死と引きかえに愛しい歌を
「一年くらい前かしらね……その歌が聴こえるようになったのは」
ここは病院の診察室。医者の僕に向かい、老婦人は語り出す。
……見た目に病気とは思えない、話し方もしっかりしている。意識もはっきりしているようだし、認知症を思わせるところはみじんもない。
「話の流れで、年寄りの昔語りになっちゃいますけど、許してね……六十年以上も昔、わたしは二十歳の娘さんでね、親の決めた、幼いころからの許嫁がひとりいたのよ……ほほ、『ひとり』は当たり前よね……」
僕は黙ってうなずきながら、話の続きをうながした。『本筋に関係ない』とむやみに患者を責めてはいけない。診察はこういう枝葉から、重要なことが分かることも少なくない。
「……でもね、あたしはその許嫁が好きじゃなかった……貴族の末裔だったのだけど、気位ばっかり高くてねえ……ちょっとばかり顔の良いのを鼻にかけて、裏ではだいぶ遊びまわっているようだったし……」
老婦人はかすかな嫌悪を顔に浮かべ、それからふわっと微笑んだ。何か許嫁とは別のことを、別の誰かを心に浮かべたようだった。
「……結婚を数日後にひかえたある日、あたしの住む街に吟遊詩人がやって来たのよ……彼とはたまたま道ばたで行きあったのだけど、あたしとはものすごく気が合って……生まれてすぐの幼なじみだったみたいに、仲が良くなってしまったの」
老婦人はセットした白髪に手をやって、少女のようにはにかんだ。それからちょっと言いよどみ、力なく息を吐いて恥ずかしそうに打ち明ける。
「彼の歌声は素晴らしくて……人間的にも優しくてものすごくジェントルマンで、それはそれは素晴らしいひとで……お分かりになるでしょう? あたし、もうどうしようもなく彼に魅かれて……」
ふっともう一度言いよどみ、老婦人は六十年ぶりの懺悔をする。
「……あたし、彼と恋に落ちて……たった一度だけ、彼に抱かれたの……」
しわの刻まれたほおをほんのり赤くして、彼女はほうっとため息する。それから痛ましげに表情を歪め、泣きそうな声でささやくように言葉をこぼす。
「それが、許嫁にばれてしまって……吟遊詩人の彼は、許嫁の手でめった斬りにされて殺された……」
「――許嫁は、殺人の罪で重い罰を受けたのですか?」
「いいえ、彼は仮にも『貴族の末裔』というごたいそうなご身分だったし……相手は『ふらふら流れの吟遊詩人』ですもの、当時は旅の吟遊詩人なんて職業に、人権はないも同然だったの……」
僕は黙ってうなずいた。知っている。今もいくぶんその気味があるが、六十年昔には『よそもの』に関する人間の視線は恐いくらいに冷たかった。『ふらふら流れの吟遊詩人』は、ろくな理由もなしに……たとえば深酒のあまり怒り狂った酔っ払いに、旅先で殺される危険もあったのだ。
「許嫁は、形ばかり警察に事情聴取され……『正当な理由があった』とされて無罪放免、まもなく結婚式があり、あたしは彼の妻になった……」
ほう、と遠い目で息を吐き、老婦人はたそがれるようなまなざしで窓の外の樹々を眺め……それからかすかに微笑んだ。
「いろいろあったわ、本当にいろいろ……でも許嫁は……望まなかったあたしの夫は、十年前に商売女に性病を感染されて、それが悪化して亡くなって……」
「……あなたには?」
「うつりっこないわ、もうとうに彼と『夫婦の関係』はなかったんですもの」
ごくあっさりと説明し……老婦人はようやく、うっとりとしたまなざしでささやくように打ち明ける。
「……それで、一年前くらいから、歌が聴こえるようになったんです。頭の中で、絶え間なく、バックグラウンドミュージックみたいに……六十年前に亡くなった、吟遊詩人の歌声が……」
老婦人はとろけるような口ぶりで、愛おしげに己の頭に手を触れる。
「ほら、今でも聴こえているわ……小鳥のさえずりみたいに可愛く、愛のささやきそのものの歌詞、甘くて時に激しくて……」
ふっと現実に戻ったように、老婦人は医師を……僕をまっすぐ見て訊ねる。
「でもね、知り合いが先日言ったのよ……そういう現象は『脳の病気』が原因の時もあるから、いっぺんぼくの知ってるお医者に診てもらったらどうかって……」
「……そうですね。頭部のMRIを撮ってみましょうか」
僕の言葉に、老婦人はどこか不安げにうなずいた。
* * *
MRIを撮った後、僕は老婦人に診察室でこう告げた。
「――この画像を見てください。ここの影が分かりますか? ほら、こんなにハッキリ映っている……動脈瘤です、かなり大きい、二センチ以上ある……」
とても不安げにうなずく彼女に、僕は医師としてこう断じる。
「間違いない、頭の中で聴こえる歌はこの動脈瘤が原因です、こいつが『音に関する記憶』に関して悪さをしているんだ……これが破裂すれば命にかかわる、出来るだけ早く手術して……」
「――いりません」
「…………はい?」
「手術は必要ありません。どのみち、この歳のあたしは放っておいてもいずれ、遠くないうちに……あたしは『悪さ』と思いません、残り少ない最期の日々を、愛しい歌と過ごせればそれで本望ですわ……」
僕は何も言えなかった。しかし、という言葉がのどに詰まって出てこなくて、何度もなんどものどを鳴らして、最後に黙ってうなずいた。
――医師として、ある意味失格なのかもしれない。けれど、老婦人の人生を知ってしまった今、動脈瘤と共に彼女の『愛しい想い出』『愛しい歌』まで奪い去ってしまうことは、もうどうしても出来なかった。
それから半年……彼女はひとり亡くなった。
昼になっても起きてこないのにメイドが気づき、起こしに行ったときにはもう、ベッドの中で冷たくなっていたという。
僕は検死に立ち会った。やはり頭の動脈瘤が破裂していた。だが彼女の『永遠の眠り』についた顔は、満足そうに微笑んでいた。
僕は彼女のお葬式に出た。
彼女の遺言で『やっと幸せに』と刻まれた墓碑の前、僕は百合の花を手向けた。最後のさいごのひとりになるまで、お墓の前に立っていた。
小鳥の声がちゅくちゅく聞こえる。ようやく背を向けて立ち去ろうとした時、どこからか美しい歌が聴こえた。どこまでも甘く、どこまでも優しい愛の歌……。
僕は思わず天を仰いだ。歌は青いあおい空の向こうから、聴こえてくるようだった。……まもなく歌は聴こえなくなり、僕は理由も分からずに、黙って深く頭を垂れて、彼女のお墓を後にした。
その後気になって頭部MRIを撮ってはみたが、僕の脳に動脈瘤など全く出来てはいなかった。
あれから数年経った今、僕は時おり彼女のお墓参りに行く。『またあの歌が聴こえないか』とひそかに期待しているが、あれきり不思議な美しい歌は聴こえない。
今日も青いあおい空の下、聞こえてくるのはほがらかな小鳥の声ばかり。ちいちいちゅくちゅく、僕はまだ『天上の音楽』とは縁がないようだ。
だから、僕はひとりの医者として……その前にひとりの人間として、患者と向き合い過ごしていく。
決意の後押しをするように、一瞬、ほんの一瞬だけ、あの甘い歌が聴こえた気がした。
(了)




