第七章 暴露
凛の部屋は、驚くほど普通だった。
白いカーテン。
机の上の参考書。
壁に貼られたサッカー選手のポスター。
その中央に、写真立て。
笑っている少年。
凛の弟。
「入って」
凛は淡々と言った。
声は落ち着いている。
落ち着きすぎている。
部屋の隅で、神が立っている。
完璧な姿で。
まるでこの空間の主のように。
「もう決めたの?」
僕は聞く。
凛は写真を見つめたまま答える。
「決めないと、前に進めない」
「それは前じゃない」
即座に言う。
「逃げ道だ」
凛の肩が揺れる。
「逃げたいんだよ」
初めて、感情がこぼれた。
「毎日、あの日の音がするの。ブレーキの音。電話の着信音。お母さんの泣き声」
拳を握る。
「私だけ、生きてる」
神が静かに歩み寄る。
「だからこそ、救える」
「代償を払えば、痛みは終わる」
「終わらない」
僕は遮る。
神が微笑む。
「では、条件を明確にしよう」
空気が変わる。
冷える。
「弟は生き返る」
「身体も、記憶も」
凛が顔を上げる。
「ただし」
神の目が、こちらを向く。
「彼は君を認識しない」
時間が止まる。
凛の瞳が、わずかに揺れる。
「……認識しない?」
「存在として知覚できない」
神は淡々と続ける。
「視界に入らない。声も届かない。触れられない」
呼吸が浅くなる。
「それが、“誰からも愛されなくなる”の本質だ」
凛が後ずさる。
「違う……」
「世界は彼を愛する。家族も、友人も」
神の声は優しい。
残酷なほど。
「ただ、君だけが切り離される」
僕の頭が真っ白になる。
「それは……」
「公平だろう?」
神が言う。
「命と引き換えに、関係を失う」
「……ふざけるな」
声が震える。
「命があっても、関係がなければ意味がない!」
神の瞳が冷える。
「それは君の価値観だ」
凛は、写真立てを握りしめている。
指が白くなる。
「でも、生きてるなら」
震える声。
「どこかで笑ってるなら」
涙が落ちる。
「それでいいって、思わなきゃ」
違う。
それは、自己罰だ。
「凛」
近づく。
「それは救いじゃない」
「じゃあどうすればいいの!」
初めて叫んだ。
「どうすれば、この罪が消えるの!」
部屋が静まり返る。
神が、ゆっくりと囁く。
「消える」
甘い声。
「契約すれば、罪悪感は薄れる」
「彼は笑う」
「君の代わりに」
僕の中で、何かが切れた。
「黙れ!!」
叫びが、部屋を震わせる。
神の光が一瞬、揺らぐ。
「お前は救いじゃない!」
息が荒い。
「ただ、痛みを形にしてるだけだ!」
神が初めて、表情を歪める。
「不完全な者が」
「不完全でいい!」
言葉が止まらない。
「失ったまま生きるのが、人間だ!」
凛が、泣きながらこちらを見る。
「でも、苦しい」
「知ってる」
即答だった。
「俺も、毎日苦しい」
喉が焼ける。
「何回も願った」
初めて言う。
「神様がいるならって、何回も思った」
神が、わずかに震える。
「でも」
拳を握る。
「願わなかった」
凛が息を呑む。
「怖かったからだ」
正直な言葉。
「奇跡で戻ってきた母が、俺を見なかったら」
沈黙。
「耐えられない」
凛の瞳が、揺れる。
神が低く言う。
「恐怖で選択を止めるのか」
「違う」
一歩、凛に近づく。
「恐怖があるから、選ぶんだ」
凛の指先が、光から離れる。
神の輪郭が揺らぐ。
「君は彼女の痛みを背負えない」
神が言う。
「世界も背負えない」
その通りだ。
でも。
「一人で背負わせないことはできる」
凛の前に立つ。
「弟は戻らない」
残酷な事実。
「でも、俺は消えない」
凛の涙が止まる。
「お前が誰からも愛されなくなるなら」
声が震える。
「俺が愛す」
神の光が、大きく揺れた。
沈黙。
凛の呼吸だけが聞こえる。
やがて。
彼女の手が、完全に下りた。
光が、消える。
神の瞳が、細くなる。
「選択か」
静かな声。
「ならば、代償は別の形で広がる」
意味深な言葉を残し、
神は一歩後退する。
まだ消えない。
まだ、終わっていない。
凛はその場に座り込む。
泣きながら。
でも。
光には触れていない。
奇跡は、発動していない。
僕は理解する。
これは勝利じゃない。
猶予だ。
神はまだいる。
世界も、まだ歪んでいる。
だが。
凛は、今は、選んだ。
奇跡ではなく。
痛みを抱えたまま生きることを。




