48 手からすり抜けていく
響は懊悩としたまま次の日を迎えることになっていた。
休日を控えた金曜日のことであった。
もちろんであるが、響は日中にも支障があった。
あるにはあったが、今までの積み重ねと実績でもって優等生モードでごり押ししてしまえた。
そうして今、花菜が昨日メッセージで言った通り自宅の部屋を訪れている。
「これ、レシピのコピー。響ちゃん、こういうの好きかなって」
「あ、ありがとう……」
纏めてくれたレシピのコピーを受け取りながら、響はぎこちない返事を返してしまった。
花菜が響の部屋を訪れ、いつもと変わりなく話しかけてくる。
昨日のことが嘘であったかのような、一瞬勘違いしかけてしまった。
「昨日は……その……怒らせてごめん……」
だが、昨日あったことは響の脳裏に焼き付いた現実である。
「怒ってなんてないよ。響ちゃんも一日考えたら、浮ついた気持ちも冷めたでしょう?」
花菜は表情を変えず、さも当たり前のことのように言葉を発した。
「……っ。さっ……冷めてないって言ったら、どうなるの……?」
響は恐る恐るといった感じで、言葉を紡いでいく。
「響ちゃんは、私だから……? たまたま女性が好きになったの?」
響は花菜に言われて、ハッとする。
自分は確かに過去に女性が好きだった傾向はあるが、女性そのものが好きなのかどうかと言われると自信はないかもしれない。
人間関係以前にそういうもの関心を抱いてこなかったためか響は恋心は基より異性同性に関する知識や興味も薄かったのだ。
「だったら、ヤメた方が良いよ。きっと後悔するよ」
爛々とした花菜の瞳が響を貫く。
だが、その焦点はどこか少し合っていないように見える。
「むっ……昔も女性が好きだったことは、あったかも……」
「それも、偶々でしょう……?」
「それはっ……」
響は言い返すことができず、口籠ってしまう。
それでもと思い、縋るように花菜へと手を伸ばす。
「私は、気付いたころからずっと女の子のことが好きだった……」
そう言いながら、花菜は手を伸ばす響から警戒するように遠ざかる。
「初恋だって、女の子だった……」
花菜は胸元を押さえながら、じりじりと響から間合いをはかるようにして近付かせない。
「そういった対象は画面の向こう側でも、ずっと女優さんだったり……女性アイドルだったりした……」
花菜は父母や友人に好きな芸能人などを尋ねられても子供のころは素直に答えていたが、年々それは本心が混じらなくなっていた。
素直に答えるのが怖くなっていった。
好きな男優や歌手もいたので、絶対的な嘘ではない。
だが、本心で話せないこと……常に一手間考えて話すことは心の距離も生んだ。
「だから、学校の着替えのときなんて気まずかった……」
花菜は着替えのとき、極力みんなから隠れて着替えている。
「別に誰でも下心を抱くわけじゃないけど、私みたいな存在が同じ空間にいることが申し訳なかった……!」
誰しもが誰しもをそういった対象として見るわけではないが、花菜はただ……只管にいたたまれなかった。
針の筵のようだった。
自分が異物であると、浮き彫りにされているような錯覚にすら襲われた。
「進路調査を迷っていたのもそう……女性が多い学部を選んでしまうと、また私は肩身が狭い思いをするんじゃないかと考えて……勝手に悩んで……」
花菜の心からの声。
吐露されていく度、俯くことで視線は響から外れていく。
それに反比例するように口元は開き、自嘲したような笑みが浮かんでいた。
響はあの日、自分が声を掛けた切っ掛けを知って愕然とすることしかできない。
「響ちゃん……! 私はおかしいんだよ……!」
「そっ」
「おかしいの!」
響が否定の声をかけようとするが、すぐさま花菜の叫びが被さるように遮る。
「私みたいな人間が、響ちゃんを巻き込んで幸せなんかになっちゃいけないんだよ……」
花菜は少し顔を上げると、ねめつけるようにして響を見詰めた。
見開かれた瞳が、隠れた前髪の奥に見え隠れする。
「私なんかの願いなんて、叶っちゃダメなんだよぉ……」
諦めに似た感情が花菜の声音から見え隠れする。
「だって、女の子同士なんてダメだよぉ……」
花菜が絞り出すように口にした。
自分自身に対する否定。
「きっと、みんな許してくれない……」
相原花菜は、自分が幸せになってはいけないと信じている。
そう信じて、ずっと生きてきた。
「響ちゃん……私なんかを好きになんてならないで……」
なので、花菜の中で芳川響は相原花菜のことを好きになどなってはいけないのだ。
「私に……響ちゃんを諦めさせて……」
花菜の口から、響にとって残酷な宣告が発せられる。
「大丈夫、私は誰のものにもならないよ……」
響が花菜に固執しているのを知っているためか、諭すような口調で語りかけた。
「響ちゃんとの思い出だけで……ずっと…ずっと一人で生きていくから……」
花菜は響を遠くで見られるだけでも幸せだった。
その思い出だけで、ずっと一人で生きていくつもりだったのだ。
それほど人生を賭けた恋。
一生の片思い。
「だから、響ちゃんは私のことなんて忘れて……!」
後退っていた花菜は自分の鞄を引っ手繰るように取ると、部屋の外へと駆け出した。
気付いたときには部屋の中に、バタンと玄関の閉まる音が響いた。
その間、響は呆然として動くことができなかった。
「花菜……? 花菜……?」
暫くすると、そう呟いて両手がかき抱くような意味をなさない動きで空を切る。
今起こったことが信じられないといった風に、信じたくないといった風に。
「うあぁあ……あぁっ……」
呻くような声が響の口から洩れる。
花菜が。
大好きな花菜が。




