エピローグ
……そしていつか気がつけば、広大な図書館のただなかにいた。
「お目覚めですか、ご主人様……」
黒いメイド服に短いスカート、絵に描いたようなメイドがひとり、目の前でウィンクをしてみせる。
「こ、ここは? 俺、いったいここで何を……」
「あら、お忘れですか? ここは『夢の中の図書館』、ご主人様はこの図書館でいろいろな本を読みふけり、やがて読み疲れてしばしうたた寝なされたのです……」
メイドはショートのボブの黒髪をちょっと細い手でいじり回し、それから小首をかしげて微笑んだ。
「夢の中のうたた寝で、どんな夢を見ていらっしゃいました?」
「……体のはしから宝石化する奇病にかかって、ばらばらのオパールの欠片になって死んだ後に転生して……」
「ふむふむ」
「人外の文学青年に成長して、コウモリに変化して『お師匠の大作家』のために痔の薬を買いに行って……」
「あはは」
「その帰りに空から見た学生カップルが『エイリアンは血が赤いって! 気持ち悪ーい!』って騒いでた……興奮しすぎて鼻血を出した、彼女の血は真っ青だった」
「つまりはそのふたりの方が、人間からしたら『エイリアン』だった訳ですね」
メイドは満足げにうなずいて、湯気の立つ紅茶のカップをさし出した。流れですすった熱い紅茶は、花の蜜の香りがして……その花は白いという幻想が、なぜか頭にふっと浮かんだ。
「なるほど、なるほど……つまりご主人様は、今まで読みふけった本の内容を切れぎれに夢に見た訳ですね!」
「きみは……いったい何者なんだい? それにこのでかい図書館……ここはいったい……」
「ですから、あなた様の創り上げた図書館です。ここに収められた本の内容は全部ぜぇんぶ、あなた様の頭の中にあるイメージですよ」
「…………え?」
メイドはすっと小さく息を吸い、歌うようにささやくように言葉を紡ぐ。
「……現実は、あまりに恐いですよね。平凡な会社に冴えない会社員の自分、毎日まいにちミスを重ねては上司に怒鳴られ、同期からも馬鹿にされ、『あいつ使えねぇよな』と後輩からも陰口を叩かれ、ロッカー室で涙ぐむ日々……」
そのものズバリなご指摘に、頭の中に居すわっている泥みたいなものがぐうっと重さを増してのしかかる。くちびるを噛む俺の頭に、メイドはそっと手を触れた。
びっくりして彼女を見ると、メイドは栗色の瞳に澄んだ光を帯びて、俺の頭を優しく撫でながら微笑する。
「でも大丈夫。あなたの『作家になる』という夢、いつかは必ず叶います。たった今読んだ本の話は、全てがあなたの中のアイデア……疲れきって毎晩会社から帰宅して、それでも寝る間を惜しんで書き続けていれば……夢はきっと叶います」
ですから、といっぺん言葉をきって、彼女は優しく柔く微笑って言った。
「ですから、死んではいけませんよ」
――そうして、そこで目が覚めた。最初の二三錠で恐くなって、呑むのをやめた睡眠薬のひと瓶が、枕もとに転がっていた。
俺はゆるゆる起き上がる。閉め切った黒いカーテンのすきまから陽が差し込み、俺のほおを白く濡らし……薬のせいか頭は重いが、気分はなかなか悪くない。時刻はただいま午前十時、幸いに今日は休日だ。
ほおに自然と笑みが浮かぶ。笑みはくすくす笑いに変わり、笑って笑って笑っているのに、声はひくひく震え出し、まぶたの裏がやけどしたように熱くなり、視界は潤んで歪んで濡れて……、
塩辛いものがあふれてあふれて止まらなくて、両手で顔を覆いながら、夢のことを思い返した。メイドの笑顔と、頭を撫でられた感触が、すぐそこにあるように想い返せた。
――ですから、死んではいけませんよ。
最後のさいごのひと言が、胸いっぱいによみがえる。
分かっているさ、ただの夢だ。生命の危機を感じた『俺の体と頭』が結託して、俺自身を力づけるためにこしらえたまぼろしだったのかもしれない。
何もかもうまくいくなんて、そんな都合の良いことが。努力していれば何とかなるとか、そんな甘い世界じゃない……、
――それでも。それでも。
俺はがばりと起き上がる。顔を洗い歯をみがき、適当にシリアルとミルクの朝食を摂り……質素なデスクの上のちゃちなノートパソコンに向かい、それから猛然と書き出した。
『夏には逢えない』『わたしの救い主』『読んでも読んでも終わらない』……、
記憶にあるタイトルたちをかたかたかたと書き続けながら、ほおには笑みが浮かんでくる。
ちゃちいエアコンじゃ、室内でも汗ばむほどの白い陽ざしが、今はレースのカーテン越しにひまわりみたいに咲いていた。
(完)




