第3話 森に残る影の痕跡
森に入った瞬間、空気の密度が変わった。
湿った土の匂い。
風の止まった静けさ。
それなのに、どこかで粒子がざわつく音がする。
(……やっぱり昨日と同じだ)
世界の“線”が微かに震えている。
目に見えるわけじゃないのに、確かにそこにある気配。
ルフェリアは立ち止まり、周囲を慎重に見渡した。
「……やっぱりね。
影の痕が濃く残ってる。」
「昨日の……あの影か?」
「ええ。でも今日は様子が違うわ。」
彼女は右手を地面に触れ、静かに目を閉じた。
その指先から、白い光が淡く広がる。
「これ……?」
「感情素を読む魔術。
影がどんな“感情の残り”から生まれたのか、少しだけ分かるの。」
ルフェリアの表情が険しくなる。
「怒り……悲しみ……迷い……
全部が絡み合ってる。
普通の影よりずっと“濁っている”わ。」
濁っている――昨日の黒い揺れが頭をよぎる。
ルフェリアは立ち上がり、森の奥を指さした。
「シン。
あなた、昨日“呼ばれた”って言ってたわよね?」
「……ああ。名前を……呼ばれた気がする。」
「なら間違いないわ。
影はあなたを“引き寄せている”の。」
(俺を……?)
ルフェリアは歩きながら説明を続ける。
「影は、普通は人間に興味なんて持たない。
でもあなたには“境界の隙間”がある。
深層が直接触れられるほどのね。」
「隙間……?」
「ええ。
本来閉じているべき扉が、あなたはなぜか“開いている”の。」
そう言った声には、少しだけ震えがあった。
ルフェリアが何を恐れているのか、まだ分からない。
(でも……開いているなら、閉じればいい話じゃないのか?)
そう思った瞬間、
森の奥から“ぎゅる”と音が響いた。
空気が厚くなる。
地面の下で、何かが蠢くような感覚が走る。
ルフェリアが息をのむ。
「……まずい。コアが動いてる。」
「コア?」
「影の中心。《核影》よ。」
地面に黒い“線”が広がった。
生き物の根のように細く、震えながら森の奥へ伸びている。
そのどれもが、
“ひとつの場所”へと向かっていた。
(……集まってる?)
俺の視界の線が勝手に反応する。
地面の下――さらに奥の層で、
まるで何かが“呼吸”しているような揺れが見えた。
「シン……何が見えてるの?」
「……黒い線が……全部同じ場所に刺さってる。」
「刺さってる……!」
ルフェリアの顔色が変わる。
「それ……核影が形成されてる証拠よ。
普通の影より何倍も危険!」
森の空気が突然冷えた。
黒い線が震え、中心の“塊”がゆっくりと姿を見せる。
それは人でも獣でもない。
形を持たない“感情の塊”。
怒りの赤。
悲しみの青。
恐怖の紫。
嫉妬の緑。
色というより“気配”が混ざり合い、
黒い渦になって揺れている。
(これは……ただの影じゃない)
その中心に、
ぽっかりと“穴”が開いていた。
色のない、完全な空白。
見ただけで胸の奥が軋む。
ルフェリアが小さくつぶやく。
「そんな……こんな濁り方、ありえない……。
誰かの心が……壊れかけてる……?」
黒い気配が膨らむ。
視界が歪むほどの圧。
深層で出会った“影の気配”と同じ――いや、それ以上だ。
(呼ばれてる……まただ)
核影の中心がこちらを向く。
影とも怪物とも言えない“何か”が、
確かに俺を見ていた。
その瞬間、森の空気が弾けた。
――世界が、揺れた。




