬなら」
胸が締めつけられる。
神が静かに言う。
「英雄とは、そういう存在だ」
違う。
それは、依存の完成形だ。
「凛」
近づく。
「世界は、お前一人に救われるほど軽くない」
神の視線が鋭くなる。
「無責任だな」
「責任ってなんだよ!」
叫ぶ。
「全部救えないなら、全部自分のせいなのか!?」
沈黙。
川の音。
遠くのサイレン。
凛は震えている。
選択が、再び迫る。
今度は個人ではない。
世界。
神が最後の一押しをする。
「君が契約すれば、均衡は回復する」
「奇跡は戻る」
「救われる命が増える」
凛の手が、わずかに光へ伸びる。
また、あの光。
世界を救う代わりに、誰からも愛されなくなる契約。
僕は、凛の手を掴む。
強く。
「選ぶのは」
息が荒い。
「世界のためじゃない」
凛の瞳が、こちらを見る。
「自分のためだ」
神の光が揺れる。
「自己中心的だ」
「そうだ」
否定しない。
「それが人間だ」
凛の手が、止まる。
神の輪郭が、再び薄くなる。
だが。
消えない。
神は言う。
「では問おう」
静かな、最後通告のような声。
「君たちは、奇跡のない世界を本当に受け入れるのか?」
空気が凍る。
遠くで、またサイレン。
凛の手は、まだ震えている。
答えは、まだ出ていない。
世界が揺らいでいる。
そして。
神は、まだここにいる。




