第三章 弟の願い
凛の弟が死んだのは、三ヶ月前だ。
トラックとの接触事故。
即死だったと、彼女は言った。
「痛くなかったと思う」
それが、第一声だった。
放課後の屋上。
フェンス越しに見える街は、いつも通りで、
人も車も、容赦なく流れている。
「その日ね、私、喧嘩してたの」
凛は空を見たまま言う。
「部活の迎え、めんどくさくて。自分で帰ってきてって」
風が髪を揺らす。
その隣で、神は静かに佇んでいる。
「だから、私のせい」
即答だった。
僕は言う。
「事故だ」
「でも、私が行ってたら」
その言葉の続きを、彼女は飲み込む。
沈黙が落ちる。
屋上の空気は、やけに澄んでいる。
「願えば、生き返るんだよ?」
凛はそう言って、微笑んだ。
笑顔なのに、目が笑っていない。
「代償は?」
「誰からも愛されなくなる」
淡々とした口調。
「それ、本当にそのままの意味か?」
凛は初めて、僕を見る。
「どういうこと?」
「神は、正確に言わない」
自分でも驚くほど、言葉が鋭かった。
彼女の神が、こちらを見る。
薄く笑う。
「疑うの?」
声は直接、頭に響いた。
凛には聞こえていない。
「君は願わない弱者だ」
「……黙れ」
「彼女は違う。彼女は選べる」
神は凛の耳元に囁く。
「愛されなくなるだけ。命が戻る。公平だろう?」
公平?
誰にとって?
凛は目を閉じる。
「弟ね、サッカー好きだったの」
唐突に言う。
「私より足、速くてさ。ずるいよね」
少し笑う。
その笑顔に、ひびが入る。
「もう一回だけでいい。怒られてもいいから」
声が震えた。
「『ただいま』って言ってほしい」
その瞬間。
理解してしまう。
これは、依存だ。
後悔という名の。
「凛」
名前を呼ぶ。
彼女は目を開ける。
「願いを叶えたら」
喉が乾く。
「弟は、本当に同じ弟か?」
凛の呼吸が止まる。
「どういう意味」
「生き返る。でも――」
言葉を探す。
「君を、覚えてる保証は?」
静寂。
風が止んだみたいだった。
神が、初めて表情を変える。
わずかな、苛立ち。
「言葉遊びだ」
神が言う。
「条件は守る。命は戻る」
「でも、“関係”は守るって言ってない」
神の瞳が冷える。
凛は、ゆっくりと僕を見る。
「……そんなわけ」
言い切れない。
彼女も気づいている。
“愛されなくなる”という曖昧さに。
愛されないのは、世界からか。
それとも――
たった一人からか。
神が優しく笑う。
「怖いの?」
凛の耳元で。
「失うのが怖い? それとも、彼の言葉を信じるのが怖い?」
凛は唇を噛む。
「私は」
震える声。
「私は、罰を受けたいだけかもしれない」
その言葉は、僕の胸を撃った。
罰。
そうだ。
彼女は救いたいんじゃない。
自分を許せないだけだ。
「代償で済むなら、安いよ」
もう一度、彼女は言う。
でも今度は、少しだけ弱かった。
神が手を差し出す。
「契約を」
光が、彼女の指先に集まる。
「やめろ!」
叫んでいた。
凛が驚く。
神の光が揺らぐ。
「それは奇跡じゃない」
声が震える。
「ただの取引だ」
神が冷笑する。
「君は何も差し出さなかった。だから理解できない」
違う。
差し出した。
僕は――
願いを。
握りつぶした。
「凛」
一歩、近づく。
「弟が戻ってきて、君を見ない」
喉が裂けるみたいに痛い。
「それでも耐えられるか?」
凛の瞳が揺れる。
神の光が、わずかに弱まる。
「……わからない」
初めての本音だった。
屋上のドアが、風で軋む。
世界は、まだ壊れていない。
でも。
選択は、確実に近づいている。
神が、僕を見る。
「不完全な者が、何を守る」
その言葉が、やけに深く刺さった。
凛は、まだ手を伸ばしたままだ。
あと少しで、触れる。
奇跡に。
そして、代償に。
僕は理解する。
これは神との戦いじゃない。
彼女の“後悔”との戦いだ。
そして。
自分の“弱さ”との。




