第一章 その日、僕は神さまを殺した
神が本当にいるなら、
どうしてあの日、間に合わなかった。
そう思ったことが一度もない人間だけ、
この物語を閉じてほしい。
これは救済の話ではない。
奇跡の話でもない。
奇跡を否定した人間の話だ。
死者は戻らない。
願いは叶わない。
「もしも」は現実を変えない。
それでもなお、
誰かを選ぶことができるのか。
世界を救う代わりに、
隣にいる一人を選ぶことができるのか。
この物語は、その問いに対する答えではない。
答えを持たないまま、
それでも手を離さなかった人間の記録だ。
奇跡がないと知ったあと、
人はどうやって生きるのか。
ページをめくる覚悟があるなら、
どうか最後まで見届けてほしい。
神が間に合わなかった、その日を。
その日、僕は神さまを殺した。
十八歳の誕生日だった。
ケーキもなければ、祝福の言葉もない。
父は仕事で帰らず、家には冷えた静けさだけがあった。
夜の零時を過ぎた瞬間、
世界のどこかで小さな鐘が鳴った気がした。
そして――
「はじめまして」
背後から、声がした。
振り返ると、そこに“それ”はいた。
人の形をしているのに、輪郭が曖昧で、
光を透かしている。
年齢も性別もわからない顔で、
ただ――泣いていた。
涙は床に落ちる前に消える。
存在できないものの涙みたいに。
「君の神さまだよ」
そう言って、また泣いた。
十八歳になると神が見える。
この街では常識だ。
願いを一つだけ叶える存在。
ただし代償を払う。
成功と引き換えに感情を失った先輩。
事故を回避した代わりに両親が離婚した同級生。
奇跡は、いつも釣り合いが取れている。
僕は神を見下ろした。
「帰ってくれ」
神は首を横に振った。
「無理だよ。君が望んだから、私は生まれた」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
望んだ覚えはない。
奇跡なんて、もう。
「お願い」
神は一歩近づく。
「私を、殺して」
思考が止まった。
「……は?」
「君は願わない。だから私はここにいる意味がない」
神の声は震えていた。
「消えたい。でも、私は自分では消えられない。君にしか、できない」
意味がわからなかった。
願いを叶える存在が、死にたいと言う。
神は両手で胸を押さえた。
「君はずっと、あの日をやり直したがってる」
視界が歪む。
あの日。
病室。
白い天井。
母の細い指。
止まった心電図。
「やめろ」
「君は毎晩、同じ夢を見る。手を伸ばせば届いたんじゃないかって」
「やめろ」
「私はその願いから生まれた」
胸の奥に刺さっていた棘を、無理やり引き抜かれたみたいだった。
僕は机の引き出しを開ける。
中にあるのは、カッターナイフ。
神は、ほっとした顔をした。
「ありがとう」
「礼を言うな」
手が震える。
これは幻覚かもしれない。
十八歳特有の集団ヒステリーかもしれない。
でも。
もし本当に、こいつが――
僕の“願い”なら。
「奇跡なんて、いらない」
刃を向ける。
神は目を閉じた。
涙が、止まった。
「君は優しいね」
その言葉が、最後だった。
刃が胸を裂く感触はなかった。
ただ、光が砕けた。
音もなく。
砕けた光は、部屋中に散って、
窓の外へ溶けていった。
世界が一瞬だけ、暗くなった気がした。
遠くで、犬が吠える。
静寂。
床には何もない。
血も、死体も、涙も。
ただ僕だけが立っている。
手の中の刃物が、やけに重かった。
――そのとき。
神は、確かに笑っていた。
泣いていたはずなのに。
救われたみたいな顔で。
僕はカッターを落とす。
金属音がやけに大きく響いた。
奇跡は起きない。
母は帰らない。
世界は変わらない。
それでいい。
そう思ったのに。
窓の外を見ると、
夜空から、ひとつ、またひとつと
光の粒が消えていくのが見えた。
まるで星が、死んでいくみたいに。
その日、世界から
ほんの少しだけ“何か”が減った。
でもそのときの僕は、
それが何だったのか、まだ知らない。




