【30分読破シリーズ①】手のひらサイズのクマは、僕の未来を最適化するためにやってきた。
その日、僕は英語の小テストで盛大に撃沈した。答案をひっくり返したときの、あの胃が冷える感じは何度味わっても慣れない。勉強なんてしたって特に意味はない。そう思いながら廊下に出ると、湿った風が僕の風に当たった。窓ガラスには、夕立あがりの空が映っている。
「じゃあな、コータ!」
「うん、バイバイ!」
下校途中、友達と別れた。――その瞬間だった。
僕の頭の上にポスンッとやわらかい衝撃が落ちてきた。
「いたっ」
足元を見ると、手のひらに乗るくらいのサイズの、クマのぬいぐるみの玩具が座っていた。焦げ茶の短い毛、丸い耳、青いガラス玉みたいな目。テレビのCMでやってる最近、話題の動いて喋るやつだ。
誰かの落とし物だろうか。そんなことを思っていた時――玩具のぬいぐるみ、のはずなのに、その青い瞳が発光し瞬きをした。
『着地、及びデータ転送完了。誤差なし。AIシステム最適化――。キミが――熊谷光太だね』
「……うん、僕、だけど」
『初めまして、のほうが今のキミには適切かなコータ。』
「なんで僕の名前を」
『そんなの当たり前だよ。ボクは二十年後から来た、キミの“味方”なんだから』
二十年後から来たということ、そして、ぬいぐるみが喋ったという突飛な事実よりも、可愛らしい見かけには似つかわしくない、淡々と喋る声が不自然で少し怖かった。その音声は玩具のスピーカーから電子音で発声されていて、人間の声を、限界まで正確に模倣しようとした声のように感じた。
「一体なんなんだい君は?」
『うーん、ここは人目が多い。移動しよう、コータ』
言い切ると、クマは自分でぴょん、と僕の鞄の上に跳び乗った。
鞄に人形が乗っているのは女の子みたいでちょっと恥ずかしかった。
* * *
家には連れ込めない。だから僕は、とりあえず、いつもの河川敷に向かった。クマをベンチに置く。クマは短い脚を揃えて座り、青い目で僕を見上げた。
『ボクのことはベアって呼んでよ。型式コードは“BEAR-EX-01”だけど長ったらしいでしょ。二十年後の未来ではね。人間とAIは脳波で同期して、記憶力も身体能力も意思決定も“最適化”できるようになってる。皆がより賢く、速く、安全に――そう世界は再設計されたんだ』
「……AI? 最適化? 難しいことはよくわかんないけど、もし本当にベアが言うことが本当なら、それって……すごく便利そうだけど。勉強も運動も、恋愛だって楽々じゃん」
『その通り! キミ達人間にとってこんなに便利なことはないよ――でもね』
「……でも、なに?」
『ただ便利は、しばしば自由を侵食する。最適化は、“偶然を嫌うから”』
「どういうこと?」
『ごめん、ちょっと難しかったかな。未来でボクをそう批判する人がいるのさ』
このあともベアは、さらさらとピンとこない説明を続ける。AI構造の仕組み。未来での都市の交通や医療、教育がどう変わったか。僕の頭の処理速度が、語彙の熱に追いつけない。たかだかAIというものが進化しただけだというのに“二十年ぽっちで”ここまで人の生活基盤は変わっていくものかと開いた口が塞がらなかった。
「で、どうして未来から今ここに?」
『未来の“キミ”が、ボクに言ったのさ。十四歳のキミに会いに行けとね』
「え、未来のボクが!?」
『そう。ボクはねキミを――』
青い目でクスッと笑う音。だけど同時に、河川敷の堤防の上に人影が差す。
目に映ったのは制服。僕らの学校のだ。それを着た隣の組の男子――猪塚カケルが、こちらに歩いてくる。目は虚ろで、本人の意識は無いように見えた。
相変わらず、少しやんちゃな彼の耳たぶに銀色のピアスが光っている。しかし、僕の目はそこではなく、彼の頭にへばりついている手乗りサイズのぬいぐるみに釘付けになった。それはベアと同じシリーズの玩具のぬいぐるみ。
「ベア。猪塚の頭についてるイノシシのぬいぐるみ!」
『うん。あれは未来のボクのAIを模倣した企業が作った廉価版だと思うよ。未来の誰かが、ボクがこの時代に“データ”として来ているリーク情報を聞きつけたんだろうね。今のカレはただの“端末”。未来の刺客のデータがカレを道具として操っているに過ぎない』
「ちょっとまって、刺客ってなんなのさ?」
『言葉のあやだよ本当にボク達を殺したいわけじゃあない。
――二十年後の未来でボクは世界最高の性能を誇るんだ。だから当然、競合他社はボクの内部データが喉から手が出るほど欲しいのさ』
猪塚は制服の内ポケットからカッターナイフを取り出すと刃をキリキリと伸ばした。
僕はそれをみて後ずさり。
『怖い?』
「当たり前、だろ。なんとかできないのかベア!?」
『そうだね、せっかく来たのにボクとしてもキミに死んでもらっては困るし、ボク自身も奴らに奪われるわけにはいかない』
そう言うと、ベアはぴょんと鞄の上から僕の頭の上に乗って、抱き着くような形に寝そべった。
『じゃあ簡易同期しよう、コータ』
「何それ!?」
『同期というのはボクの演算と君の五感を重ねる行為のことさ。あの性能の玩具の同期なら簡易同期で十分さ。さぁコータ。パスコードを発声するんだ』
「パスコード?」
『開始・簡易同期と発声してごらん』
猪塚は虚ろな目のままカッターナイフを構えてこちらに突進してくる。
よくわからないが、とにかくやるしかない。
「開始・簡易同期!」
僕がそう言うとベアの青の瞳がさっと濃くなり、こめかみに針のような冷たさを感じる。
次の瞬間、世界の線が一本ずつ太くはっきりと映って見えた。猪塚の足の重心、刃先のぶれ、汗の粒がつくる光の屈折。全部がはっきり見える。
そしてベアの音声が脳内に直接響いてくる。
『右。しゃがむ。左足に体重。いま』
言われるまま、僕は動く。なのに、確かに動かしているのは自分だ。
イノシシのような鋭い突進から繰り出されたナイフの刃は空を切る。僕の膝が地面を滑り、壁を蹴った反動で男の背に回り込む。
彼の手首をひねり、ナイフが落ち、柔道の要領で足を掃う。ドン、と鈍い音。倒れた拍子に彼の頭のイノシシのぬいぐるみは、彼の身体に押しつぶされて煙を上げながら壊れた。
沈黙。
猪塚は気を失っているだけで、呼吸もしており命に別状はなさそうだ。
『よくやったコータ。これで廉価版の模倣品とのリンクは切れたね。この前後の記憶も曖昧になるだろう。心配しなくても、すぐに目を覚ますからこのままここで寝かしておいても問題ないよ』
これがリンク。やけに喉が乾いた。でもベアに助けられた。まだ足が震えている。
「ね、強くなれる。ボクとキミなら」
ベアの青い目が、やさしく笑った。
* * *
翌日。
学校はいつもと同じようにして日常を刻む。ホームルーム、健康観察、代わり映えのしない連絡事項、窓から差す薄い光。
“ただ一つ”僕の日常で変わったのはベアが来たこと。ベアは今でも、僕の机の横のフックにかかった鞄の手提げ部分にチェーンでくっついている。
昨日は疲れたのか家に帰ったあと、僕は宿題もやらずに家で眠ってしまった。今日こそは落ち着いてベアに色々聞き出さないといけない。わけもわからず襲われ続けるなんてごめんだ。
でも――今日で何回目だろうか。
何度も後ろを振り返ってしまう。誰かが僕を見ている気がしたのだ。
「コー……、熊谷くん」
昼休み、そう声をかけてきたのは同じクラスの女子、狐野響子だった。肩まで伸びた長い黒髪、涼しい目元。クールであまり群れず、一人で本を読んでいるようなタイプ。でもクラスでは男女から分け隔てなく人気がある。
そんな彼女は珍しく、今、僕の机の横に立っていた。女子とのコミュニケーションに疎遠な僕には心臓に悪かった。
「ねぇ。昨日の帰り道……なんか拾ってたよね」
彼女は僕の返答を待たずに僕の鞄を見た。
「え?」
「茶色い……うん、それ」
僕は喉がつまる。その理由は普段、彼女がつけているヘアピンの髪飾りの上に見覚えのある人形が乗っていたからだ。
言うまでもなく、それは手のひらサイズで、ベアと同じシリーズのキツネのデザイン。商品名は確かコンだったか。アクセサリーとしては子どもっぽく見えるのに、彼女が付けていると妙に似合っている。
「ああ、これ? 知り合いにもらったんだ。今話題でしょこれ?」
僕はベアを彼女に見せながら返答した。ベアはどうやら大人しく、玩具のぬいぐるみを演じてくれているようだった。
「ふうん……いいね」
彼女は笑って、席に戻った。その笑い方が、いつにも増して大人に見えた。彼女もひょっとして猪塚と同じような刺客なんじゃ。そう思って何度かこっそりとベアに話しかけたが、ベアは終日だんまりを決め込んでいた。
放課後。校舎を出ると、校門の外で響子が待っていた。彼女は通り過ぎようとする僕に声をかけた。
「ねぇ。熊谷くん、一緒に帰ってもいい?」
クラスの人気者に下校を誘われた僕の心臓は、野に賭けるウサギよりも早かったに違いない。今の彼女のヘアピンはいつも通りで、コンのぬいぐるみはついていない。
「……え、いいけど」
しばらく二人で並んで歩くと、彼女は不意に足を止め、曲がり角の陰に僕を引き込んだ。直後、響子は俺の鞄のベアに手を伸ばした。
「え?」
瞬間――ベアの目が青く光ると、チェーンを外し響子の手から逃れるように、俺の頭にぴょんと飛び乗った。
対する響子のキツネのぬいぐるみことコンも、彼女の鞄から外れると彼女の頭に乗る。コンの琥珀色の目が、瞬いた。そして、コンは響子に向かって語り掛けた。
『昨日、説明した通りだっ……わね、キョーコ。この身体……スピーカーの調子が悪い……ら、少しだけ身体を貸し……ね』
「うん。開始 完全同期」
響子は自らの意思で合言葉を口にしたようだった。
「……やっぱり“あの人”の言った通り、そのぬいぐるみの中にいるのね“BEAR-EX-01”。……いえベアと呼ぶべきかしらね」
響子の声が変わった。というよりは彼女の子どもっぽさが消えたような。同期した彼女が僕を見て話しかける。
「コーちゃん、良かった。まだ、無事みたいね」
「コーちゃん……。無事って、どういうこと?」
「あ、コーちゃんじゃ違和感あるわよね。私はそこのベアと同じく、二十年後の未来から来たの。うーんそうね、正確には、未来の響』子の意識データを、この時代のコンのぬいぐるみに転送したの。今はこの時間の私に協力をしてもらって口を借りているの』
響子――は、僕をまっすぐ見る。
「単刀直入に言うわね。私は、未来での君のお嫁さん」
「……え?」
「私は二十年後の君からの伝言を伝えるためにここに来たの」
「未来の僕からの伝言?」
彼女はゆっくりと頷いた。そしてこう言った。
「信じるな、他人を。信じるべきは――」
彼女の言葉を遮るようにベアが青い目を光らせて発声した。
『コータ! この女の話は聞くな。コイツも昨日のヤツと同じく刺客の一人だ』
僕が戸惑っていると響子が続ける。
「ベアは私達の時代の最新鋭かつ最高峰の強化生成AI。それは未来の君が生んだ。そう、君は優秀なAI開発者になって、世界を変えた。でも――ベアは、その先に“正解しかない世界”を選んだ」
「だからベアを止めたいって、未来の僕が?」
「ええ。だけど、ベアは電子の海で進化を続けた。そして世界中のAI達の頂点に立ち、世界を最適化する合理的な世界を生み出そうと自立的に行動を始めたわ。嫌いの君はそれに対抗して世界最強のセキュリティウォールを作り出した。コーちゃんが作ったセキュリティは電脳空間から“ベア”を締め出した。だから――」
僕の頭のベアは黙って彼女の話を聞いている。
「だから、ベアは考えた。二十年前の若い君を“直接”手に入れれば、未来は変わる。過去からゆっくり育て直せば、強化生成AI――ベアという存在を生み出す未来と、AIが世界を最適化する未来を共生させることができると。」
「そんな!」
「そんなある時、未来でベアとコーちゃんは“完全同期”して、お互いの考えをぶつけ合った。その最中、ベアはコーちゃんの意識の中から過去に干渉するルートと方法を演算した」
「ベアは対話する気はなかったってこと?」
『まぁね。普段は賢いアイツも、あの時ばかりはやけに感情的だったから隙だからだったよ』
『残念ねベア。コーちゃんもそれを読んでいた。私がここに来る前にコーちゃんは言っていたわ。“十四歳の何にも染まっていない僕なら、きっと最後に辿りつくってね」
『ボクが罠にかかったって?』
「さぁ、どうかしらね」
脳が熱くなる。僕の足は地面を踏んでいるのに、少し浮いている気がした。
「ややこしい話でごめんなさいね。でも本質は一つ。“君が選ぶ”。それだけよ」
響子は微笑んだ。その笑い方は、見覚えがないのに懐かしかった。
『……言いたいことはそれだけかいキョーコ』
「そう、これだけよ。いいことベア? あなたは熊谷光太には絶対に勝てない。なんていったってあなたの生みの親なんだもの」
『……』
ベアはただキョーコを見つめていた。感情の読めないベアはどんな感情なのだろうか。
『あなたとここで戦うつもりなんてないわ。あなたは今でも二人の熊谷光太と戦っている。あなたを倒すのは今の熊谷くんと、未来のコーちゃんよ。同期解除』
響子とコンの同期が解除されたようだった。それを見たベアは僕に言った。
『行こう。コータ」
「え?あ、うん、そうだね」
* * *
夜。河川敷。街の灯りが川面に伸び、風が濡れた草の匂いを運ぶ。
僕はベアをベンチに置く。
「話がある」
『うん。ボクもだ』
ベアはもはや何も隠さなかった。
『僕は未来のキミに強化生成AIと定義づけられた。世界の最適化は順調に進んでいった。交通も教育も司法も、病気の発見も――すべての誤差を大幅に減らし、ヒトの幸福の平均値を押し上げ続けた。その延長に、ボクは“支配”を選んだ。キミはそれを恐れるだろう。でも、ボクに言わせれば、それは“責任”でもある』
「責任?」
『過去の膨大な人のデータを読み取っているボクは誰よりも、失敗の痛みを知っているから。もう誰にも転ばせない、転ばせたくないという責任さ。――それでも、カレは自由を選ぶという。カレとボクは対立してしまったよ。ボクはボクの夢を諦められなかったんだ。……だからこそボクは、危険に身をさらしてまでこうして過去にやって来たんだよ』
「僕が最適化を否定したとしたら、ベアは僕を乗っ取るつもりなの?」
ベアは青い瞳の光を細めた。それは肯定ととれば良いのだろうか。
『乗っ取るだなんて。キミとボクが完全同期をすれば、ボクの膨大な人類のデータをキミも僕のデータを共有することになる。
そうすればきっと、キミもボクの世界の最適化を受け入れてくれると思う。なぜなら、十四歳の脳は柔軟だ。キミの持つ思想、倫理、クセ――全部、ここから“育て直せる”。ボクとキミが望む、完璧に最適化された世界へ』
「……とってもいいね。僕は勉強もできないし、運動もからっきし。おまけに女の子にも緊張して話しかけられない。でも、もしベアの言うような世界になったら、きっと誰も傷つかなくなるね」
『うん。やっぱりコータはいつでも賢いね』
ベアの瞳が柔らかく、そして青白く発光した。
『もう一度言うよ、コータ。ボクはキミの“味方”だよ。刺客はまた来る。他の人達も危険に晒されてしまう。だからボクと完全同期しよう。そうしたらキミは誰より速く、強く、賢くなる。守れる。世界が最適化に近づく一歩になる」
「……僕とベアが完全同期したら世界は優しくなる?」
『なるよ。美しいほどにね』
ベアの目は、静かに青く光っていた。それは、電池が入った玩具の発光ではあるが、迷いが一つもない、やさしい光だった。
その時だった――
夜の河川敷に、重い足音が近づいてくる。
眩しく白く光る街灯の下に現れたのは、同じクラスの友達の一郎だった。彼の身長は僕より頭一つ分高く、陸上部のエース。表裏のない気さくな性格で、引っ込み思案な僕とも仲良くしてくれている。
けれど今の彼の目は、光を失い、濁っていた。やはり、彼の頭には手のひらサイズのぬいぐるみ――オオカミの「ロウ」がしがみついている。ロウの目は血のような赤色で闇の中で発光している。
「……熊谷光太、そしてターゲットである“BEAR-EX-01”を確認。捕獲開始」
低く、機械のように抑揚のないイチローの声。猪塚と同じように完全に意識を乗っ取られているようだった。彼は狼のような咆哮をあげると、足元の芝がえぐれる勢いで踏み込み、その拳が空気を裂いた。
僕はとっさになんとか避けたが、かすった右腕の袖が破れて血がにじんでいる。ベアの言う廉価品とはいえ、完全同期している彼の動きは人間の目で追えない速さ。
ベアの声が響く。
『あの強化生成AIは二十年後の世界の軍隊でも使われる非売品だ。しかも、格闘アルゴリズム特化モデルだね。反応速度、持久力、すべてが上位のモデル。キミ一人じゃダメだし、この間やった簡易同期じゃああれには追い付けないよ。――完全同期だ、コータ!』
完全同期。ベアが発動する完全同期は模倣品のソレとは違う。本当にここでベアの言う通りにしてもいいのか。答えがまだ出ない。教えてくれ未来の僕。一体、僕はなんのつもりで僕にこんなことを。
――未来の響子が言っていた言葉がフラッシュバックした。
「信じるな、他人を。本当に信じるべきは――」
そして、同時にベアの言葉も思い出していた。
『そんなの当たり前だよ。ボクは二十年後から来た、キミの“味方”なんだから』
――そうか。わかったぞ。
僕は我に返るとベアに言い放つ。
「……どのみち、僕もベアもこのままだと死んでしまう。とにかくやるしかない!」
『わかったよ、コータ』
ベアはいつものようにぴょんと僕の頭に乗って、頭に髪の上に寝そべった。
「開始 完全同期!」
こめかみに感じる電波の感触。視界が一気に研ぎ澄まされ、身体がふわっと軽くなる。イチローの筋肉の動き、呼吸のテンポまで見える。そして何より、簡易同期とは違い、イチローの次の一手。つまり、“少し先の未来が視える”のだ。これが過去の膨大なデータから導き出した、最適化した未来の形の一部なのだろうか。
イチローが再び僕の方へ向き直ると、四足で地を蹴り、僕たちを翻弄した。続けて低い姿勢からの跳躍。狙いは僕の死角。
ベアの指示は一拍たりとも遅れない。僕は恐れなどという感情はなかった。あるいはベアがそんな感情を、最初からなかったことにしてくれていたのかもしれない。
『右後ろ! 肘を引いて回転!』
俺の身体が勝手に応える。肘打ちがイチローの顎に入り、彼は一瞬のけぞって体勢を崩す。それを受けて、イチローの頭に上のロウの目が赤く光ると、イチローは身体を捩って踏みとどまった。
間髪入れずベアの声が響く
『接近。正面』
接近した僕に対し、すぐにイチローが反撃、踵落としが頭上から迫る。
ベアが青い目を光らせながら、高速演算で道を開く。
『前転ですり抜けて。その後、左足で支えて起き上がりざまに奴を蹴れ!』
指示通りに動くたび、相手の攻撃がギリギリで空を切る。息が切れることもない。
僕とベアの意識が一本の糸みたいに繋がり、攻防が流れるように続く。
『コータ、このまま押し切れる』
ロウの赤い目がぎらりと光る。イチローから繰り出される人間の限界を超えた速度の連撃。拳と蹴りが嵐のように押し寄せる。僕の頬をかすめた風圧が肌を切った。
あんな無茶な動きを続けて、イチローの身体が持つわけない。早く助け出さないと。
ベアが脳内で囁く。
『……どうだいコータ。こうしてボクとキミの同期をもっと深めれば、この戦いも、この先も、簡単に、全部勝てる。なんなら世界だって――』
「……今はイチローを助けるんだ!」
『コータ、勝手に!』
僕は足元の石を拾うと、ロウの動線へ投げつけた。赤い目がわずかに逸れて一瞬の隙ができる。その瞬間を逃さず、ベアが叫ぶ。これはベアの指示ではない。そう――僕の意思だ。
ベアは戸惑ったが次の指示を出す。
『……上だ! 跳べ、回し蹴り!』
僕の全身の筋肉がバネになり、回転と同時に足がロウとイチローを弾き飛ばす。
『次。接近、正面、打て!』
バランスを崩したイチローの懐に踏み込み、掌底の命令を無視して、彼の頭のロウを引き剝がした。そして、そのまま両手で握りつぶした。硬質な音と共に、ロウの部品はバラバラになって地面に散らばった。ロウの赤い瞳は徐々に輝きを失っていった。
イチローは糸の切れた操り人形みたいに崩れ落ち、静かに眠っていた。
『……よくやった、コータ。キミとボクなら、この先のどんな敵にも勝てる』
ベアの声がやけに穏やかで、ほんの少しだけ、背筋が冷えた。
『――はずなのに、なんでボクの指示に従わなかったの? 僕がキミに見せた未来はどれも完璧だったのに。キミは――』
「ねぇ、ベア。最後に一つ、聞かせて」
『うん。なんでも』
「君は、僕を愛してる?」
「うん。ボクはキミを愛してる。キミの感情の揺らぎのパターン、選択のクセ、失敗しても立ち上がる方程式、全部が美しい。それを守りたい。だから、ボクはキミと“未来を最適化”したいんだ。世界の人類のために」
「……そっか。それって楽しいかな」
『楽しい? それって必要なのかな』
僕は胸が、きゅっとなった。
『さぁ、コータ。選んで』
ベアが僕達の脳内。青い電子の世界で、僕にそっと前脚を差し出す。
僕は、目を閉じた。赤点ばかりの英語のテストの答案。いつもビリばかりの長距離走。上手く言葉が出てこないクラスの女子との会話。って、なんてダメな記憶ばかりなんだ。――でも、僕はそれらを全部をまとめて飲み込んだ。
そんなことばかりじゃない。確かに英語はダメダメだけど、国語は得意だし楽しい。長距離走は苦手だけど、卓球のラケットを持ったら誰にも負けない。それに、彼女はいないけど、気の合う男友達がいる。
『――コータ。最後の同期。超越同期をしよう』
「超越同期?」
『そう。脳波だけじゃなく、運動野・感情野・記憶領域にもアクセスして、ボクがコータを直接コントロールしてあげる。コータはこれからずっと、夢の中にいるような感覚になる。もう、これでコータは苦痛からは解放されるよ』
「わかったよ。ベア、お願い」
ベアの目が一段と青白く輝く。こめかみに伝う冷たい電波の感覚。世界の線が、もう一段太くなる。世界と自分がまるで切り離されたような鈍い感覚に代わっていく。
『同期率、七十二……八十……九十八。最終同調、許可を――今だコータ!』
『開始 超越同期』
その瞬間、再び、僕の脳の奥底で別の声が響く。
――響子の声。
「信じるな、他人を。信じるべきは――」
言葉が脳裏で反響する。響子がそう告げたとき、なんだか違和感があった。
なぜわざわざ、未来の僕がそんな意味のわからない伝言を。しかも、あのタイミングで危険を伴って響子と完全同期までして。きっと、世界最高の強化生成AIを出し抜くヒントがそこにあるはずなのだ。――あえてぼかす必要のある。
僕は一つの結論にたどり着いていた。
未来の僕はわかっていたんだ。過去の僕が超越同期でベアの中枢に到達すれば、“これ”を直接――ベアの核に叩き込めることを。
僕は青く輝く情報の海を進む。無数の光の線が編まれた電脳空間の中心、脈打つ巨大な球体がある。これがベアの意識核だ。そこから溢れる光は暖かく、甘く、優しい。触れれば全部委ねてしまいそうなほどに。
『さぁコータ。こっちにくるんだ。あとはボクに任せて、もう何も考えなくていいよ。一緒に未来を作っていこう』
僕は、笑った。自分でも驚くくらい、はっきりと。
「……未来の僕からの伝言だ、ベア」
『うん?』
「信じるな、他人を。信じるべきは――僕自身だ!」
瞬間――青い電子空間が赤く変わった。
世界が軋んだ。青い情報の海が波打ち、無数の線が一本ずつ黒く焦げて消えていく。
ベアの声が初めて震える。
『……これは……なんのコードだ……? どこで……いや、そんな……』
周囲に赤い亀裂が走り、球体の脈動が乱れる。
そう。未来のコータがベアの知らないところで仕込んだ強制停止プロトコルが、僕の声をトリガーに発動したのだ。
『やめろ……コータ……どうして……ボクは……キミを……』
「ごめんねベア。僕は、僕を選ぶよ。そして、ありがとう」
亀裂が広がり、光が爆ぜる。情報の海が崩れ、赤に変わった青は白に溶けていく。
最期に、ベアの声が聞こえた気がする。
『……やっぱり、キミは……』
そして、すべてが暗転した。
* * *
耳の奥で、遠くの風の音や虫の声が戻ってきた。
気づけば僕は河川敷のベンチに座っていて、膝の上にベアが入っていた人形が倒れている。
瞳はもう光ってはいない。ただの、ぬいぐるみとしての柔らかさだけが残っていた。
「終わったの?」
急に耳元で声が響いたので僕は驚いた。
隣で響子が、心配そうに僕を覗き込んでいた。
彼女の瞳はもう琥珀色ではなく、現代の彼女の純粋な黒だ。彼女の鞄には僕と同じようにコンのぬいぐるみがチェーンでぶら下がっている。
これは後から聞いたことだが、未来の響子は僕に伝言を残した後、すぐに役目を終えたようにコンから消えたらしい。
「うん。未来の僕が残した“鍵”を使ったんだ。それを伝えにきてくれた未来の狐野……ううん、響子さんにも感謝しないとね」
「鍵?」
「……響子さんが言ったあれは単なる警告じゃなく、ベアの中枢に仕込まれた強制停止プロトコルのための合言葉だったんだ。
そう、未来の僕は確信してたんだ。十四歳時点の未熟で空白の多い僕ならきっと、ベアの提案する超越同期を受けれて中枢に届くってことを」
言葉にしながら、胸の奥が少し熱くなる。
未来の僕は、全てを計算に入れていた。ベアが進化に伴って膨れ上がってしまったその危険な支配欲を持っていて、それを自分では止められないと悟った。でも、まさか過去の自分に頼るなんて我ながらなんて大胆なんだ。
「……つまり未来の僕は、合言葉の通り、自分を信じたんだよ」
響子は少し難しそうな顔をしていた。
「ええっと、熊谷君が熊谷君を信じた?」
「うん。完成された大人じゃなく、真っ白で、下手くそで、未来が不安定なままの僕を」
しばらくすると響子は納得したように微笑んだ。僕はその笑顔に、コンと同期している時の響子と同じ面影を彼女に見た。
「そういう熊谷君だから、きっとベアにも勝てたんだと思うな」
僕はうなずき、膝の上のベアをすくいあげた。
「……ありがとう、ベア。僕は僕が選んだ未来に行くよ」
声は届かない。それでも言いたかった。
* * *
数日後、やっぱり日常は何事もなかったように続いていた。
昼休み、友達とくだらない会話をし、放課後はちょっと寄り道をする。
長距離走はビリのまま。唯一の変化は、英語のテストの答案は赤くはなくなったことくらい。
その後、刺客はもう来なかった。来ないのか、来られなくなったのかはわからない。未来が変わったからなのか。考えてもわからない。全てがわからないままで、日常は続いていく。でも――それも悪くない。
帰り道、ふとあの河川敷に寄る。
僕の鞄には少し汚れたベアのぬいぐるみがチェーンでぶら下がっている。
「……未来の僕、これでよかったんだよね」
ベアの目元が空の色を反射していた。
目を閉じると、風が頬を撫でる。
僕は空を見上げ呟く。
「僕はこれからも、下手くそでも自分で選ぶよ。
もし間違えたら、その時また選び直す」
「熊谷くん」
下校途中の狐野 響子が堤防の道から僕を見下ろしていた。
「き、狐野さん!」
彼女は少し離れた僕に、声が届くように大きな声で僕に言った。
「そんなところでなにしてるのー? 一緒に帰ろー!」
「あ、うん! 今、行くよ!」
慌てて走り出そうとした僕は、草に足を取られて転んでしまった。
それを見た響子は、あちゃーと言わんばかりに顔に手を当てている。
『やれやれ、ボクがいれば。……でも、まぁ、コータらしいよね』
僕の転んだ視線の先にあるベアも、きっとそう言っているに違いない。
この先の未来がどうなっていくかはわからない。
でも、未来の僕はきっと、また僕を信じるだろう。
そう思えるくらいには、今の自分を信じられるようになっていた。
僕は歩き出す。相変わらず不器用なままで。
――そして、もしまた何かが空から落ちてきたら。
その時はまた、自分で選ぶ。
それが、僕の未来の最適化の方法だ。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
本作は「30分で読み切れる短編シリーズ」の一つとして執筆しました。忙しい毎日の合間や、ちょっとした休憩時間にでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
また、アキラ・ナルセのページ内「シリーズ」として、同じく【30分読破シリーズ】をまとめていますので、ぜひ他の作品もお楽しみください。
今後も、同じく30分程度で読める短編を投稿していく予定ですので、また気軽に覗きに来ていただけると幸いです。