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おじいちゃんのなかに

 寝たきりのおじいちゃんの夢の中には、お姉さんが住んでいる。


 ぼくがおじいちゃんのベッドのそばで眠りに落ちると、必ず彼女を夢に見る。でもぼくがひとりで眠る時には、お姉さんは決して夢には出てくれない。だから、やっぱりお姉さんは、おじいちゃんの夢の中のひとなんだなと、ぼくはぼんやりそう思う。


 お姉さんはとても綺麗だ。さらさらの金髪をおさげに結って、青い瞳にお鼻のそばかす、『村娘のお人形みたい』って言ったらお姉さんは怒るかもしれない。だけど、ぼくにとってはとっても綺麗だと思う。


 ぼくはお姉さんが好きだ。けどお姉さんは、夢でもぼくを見てくれない。夢のほとりの遠くの海を見つめながら、青い瞳はもっと別のものを見ている。別のものを探している。


 ああ、恋人を待ってるんだなと、ぼくはぼんやりそう思う。その恋人にぼくがなれないもんかなと、心の底からそう想う。でも、お姉さんはぼくのことなんか見てくれない。ぼくの姿がまるで見えないみたいにずっと、海の向こうの向こうを見ている。


 おじいちゃんは、三年寝たきりだ。そうしてずっと眠ったきりだ。なんでもおじいちゃんには人外の血が混じってるらしい。だから三年眠ったきりでも、おなかもすかない、のども渇かない。


「愛に飢えて眠ったのよ」と、ママは言う。おばあちゃんが亡くなった日から、おじいちゃんは眠っている。眠り続けている。いつまで寝てるの、おじいちゃん。


 おじいちゃん、またぼくに優しい声で絵本を読んでよ。パンケーキを一緒に作ろう、またふたりでキャッチボールしようよ、おじいちゃん……、


 でもそうしたら、お姉さんに逢えなくなるかも。ぼくはちらっとそう考えて、悪い子だなと首を振る。首を振ってもその考えは消えてくれない。


 お姉さんと、おじいちゃんと、今はどっちが大切だろう。そう考えて、ぼくはぶんぶん首を振って、今度こそ本当にその考えを打ち消した。


* * *


 お姉さんの写真を見つけた。物置を探検していた時に、古いアルバムの中から見つけた。


 ほこりをかぶったアルバムをめくると、フィルムがみりみり貼りついていて、半分無理やりひっぺがした。出てきた写真には、ハンサムなお兄ちゃんとお姉さんが写っていた。


 写真はずいぶん色あせて、セピア色になっていた。それともずいぶん古い写真みたいだから、写した時からこの色だったのかもしれない。昔は写真もカラーじゃなかったって、ぼくがもっと小さい時にパパから聞いたことがある。


 ともかくぼくはアルバムを抱えて、ママのところへ駆けだした。ママはお得意の編み物をしていた。編み物のテクニックはおばあちゃんから教わったんだと、ママは以前に誇らしそうに言っていた。


「ママ! ママ! この人だーれ? この綺麗なお姉ちゃん!」

「あら、またずいぶんとなつかしい……これはね、あなたのおばあちゃんよ。となりは若い時のおじいちゃん……」

「――ええ? そんなはずないよ、だって……」


 この人は、おじいちゃんの夢の中に出てくるお姉さんだもの……! そう言おうとして、言えなかった。お姉さんがおじいちゃんの夢の中に出てくるも、もう何となく分かった気がした。


 その日の夕暮れ、ぼくはまたおじいちゃんのベッドのそばで眠っていた。夢の中で、お姉さんは海を見つめて待っていた。海の向こう、遠くとおくをじっと見つめて待っていた。


 小さなボートが、海の向こうから近づいてきた。白いボートの上で白いシャツを着て、オールをこいでいるお兄さんが、片手をあげてお姉さんへ手を振った。


 お姉さんは桃色の口を花咲くようにぱっと開いて、愛しい人の名を呼んだ。何度もなんども呼びかけて、大きくおおきく手を振った。


 ――おじいちゃんの、名前だった。夢の中で夢みたいにすうっとボートは岸について、お兄さんはお姉さんをぎゅうっと強く抱きしめた。それから甘く耳もとで、おばあちゃんの名を呼んだ。


 そうして、そこで目が覚めた。目が覚めてあわてておじいちゃんを見たら、せいせいと乾いた寝息が聞こえてきた。そのせいせいがぜいぜいになって、ぼくは思いきり駆け出した。


「ママ! パパ! おじいちゃんが、おじいちゃんが!!」


 ぼくの声でふたりともあわてておじいちゃんの部屋に駆け込む、おじいちゃんの寝息を聞いて、パパが「お医者を」と短く叫ぶ、ママが電話しに飛び出して……それきり、だった。


 おじいちゃんは、そこで息をするのをやめた。微笑む形のくちびるに、開け放した夏の窓から真っ白なが舞い込んでとまり、ふわりふわりと羽根を動かし、夢みたいに綺麗だった。


 おじいちゃんのお葬式で、皆みんな泣いていた。パパもママも泣いていた。親戚のおじさんもおばさんも、いとこのみんなも泣いていた。おじいちゃんのために。


 ぼくだけひとり、おじいちゃんとおばあちゃんのために泣いていた。恋の終わりに、泣いていた。


 ……それが、ぼくの初恋だった。

 ぼくはその夏十二歳。恋の終わりを噛みしめて、少し大人になった気がした。


 あれから二度目の恋をして、三度目の恋をして、三度目の恋をはぐくんで……恋が実り、本当の大人になって結婚して、子どもが生まれた今となっても、夏には初恋を想い出す。


 レモンソーダを飲みながら、ぼくは夏の夕暮れに、妻と子どもの出かけたひととき、ほんのわずかなひとりの時間に、初恋をなつかしく想い出す。


 レモンソーダのしゅわしゅわが、冷たくのどを過ぎていく。……開け放した夏の窓から、いつか見たような白い蛾が、ひらひらふわりと舞い込んできた。


 美しい蛾は本棚のふちにそっととまって、ふわりふわりと穏やかに羽根を動かして、真っ赤な夕日に飛び立った。


 窓から遠く海が見え、赤く染まった海の向こうに、熟れたリンゴのような夕日がじゅわっと熱く落ちてゆく。


 青い夜が訪れかかるその瞬間、玄関の方で『ただいまあ』と声がした。愛しい妻と幼い息子を迎えるために、ぼくは椅子から立ち上がる。


「おかえり」

 言う声が芯からの愛しさにあふれていて、それが嬉しくて目の奥がじゅっと熱くなる。潤んだ目じりを指でぬぐって、ぼくはふたりを出迎えに行く。


 ……玄関から空を見上げる。

 お月様と一番星とが、白くしろく輝いていた。


(了)

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