人形病のお姫様
「彼女は優に半世紀……そう、五十年眠っています」
言いながら青年の示す先には、椅子に座らされた少女……とても五十歳以上には見えない、白いフリルのドレスを着せられた女の子。
ふわふわの金髪は素敵に長く、『愛情』をもって毎日ブラッシングされているのが分かる。肌にはしわのひとつもなく、柔らかい陶器のようにひたすら白い。長いまつ毛に隠された瞳、かすかな寝息を立てている……。
「ご存じですか? 『人形病』という病気を……かかると笑いも泣きもせず、何も食べず、何も飲まず、ただただ眠り続けるという……」
「……ええ、聞いたことがあります……」
「この子はね、その人形病なのです。なんでも昔、今からちょうど五十年前、僕の祖父が孤児院でこの子を見つけた時も、この子は眠っていたらしく……当時から病にかかっていたのですね」
「……あなたのおじいさまは、この子を引き取ったのですか?」
「ええ、『何とも可愛い子だ』と言ってね。それから実に半世紀、彼女はこの屋敷で眠り続けているのです。不思議な病気で体が変質しているのでしょうか、全く歳もとらずにね」
目の前の『少女』の見た目は、どう見ても六歳以上とは思えない。その生き物は本当に生きた人形みたいに、ただただ静かに眠っている。
貴族の青年は愛しげに、少女のほおを優しく撫でる。「お姫様」とその耳もとへささやいて、たまたま招かれた旅の吟遊詩人へ手を伸べる。
「道ばたで歌っていたあなたの歌声に惚れ込んで、屋敷までお連れしたのは彼女のため……この眠り姫にどうかお情けを、美しい歌を一曲捧げてくださいな……!」
吟遊詩人の青年はしばしためらって、それから心を決めた様子で口を開いて歌い始めた。
『目覚めよ 目覚めよ うるわしの君
そのほおは桃色の薔薇のごとく そのくちびるは砂糖菓子のよう
くちづけの代わりにこの歌を 目覚めよ 目覚めよ 美しい君……』
甘い声で歌うごと、人形のように眠っていた少女のほおにすうすう赤みがさしてくる。閉じたくちびるがかすかにかすかに微笑み始め……少女はゆっくりと目を開けた。
それは美しい瞳だった。淡い虹色がしゃぼん玉の表面みたいにくるくる揺らぐ、プレシャスオパールのような妖しいまでに綺麗な瞳。
「信じられん……僕は夢を見ているのか……?」
「――目覚めの歌。今歌ったのは『目覚めの歌』です。ぼくは長旅のあいだに少しばかり、呪歌みたいなのも覚えましてね。もしかしたら効くかと思って、ためしに歌わせていただきました」
「……目覚めさせてくれたのは、あなた……?」
少女の姿の生き物が、半世紀ぶりに口をきいた。オパールの瞳はうるうる潤んでまっすぐに、旅の青年を見つめている。青年はにっこりとうなずいて、彼女に大きな手を差し伸べる。
「そうだよ、眠り姫……ぼくはカントゥス、吟遊詩人だ」
「いやだわ『眠り姫』なんて! アイリスって呼んでちょうだい、それがあたしの名前だものっ!」
言うなり少女は椅子から飛びおり、カントゥスに思いきり抱きついた。年相応のはしゃぎっぷりで笑顔を見せるアイリスを、背後で貴族青年が面白くなさそうに見つめていた。
* * *
アイリスは「何も覚えていない」と言った。生まれてからの六年のこと、孤児院にいたことも何も覚えていないと言った。ただカントゥスへの感謝の念でいっぱいで、旅の吟遊詩人にずっとまつわりついていた。
それから数日、カントゥスは『眠り姫を目覚めさせてくれた恩人』として屋敷に泊めてもらったが……貴族の青年の瞳は冷たく、仲睦まじい吟遊詩人とアイリスをにらむように眺めていた。
四日目の夜、とうとう彼はカントゥスに向かってこう告げた。
「どうやらあなたは、いらんお世話をやいたようだ……お気づきですか? 目覚めてしまった眠り姫は、この数日でみるみるうちに成長している。眠っている時は六歳くらいに見えたのに、今じゃあ十歳以下には見えない」
「それは……」
「あなたの意見は聞いていない」
ぴしゃり言われて、カントゥスは気まずく口をつぐむ。貴族の青年は病的に美しい顔を歪めて、断定的に口走る。
「戻してください」
「…………え?」
「ですから、戻してくださいよ。アイリスをもう一度眠り姫にするんです。数日でこれほど成長するなら、十日もしたら五十年分、一気に歳をとるかもしれん。僕はおとなしい眠り姫が好きだったんです……『どこの馬の骨』とも知れん吟遊詩人にじゃれつく安っぽい娘ではなく!」
カントゥスはうつむいて黙り込み、何回もなんかいもうなずいた。「準備があります」と言いさして、貴族の瞳をじっと見つめる。視線は冷たく刺すようで、貴族は思わずぶるっと肩を震わせる。
「……目覚めさせるのは割に簡単、また眠らせるのは少し難しい……一晩だけ時間をください、幸いに今夜は満月だ、明日の朝にはアイリスは再び『眠り姫』に戻っていますよ……」
言いながら吟遊詩人は何か短く歌を歌った。心臓がぎゅっと掴まれた気がして、貴族は思わず胸を押さえる。またたく間にその感覚は消え失せて、カントゥスは小さく微笑って自分の客室へ戻っていった。
――その晩遅く、カントゥスは眠るアイリスをそっと起こして、貴族青年の思惑を全て打ち明けた。
「……あたし、本当にあと十日で五十年分歳をとるの?」
「いいや。そのオパールの瞳、間違いない。きみは人間じゃない、人外だ。ぼくとおんなじ人外だ……あの男は知らんみたいだが、『人形病』にかかった人間は眠りの長さに耐えきれず、じきに餓死する。きみが今まで生きていたのは、人外だったからなんだ……」
声もなくまばたく少女のほおに慈しむように手を触れて、カントゥスはまっすぐに言葉を重ねる。
「あと数日で、十七くらいの見た目には育つかもしれないが……それから二百年くらいは、そのままの姿で生きられる。見た目になかなか歳はとらない、それが人外の特徴だからね……」
すうっとひとつ息を吸い、カントゥスは噛みしめるように言葉を吐き出す。
「でも、このままここにいると、ぼくの手で再び長い眠りについて……」
「――もう! 早く結論を言ってよ!!」
小さく叫んだアイリスに、カントゥスはびっくりして白いほおから手を離す。その手をきゅっと握りしめ、アイリスはとろけるような笑みを浮かべてこう告げる。
「……連れてって。一緒に永く旅をしましょう、あたしだけの王子様……!」
吟遊詩人は何度もなんどもまばたいて、それからじんわり微笑んで、少女のくちびるへ触れるだけのキスをした。キスは見る間に深くなり、長く熱く続いて、続いて……、
腰から溶け落ちそうになりながら、くたっとなった少女の体を吟遊詩人が抱きとめる。口を離したカントゥスは、今のが『誓いの口づけ』だったかのような笑みを浮かべる。
それから、小さく歌い始めた。ライオンの寝言のような気高い、言葉にならない歌が青年ののどから洩れてくる。そのメロディーは徐々に音高く、やがて屋敷全体をつつむように歌いあげられ……、
屋敷じゅうの眠りは深く、なお深く、寝つけずに窓越しに星を見ていた貴婦人も床に倒れて眠り始めた。
歌い終えたカントゥスは、アイリスのほおをまたそっと撫でて微笑んだ。
「今のは眠りの歌だから……口づけで『耳をふさいだ』きみと歌い手のぼく以外、屋敷じゅうが眠りの中だ。あの貴族の男にはね、ぼくが『余命二年』の短い呪歌を歌ってやったよ……!」
――あたしのために? うっとりと訊ねる少女の姿の生き物に、カントゥスは「腹が立ったんだ、個人的にね」とあっさり微笑い、アイリスの小さな手をとった。
「……もう! そこは黙って愛しげにうなずくとこよ!」
可愛い駄々をこねる少女に、青年はもう一度軽く口づける。「……今のは何の『耳ふさぎ』?」と問うアイリスに、吟遊詩人ははにかんだ。
「なあに、ただ……ただ愛しいと思ったからさ!」
そうしてふたりは、死んだように眠り込んだ夜の屋敷を脱け出した。手と手をつないで白いしろい満月の下、ふたつの青い影をひき……。
初夏の夜風が、ふたりのほおに心地良い。きょっきょっと夜の小鳥の歌声が、虫の音に混じってそちこちから聴こえてくる。
吟遊詩人もそれらの歌に応えるように、そっと桃色の口を開く。
人間は、誰も聴く者がいないというのに……、
カントゥスの甘くひそやかな『目覚めの歌』が、ナイチンゲールの小夜曲のように、夜いっぱいに響いていた。
(了)




