おばあちゃんへの招待状
それにしたってちゃちい鍵だぜ! ものの十秒で開くとはな!
おっと、ふところの銃は最後の手段だ……どのみち中に住んでいるのはバーさんひとり、ちゃんと調べはついている!
独り暮らしのバーさんなんて、果物ナイフ一本で脅しゃあ一発だ! 俺は『善良な強盗』だ、相手も護身用の銃さえ持ってないようなか弱いババア、こっちも相手を傷つけようとは本当はさらさら思っちゃいねえ! 貯め込んだ小金をもらっておサラバよ!
そんなことを考えながら、ジャックは扉を押し開けた。白髪の老婦人がびっくりしたような顔をして、薄青い瞳を大きく見開く。
「――ウィリアム! ウィリアムじゃないの、久しぶりねえ!」
「…………はあ?」
「まあまあウィリアム、用意の良いこと……旬のリンゴの皮をむくのに、果物ナイフを持ってきたの? でもね、生のリンゴよりもっと美味しいものがあるのよ! 出かける前に焼いといたアップルパイよ! あなた、好きでしょ? ちょっと待っててね、今お茶を淹れるわ……!」
「え、いやちょっ、あのう……!!」
ジャックに止める間も与えず、老婦人はいそいそとキッチンに引っ込んだ。強盗に入ったはずの青年は、手に握ったナイフの持っていきどころが分からずに、抜身のままで呆然とそれをテーブルに置く。
――なんだあのバーさん、認知症が入ってんのか? おかしいな、下調べではそんな情報、一個も入ってこなかったが……?
困りきるジャックの目の前に、キッチンから戻ってきた老婦人の手でアップルパイと紅茶が置かれる。淹れたての紅茶から白い湯気が甘く揺らめき、ジャックは流れでカップにそっと口をつける。
「……美味い」
「そうでしょう? あなたの好きなアップルティーよ、パイをこしらえるのに使った紅玉リンゴの皮を使って淹れたのよ……さ、パイも食べてみて、シナモンが効いていて美味しいわよ!」
しかたなくかじりついたパイの皮がさくっと噛みきれ、中から甘酸っぱいアップルフィリングが舌にじんわり甘く染みいる。言われたとおり、シナモンパウダーの風味が効いて、美味い、確かにすごく美味い。
(……こんなもん食ったの、いったい何年ぶりだろう……)
目の裏がぎゅうっと熱くなる、急に視界がうるうる潤む。
――俺の人生、さんざんだった。五歳で実の母親と死に別れ、親父がめとった後妻は性悪な商売女、継母は俺をぶったり蹴ったり、悪口雑言の雨あられ……、
あげくに継母に惚れ込んでいた実の父も俺を虐待するようになり、とうとう七歳で俺は家を追い出され、それからは絵に描いたようなストリートチルドレンの暮らしが始まり……すりにかっぱらい、出来ることなら何でもして、十八の今はこうしてか弱いバーさん専門の強盗だ……。
そんな俺に。少しおかしくなってるとはいえ、アップルパイに紅茶をふるまってくれたのは、目の前のバーさん、あんただけだよ……。
ジャックの目の潤みに気がつくそぶりもなく、老婦人はカップに紅茶のおかわりを注ぐ。しみじみした口ぶりで、ウィリアムの想い出話を語り出す。
「ウィリアム、あなたは小さい頃からアップルパイとアップルティーが何より大好きだったわねえ……二十歳の時だったわね、『ママとおんなじ味のパイを焼いてくれる娘と、この前婚約したんだよ!』って報告してくれたのは……」
――ほら、やっぱりそういう話だ。幸福な奴は無駄に幸福、俺みたいな負け犬は小さい頃から負け犬の人生、パイだ? 紅茶だ? そんなもん、今飲み食いするまでもう何年、口にしてないと思ってやがんだ……!
「……結婚の前日だったわね、婚約者が交通事故で亡くなったのは」
「――……え?」
「それからのあなたは自暴自棄になって、お酒とドラッグに溺れて、現実と妄想の区別もつかなくなって……二十二歳の誕生日に、拳銃自殺をしたのよね」
言葉を失うジャックに向かい、老婦人はひとり言のように、ぽつぽつ言葉を重ねてゆく。
「それから、あなたのお母さんも一人息子を失った悲しみに耐えきれず、睡眠薬を飲んで自ら命を絶って……遺されたわたしとおじいさんは、この家でふたりぼっちで生きてきたのよ……」
そこでまっすぐジャックの目を見て、老婦人は訊ねかけた。
「あなた、名は?」
「……ジャ、ジャック……」
「そう、ジャック……あなたは最初ひどく興奮していたみたいね。だから少し認知症の入ったふりをしたのだけれど……そんな訳でね、たったひとりの孫を失ったおばあちゃんは、あの子と同じ年頃のあなたをこのまま放ってはおけないの。何があったか知らないけれど、立ち直って生きていってほしいのよ」
ジャックは言葉も返せずに、ただカップに口をつける。冷めかげんのアップルティーが、舌に甘くてほろ苦い。
「……ねえあなた、とりあえず今夜はここで寝て、明日起きたら庭の草刈りをお願いできない? そしたら草刈り代を払うわ、他にもいっぱいやってほしいことがあるの……なんせ十年前におじいさんも亡くなって、おばあさんのひとり暮らしじゃ手の回らないこともたくさんあってねえ……」
そう言って微笑う老婦人の目の前で、ジャックはまるでむちゃくちゃにアップルパイにかぶりつく。涙と鼻水で整った顔をくちゃくちゃにして、震える声でこうつぶやいた。
「……パイのおかわり、お願いします……」
* * *
それから三月、老婦人のもとで働き、ジャックは彼女のもとを去った。
「こんな俺でも住み込みで雇ってくれるカフェを近所に見つけたんです」と、満面の笑顔で報告し、その後もちょくちょく彼女の家へ遊びに来た。
ひまを見て伸びた植木を剪定し、老婦人には手の届かない高いところの室内の掃除をしてくれて、そしてもちろん、しょっちゅう一緒にお茶会をした。
三年後の今日、老婦人はおめかしをしてお出かけだ。白いツーピースのスーツドレスに百合のコサージュ、白髪もきちんとセットした彼女に、ご近所の奥さんが声をかける。
「あら、おばさま! おめかしなさって、どちらへお出かけ?」
「あのね、孫息子の結婚式なの……『おばあちゃんとおんなじ味のパイを焼いてくれるんだ!』って、前にのろけたお嫁さんとね。じゃあ行ってきますね、孫のジャックの結婚式に!」
晴れやかに笑って老婦人は、白髪を風になびかせて秋の日の下を歩み出す。小さなバッグの中の手みやげのアップルパイの香りが、甘く優しくそこらじゅうにただよっていた。
(了)




