たき火とマシュマロ
書いて書いて、書き続けた。二十歳の誕生日から六十年、毎日まいにち書き続けた。書き続ければきっといつか報われると、内心でそう唱えながら。呪文のようにとなえながら。
――今年で八十歳のウォルターは、いまだ『単なる一般人』だ。そこそこの大学を真ん中くらいの成績で卒業、ありきたりな会社でサラリーマンを勤め、六十歳で定年を迎え……そのあいだ空いている時間を見つけて、一文字でも多くおおくと、オリジナルの物語を書き続けた。
もちろん文章の勉強も欠かさない。気に入った作家の作品をノートにペンで書き写し、文章の巧みさや構成力、その他全てを学び取ろうと貪欲に目を光らせるのも日課……、
そのためだろうか、一週間前に亡くなった妻は、永遠の眠りにつく前夜にぽつりとつぶやいた。
「あなたはいつだって、書くことばかり考えていて……あたしのことなんて二の次でしたね」
その言葉は、胸の奥までを深く抉った。
――ああ、悪かった、本当に悪いことをした。休暇の家族サービスは欠かさなかったつもりだが……俺はいつだって、車のハンドルを握りながら、いつもいつしか黙り込んで、小説のプロットを練っていたんだ。
悪かった、マーガリート……明日の朝になったなら、俺はきみをデートに誘う。そして決して黙り込まない、映画館でもちゃんと画面を、そしてたまにとなりのきみを見つめながら、絶対に書きかけの小説のことは考えない――。
そうして翌朝、妻は別室で寝たまま、心筋梗塞で永遠の眠りについていた。
いけなかった、俺がいけなかったんだ。同じ寝室で寝ていれば、異変に気付けていたかもしれない。ふたりが三十代の時、妻は俺を気づかって「寝室を別にしましょう」と言ったんだ……、
俺が急に夜中にネタを思いつき、寝室を脱け出して書斎に行く時……妻を起こさぬように細心の注意を払うのに、マーガリートは気づいていたから、そんな俺に気を使って……。
――だから。妻を殺したのは俺だ。そう心底から思い至り、ウォルターはしわくちゃの両手で、しわだらけの顔を覆った。
葬式は簡素なものだった。子どもも孫もいない老夫婦、書き物狂いのウォルターは親類縁者の中でも、ご近所でも変わり者で通っていたから……そうして妻のマーガリートも『変わり者の妻』で通っていたから、式には人もほとんど来なかった。
式も終わり、妻の亡骸も棺に入れられ、冷たい土の下におさまり、こじんまりした一軒家にひとりになって……ウォルターは、今まで自分の書いた原稿を一から見返した。
もちろん出版社にも送ったし、数限りなく文芸コンテストにも応募をくり返していたが、書いた内容は一言一句書き写し、全て手元に保管していた。
――あまりにひどい。どれもこれも、まるでなってない。読めたもんじゃない。
ウォルターは絶望し、泣きながらうめきながら原稿をむちゃくちゃに破り散らした。黒いインクのしみのついた、白い紙や経年劣化で黄ばんだ紙が、薄汚れた雪みたいにばらばらと部屋に散らばった。
マーガリートがいてくれたから。
マーガリートが読んでくれたから、まだ価値のあるもののように思えていた。
しかし、今……最愛の彼女を失った今、目の前の紙片と破り残された原稿は、もはや紙くずでしかない。こんなもの、今まで雑誌に載らなくて当然だった。作家になれなくて当然だったのだ、大事な妻さえ大事にしきれなかったこの俺は。
燃やそう。何もかも燃やしてしまおう。そうして汚い紙くずのなくなったこの家で、俺は残りの人生を、マーガリートの写真の前に毎日まいにち花を飾り、彼女に語りかけて暮らそう……。
そうして、ウォルターは六十年分の原稿を……いや、毎日まいにち書き出す前からも飛び飛びに書き溜めていた原稿をも、全てまとめて家の前で火をつけた。
――美しかった。赤にオレンジにちらめく炎は、盛大な走馬灯のようだった。うつろな灰色の目に炎を映すウォルターのそばで、ふいに幼い声が響く。
「わあ、おっきなたき火だね!」
驚いて肩をはね上げふり向くと、金髪の少年が嬉しげに歓声を上げていた。灰色がかった青い瞳、桜色の微笑を浮かべた可愛いくちびる……。
「ね、マシュマロ焼いて良い?」
何とも無邪気なひと言に、ウォルターは思わず吹き出した。おかしくっておかしくって、げらげら笑っているうちに目から涙が噴き出した。
「――マシュマロか! 良いともいいとも、いくらでもお焼き!」
「だめだよじいちゃん、そんなに食べたら虫歯になっちゃう! じゃあこれ、串に刺したマシュマロー! このぼんぼん燃えてるたき火であぶりまーす!」
さっとあぶると桃色と白のマシュマロ串はあっというまにとろりととろけ、少年は顔を輝かして熱いお菓子にかぶりつく。満面の笑みが目の前で弾け、少年はウォルターに食べかけの串をさし出した。
「食べなよ、じいちゃん! なんか落ち込んでるみたいだけど、そーゆー時は甘みが一番!」
少年の勢いに気おされて、ウォルターもひとくちかじりつく。強烈なまでのとろけた甘みが口の中に広がって、じんわり心に沁みていく。
「――じいちゃん、書きな。また書きなよ、書き続けなよ。死ぬまでに一冊は本を書くって、十歳の夏に決めただろ?」
灰色の目を見開いて、ウォルターは少年をまじまじ見つめる。
――自分だ。この少年は十歳の頃の、自分自身にそっくりだ……!!
少年はにかっと白い歯を見せてはにかんで、ひらっと手をふって走り出す。あっという間に霞が風に吹きはらわれて消えるみたいに、少年の姿はかき消えた。
……いつの間にか、あれほど燃え盛っていたたき火も燃え尽きようとしていた。くすんだ灰色の煙が上がり、紙くずたちは無残な灰と化している。
ウォルターはひとり、笑い出した。笑って笑って笑ったあとに、顔を覆って声を殺して泣き出した。
一時間後、目を泣きはらした老人が、ペンを手に原稿用紙に向かっていた。書き物机のかたすみに、写真の中で老婦人が微笑っていた。
* * *
……一年後、ウォルターという老作家がデビューした。『苦節六十年、不屈の魂の自伝的小説』と銘打たれた一冊は、ベストセラーにこそならなかったが、一部に熱烈なファンを生んだ。
『愛しのマーガリート』というタイトルの一冊は、ウォルターの没後五十年経っても、一部の古書店で息をしている。
あなたに……そう、そこのあなたに、手に取ってもらうのを待っている。
(了)




