第二章 奇跡の代償
神を殺した翌朝、世界は何事もなかったみたいに動いていた。
目覚ましが鳴り、
ニュースキャスターが笑い、
父からは「遅くなる」の一言だけのメッセージ。
奇跡は起きていない。
母も帰ってこない。
それなのに、胸の奥が妙に軽かった。
罪悪感ではない。
喪失感でもない。
何かを切り離したあとの、空白。
学校へ向かう途中、交差点で人だかりができていた。
「またか……」
誰かが呟く。
救急車の赤色灯が、朝の空気を裂いていた。
自転車と乗用車の接触事故。
大きな怪我ではないらしい。
「最近、多くない?」
「だよね。運、悪すぎ」
“運”。
その言葉に、足が止まる。
一週間前、
有名企業の最終面接に落ち続けていた三年生が、
突然内定をもらった。
彼は翌日から、笑わなくなった。
誰かが言っていた。
「願ったらしいよ」
十八歳になれば、神が見える。
願いは一つだけ叶う。
代償は、その人が一番恐れているもの。
成功と引き換えに感情を失う。
事故回避と引き換えに家族関係が壊れる。
恋愛成就と引き換えに記憶が欠ける。
奇跡は、必ず釣り合う。
教室に入ると、ざわめきがあった。
「昨日、見えた?」
「うん。マジで鳥肌立った」
「どんなのだった?」
「俺のはおっさんだった」
笑い声。
机に鞄を置く。
「蒼は?」
声をかけてきたのは、隣の席の藤井。
「見えた?」
「……まあ」
「願う?」
即答できた。
「願わない」
藤井は肩をすくめた。
「もったいな。俺、ちょっと考えてる」
何を?
とは聞かなかった。
聞けば、きっと後悔する。
そのとき。
教室の後ろが静かになった。
視線が、一点に集まる。
振り返る。
知らない女子が立っていた。
制服は同じ。
けれど見覚えがない。
長い黒髪。
淡々とした目。
そして――
彼女の隣に、“それ”がいた。
完璧な輪郭。
透き通る白い肌。
まるで彫刻のような存在。
神。
教室のあちこちに、うっすらと人型の光が見える。
だが、彼女の神だけは異様に鮮明だった。
その神が、ゆっくりとこちらを見る。
目が合った。
ぞくりとした。
そして、微笑む。
唇が、わずかに動く。
「不完全」
声は聞こえないはずなのに、
意味だけが頭に届いた。
僕は目を逸らす。
鼓動が速い。
彼女が空いている席に座る。
担任が紹介する。
「転校生だ。春日凛」
彼女は一礼した。
「よろしくお願いします」
声は穏やかだった。
だが、その横に立つ神は、
明らかに“選別”する目をしていた。
授業が始まる。
ノートを開く。
視界の端で、
凛が静かに窓の外を見ているのが見えた。
その横で神が囁く。
甘く、柔らかく。
救いを約束する声。
放課後。
校門の前で、彼女に呼び止められた。
「蒼くん、だよね」
驚く。
「どうして」
「あなた、有名だから」
「悪い意味で?」
少しだけ、彼女は笑った。
「神を、殺した人」
空気が止まる。
「……誰に聞いた」
「噂」
彼女の神が、僕を見つめる。
冷たい。
値踏みするような目。
「どうして殺したの?」
凛はまっすぐ聞いた。
「願わないなら、放っておけばよかったのに」
答えに詰まる。
言えるわけがない。
泣いていたから、なんて。
「奇跡なんていらない」
それだけ言った。
凛は首をかしげる。
「強いね」
違う。
強くなんかない。
彼女は少し沈黙してから、言った。
「私、願うよ」
心臓が跳ねた。
「何を」
凛は空を見上げる。
「弟を、生き返らせる」
世界が、一瞬だけ遠くなる。
彼女の神が微笑む。
完璧な笑み。
「代償は?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
凛は淡々と答えた。
「誰からも、愛されなくなる」
風が吹く。
校庭の砂が舞う。
それでも彼女は、まばたき一つしなかった。
「代償で済むなら、安いよ」
その横顔は、あまりにも静かだった。
神が、満足げに目を細める。
僕は理解する。
あれは救いではない。
取引だ。
しかも、条件はきっと――
正確には言っていない。
胸の奥が、ざわつく。
奇跡は、釣り合う。
ならば。
彼女は何を失う?
僕は、初めて焦った。
神を殺したときよりも。




