7話 色を失う森
森の空気がいつもより重かった。
深層から戻ってきたはずなのに、
世界の“線”はまだ波打っている。
風が吹いているわけじゃない。
ただ、森そのものが静かに揺れているように感じた。
(……色が薄い)
木々の緑も、空気に混じる光も、
全部がどこか“褪せて”見える。
現実が深層に侵食されているのか、
それとも俺の視界が壊れているのか。
判断がつかない。
ルフェリアが小さなため息をついた。
「……境界がまだ安定していないのね。
あなた、本当に危なかったんだから。」
「ごめん。無理して近づいたつもりはなかったんだけど……」
「分かってる。
でも“原層に触れた”なんて普通じゃないの。」
ルフェリアは落ち着かせるように胸に手を当てる。
「本来、深層ですら人間の精神が壊れることがある。
その下の原層なんて……触れたら存在が分解されるわ。」
(存在が分解……?)
冗談じゃないが、彼女の真剣な表情を見る限り嘘ではない。
ルフェリアが俺の顔を覗き込む。
「でもシンは戻ってきた。
それだけでも、すごいことなの。」
そう言う声はどこか震えていた。
(……ルフェリアも怖かったんだ)
影に引きずられた時よりも、
その言葉のほうが胸に刺さった。
ルフェリアは歩きながら続ける。
「深層っていうのは“心の底”なんかじゃないの。
世界の基礎そのもの。
影はそこから零れ落ちた“欠片”みたいなものよ。」
「じゃあ……核影は?」
「深層のさらに奥の“未処理の感情”が積もりに積もって……
形になってしまった存在。
普通ならそんなもの、生まれないはずなんだけど。」
(普通じゃないことばかりだ……)
沈黙の中、森の奥から冷たい風が吹いた。
ルフェリアがピタリと止まる。
「……感じる?」
「……ああ。嫌な気配がする。」
黒い粒子が風に逆らって舞っている。
まるで空気が“逆流”しているようだ。
ルフェリアは剣を抜き、低い姿勢で言う。
「シン、言っておくけど……
核影はまだ完全に消えていない。
二度目は、もっと強く出るかもしれない。」
俺は息を整える。
「構造視で……弱点は探せる気がする。
でも、まだ慣れてない。」
「無理しないで。
影に近づくほど、あなたは深層に引かれる。
それだけは忘れないで。」
その瞬間――
森全体が低く唸った。
地面がわずかに震え、木々の影が“揺れているように”見える。
(……違う)
揺れているのは影じゃない。
影の“線”だけが震えている。
(また……視える)
黒い線が、根のように地中で絡まり、
一本だけ、異様に濃い線がある。
その線は森の奥へと伸びている。
「ルフェリア……あれ……見える。」
「どっち?」
俺が指差すと、ルフェリアは目を細めた。
「……シン。
その方向、普通なら“何もない”はずなんだけど。」
「でも……線が繋がってる。
一本だけ太い……強い……まるで導かれるみたいに。」
声に出した瞬間、自分でも分かった。
(あれは……影への“道”だ)
ルフェリアは剣を構え直し、小さく呟いた。
「……シンを“呼んでいる”。」
その言葉に、首筋が冷たくなる。
風が止まり、世界が息を潜めた。
次の瞬間、
俺の足元の影が“わずかに”動いた。
ほんの少し。
気のせいと言われれば否定できないほどの揺れ。
だが確かに、
――影は俺を見た。
「……っ!」
ルフェリアがすぐに腕を引き、俺を背後にかばう。
「シン、絶対に影から目を離さないで。
あなたの影が動いたってことは……
深層が、あなたの“内側”に触れ始めている。」
「内側……?」
「ええ。
影があなたを“入り口”だと認識した証拠。」
(入り口……?)
俺の存在そのものが、深層と地続きになりかけているのか?
理解する前に、森が再び揺れた。
今度ははっきりと。
大地が低く鳴り、黒い粒子が吹き上がる。
ルフェリアが息をのんだ。
「……来る……!」
森の奥で、黒い影がゆっくり形を作り始めた。
世界の色がまた失われていく。
(……影が……起きる)
そう理解した瞬間、胸の奥の黒い線が震えた。
呼ばれている。
深い場所から。
――シン。
やめろ。
その声で俺を呼ぶな。
だが声は、確かに俺を求めていた。




