万年続く子守唄
いつまで起きておる、子どもは寝るのが仕事じゃぞ? 何……歌が聴こえる? あの森の奥の方から聴こえてくるようじゃと……?
それはな、天使の歌声じゃ。天使の子守唄なのじゃ。よしよし……おとなしくして寝むというなら、寝物語にたったひとつ、昔話を語ってやろう。
昔々のそのむかし、この世には悪があふれていた。神々がこの世の中を混沌から創り上げた、その残りかすの穢れたものが意思を持ち、悪魔という生き物になり、人間や動物に悪さをしておったのだ。
神々はそのことを憂い、この世に救い主を遣わそうと……ひとりの処女の清い腹に、小さな命を宿らせた。その魂は練り絹のように白く清らで、やがてはこの世に生まれ出で、救い主となるはずだった。
……だが、悪魔たちはそれを赦しはしなかった。悪魔のひとりが美しい青年の姿に化け、何やかんやと処女に言い寄り、さんざんにその身を『穢して』しまったのだ。
処女の胎内の救い主の魂は、言いようもなく穢れてしまった。穢れたままで生まれてきたのだ。赤子は見る間に少年の姿に成長し、その髪は闇のように黒く、瞳は輝く紅玉のよう……あまりに美しい姿だが、口もとに浮かぶ微笑は歪んでいて、いたずらばかりしでかしていた。
さあ大変だ! このままではいずれこの子に、世界が滅ぼされてしまう……! 神々は天にて相談を重ね、幼い『穢れた御子』の許に、ひとりの天使を遣わしたのだ。
白い髪に白い羽、絹のように清らかな肌……雪が意思を持ったような姿の天使に微笑まれ、御子は皮肉に笑いかけるのも忘れてしまった。恐るおそる近づいて、さくらんぼのように赤いあかい口を開いた。
「……おねえさん……誰なの? その白くて綺麗な羽……天から降りてきた天使なの……?」
天使は声もなく微笑みかけ、かすかに歌を歌い出した。今までに聴いたことのない言葉、あまりに美しい旋律に、御子はうっとりと天使の胸もとに近づいた。
天使は柔く、それはそれは柔らかく、幼い御子をその清い胸に抱きしめて、だんだんに声を高らかにして、美しい歌を歌い続けた。
歌は子守唄だったんじゃろう、御子はことんと夢見るようにうっとりと、赤い目を閉じて天使の胸で寝入ってしまった。地面が見る間に盛り上がり、巨きな樹がふたりを覆うように生え出で、大きなうろにふたりを包み……みるみるうちにあたりは深い森になって、ふたりの姿を覆い隠した。
歌は魂の子守唄……魂を浄化する歌なのじゃ。天使は少しずつ、少しずつ成長していき、今は青年の姿となっているじゃろう御子を胸に抱き、巨きな樹のうろで今でも歌を歌っておる……。
……万年歌を歌い続けて、一万年目に御子は目覚める。歌に魂を浄化され、芯のしんから清くなって……さすれば御子は天使と結ばれ、清い子をもうけ、子孫は世の中すみずみに広がり栄え、それぞれに清めの歌を歌い……、
やがては穢れた悪魔たちもその魂を浄化され、世の中はすっかり善くなると……これが今の世にまで伝わる、救い主の物語じゃ。
――さあ、もうはやお話はおしまいじゃ。眼を閉じて、ゆっくりお寝み、我が孫よ……。
* * *
……ベッドの中で、少年はおとなしく目を閉じた。森の奥のおくの方から、何とも清らな美しい声が、世にも妙なる子守唄を歌っていた。
その夜、少年は夢を見た。夢の中で少年は森の奥深くまで迷い込み、巨きな樹のうろに行きついた。
……うろの中で天使に抱かれ、美しい青年が眠っている。黒い絹糸のような髪、よく熟れたさくらんぼの色の、かすかな微笑をたたえたくちびる……美しい子守唄に眠りながらもうっとりと、目を閉じて耳をかたむけている。
絶え間なく歌を歌いながら、天使が羽をひらつかせる。ゆっくりと打ち震える翼が微風を呼び起こし、一枚二枚、羽根が落ちる。
……天使がふっと顔を上げ、歌いながら微笑んだ。夢の中で、少年を見て、目と目を合わせて微笑んだ。
そうして、そこで目が覚めた。少年はベッドの上に起き上がり、闇の中で幼い両目を何度もまばたく。確かに目にしたはずなのに、美しい天使の瞳の色を、どうしても想い出せなかった。
……夜ふけて満月は空のてっぺんに、いまだ森の奥のおくから、かすかな歌声が流れながれて、いつまでもいつまでもとだえなかった。
瞳の色も想い出せぬまま、少年の胸の内には、あの美しい天使の面影がうっすり灼きついて離れなかった。
あくる朝、祖母は目覚めた少年に、何の気なしに訊ねかけた……「ゆうべ、天使の夢を見たか」と。少年はうなずきかけて首をふる。何だか妙に、言ってはいけない気がしたのだ。
「そうか……いやあ、実はの、気がかりなことを思い出してな。『天使たちは千年に一度、生け贄の魂を欲する』とな……」
「……いけにえ?」
「そうじゃ、いくら御子と天使とはいえ、万年のあいだ何にも食べずには生きられん。じゃから彼らは『天使の歌』を耳にした者の夢へと入り込み、千年に一度、誰かの魂を食らうとな……そう思い出したのが今朝のことじゃ。いやいや、歳はとりたくないもんじゃ!」
おどけて祖母はからから笑い、少年はつられたようにおずおず微笑み……だが、夢で天使を見たとは言わなかった。『いけにえ』になっても、かまわぬような気がしたし……、
――きっと今さら言ったところで、もう運命は変わるまい。そうあきらめがついたから、少年は何も打ち明けなかった。
その日の夜、少年はいつものようにベッドに入り……そのまま二度とは目覚めなかった。何の病と言うのでもなく、「天使が」「天使が」と小さくうわごとを言いながら、眠るように息絶えた。
歌が、聴こえる。
嘆く家族の耳にしみじみ染み入って、森の奥のおくの方から、祝福のように呪いのように、甘い歌声が流れながれてとめどなく、かすかにかすかに響いていた。
(了)




