「読み終えた瞬間に死ねますよ」
聖書? あんなもの、完読したことないですよ。
は? 何ですか……「その手にお持ちじゃないですか」って? はは、もちろん読む気で持っているのじゃありません。これはお守りなんですよ。
はは、どうにも訳が分からない……そういう顔をしていらっしゃる。よろしい、どうせ急がぬ旅だ、この野っぱらの平たい岩に腰かけて、ゆっくり訳を話してさしあげましょうかね……。
――ところどころ歯の抜けた口を広げて笑い、旅の老人は話し始めた。
* * *
昔むかしね、自分は十五の青年でした。
そうしてはた目から見たら、『たいそう冒涜的な若者』だったらしいのです。
なに、本人からしたら冒涜的も何もない、聖像に小便をひっかけたりなどしたこともない……ただみんなして言うのです、『聖書も読まん生意気なガキ』だと。
なに、自分は何も『神を信じんから』読まんというのじゃない、もともと自分は読書が大の苦手なんです。当時はやりの恋愛小説も受けつけない、情景なんぞ読んでも頭に入ってこない……、
キャラクターの心理? そんなもん読んでどうしようっていうんですか! 腹の足しにもなりゃせんのに、紙の上の文字を目で追って涙するなんてバカバカしい!
どうしても頭のどこかで思っちまうもんですから、まあ学校の授業でも、国語の成績は壊滅的でしてねえ!
本当にどのジャンルも面白くない、冒険小説もSFもダメ、それでも自分の読書嫌いをなんとかしようと、親に隠れてこっそりと官能小説も買ってめくってみましたが……それすらダメっていうんですから、そりゃあなた、こんな分厚い聖書なんぞ読み切れるワケがないでしょう!
しまいには自分もきっぱりあきらめて、日曜に教会に行く時以外、聖書なんぞには手も触れぬようになっていました。
しかし、そんなある日の寝苦しい夏の夜のこと……夢に天使が現れたんです。彼か彼女か、中性的に美しい白い生き物は、その手に一冊の聖書を抱えてにこやかにこちらに微笑みかけました。
「ダグラス、あなたはどうして聖書をお読みにならぬのですか? あなたのお家はこの聖書に書かれた神様を信じていらっしゃる、あなたも十歳で教会で洗礼を受けたでしょうに……」
「――そんなことを言ったって! 読めないもんは読めません、何も聖書に限ったことじゃない! おれははやりの小説も、SFも官能小説も読めないんですよ!? そんな俺に分厚い聖書が読み切れるワケないってこと、神様や天使なら分かりそうなもんじゃないですか!」
思わずそう叫ぶと、美しかった天使の顔はみるみるうちに悪鬼のごとく怒りに満ちて……聖書をかかげて醜く微笑って言ったのです。
「なら読めるようにしてさしあげましょう……ダグラス、あなたはたった今から死ねなくなった。年々歳はとっていくが、決して死ねない。さあ、この聖書をさしあげましょう……この聖書を初めから最後の一行まで読み終えれば……」
天使はふっと言葉を区切り、残酷な笑みを浮かべて言いました。
「――読み終えた瞬間に死ねますよ」
そうして、そこで目が覚めました。
枕もとには、置いた覚えのない聖書が……夢で見たのとまるで同じ、赤い絹張りのビロードのような輝きを放つ一冊の本が、どんと置かれていたのです。
それから自分は、狂ったように聖書にとりかかり始めました。なんと恐ろしい、これを読み切らにゃあ年々歳をとるばかり、決して死ねはしないのだ!
自分は血の涙を流すかとばかり、食いつくように聖書に挑みかかりました。最初の一行から始めて、そうですねえ……百年ばかりはそれでも奮闘したでしょうか。
そのうちに両親は老いて死に、親戚も恋人も友人たちも先に逝き……やっきになってそれこそ死ぬ気で読みに読んでも、全く頭に入ってきません。何でしょうね、自分はそういう『読めない病気』だったんでしょうか……、
情景も浮かばない、救い主や弟子どころか、敵方の気持ちさえ欠片も理解できなくて……しまいに自分は、悟りました。
読み切らなくていいじゃないかと。どれだけ歳をとったって構うもんか、考えてみりゃあ自分は『不死』だ! これから先どれだけ歳を重ねても、この聖書さえ読み切らなくばおれは死ぬ必要がない!
たとえこの先何百年、何千年が経とうとも……仮に『最終戦争』とやらで人類が死滅してしまっても、聖書さえありゃあ自分は不死だ!
――いいや、もし烈火や爆風でこの聖書さえ灰になれば、自分は全くの不死になる! 『死ぬための条件』もなくなって、死に絶えた星に君臨する王になる!! ひとりっきりの孤独な王に!!
……とまあ、その真実に気がつきましてな。それからはこの赤い絹張りの聖書を抱えて、まるで気ままに旅また旅の暮らしですよ。まあ気楽なもんですわ!
* * *
ひとしきり訳を語り終えて、老人はまた歯の抜けた口をぱかんと開けてからから笑う。
話を聞いた少年は、何も言えずにじりじりと少しずつ後ずさる。目の前の生き物は、まるで理解が及ばない。神を冒涜し、聖書も読まず、ただただ黒いぼろをひっかぶり、生きて息をするだけの暮らしを、亡霊のように世界じゅうをうろつき回るだけの人生を――楽しんでいる、心から。
「……ぼ、ぼく、そろそろ家に帰らなきゃ……」
「――おう? ああそうですな、あなたのような可愛らしい男の子には、ちゃあんと帰る家がある。ぼうやは聖書をお読みかな? 読みますか、それはけっこうけっこう。何だかんだ、わしのようなこういう暮らしは、向き不向きと言うもんがありますからな……!」
そう言ってからから笑う『ぼろをひっかぶった生き物』から、少年はだっと駆け出し逃げ出した。
……息を切らして家について、驚いた様子の若い母からソーダ水をもらってコップに二杯ごくごく飲んだ。「そんなにあせって……何かあったの?」と母に聞かれて、何も言えずにごまかすようにはにかんだ。
その日の夕食、当たり前のように『食事の前のお祈り』があり、若い父が聖書をひもとき、その中の一節を美しい声で読み上げる。母も小さな弟も、当然のように声をそろえて復唱する……、
少年も少しためらった後、幼い声で厳かな言葉を復唱する。
昼間見た『あんな生き物』をこしらえてしまった『絶対的な存在』に、かすかな疑いを覚えつつ。……
(了)




