寿命の檻
やりきれないほど幼かった。十歳くらいの少女だった。
……『体を売って商売する』店にいる女性としたら、哀れなくらいに幼かった。
もちろん、乱れた世の中と言えど最低限の風紀はある。当時のその国では、『そういう商売に従事する』のは十五からという法律があった。
だから他の少女と同じく、マリィと言う名のその少女も、店の雑用をこなしていた。掃除、洗濯、料理にベッドメイキング……、
『夜の商売』で乱れて濡れたシーツをはいで洗濯するのは、幼い心にさぞ辛かったに違いない。なにせ少女たちのこの身分は期限つき、十五になれば彼女たちも同じ境遇に堕ちるのだから。
中でもマリィの青い瞳は、ひときわ沈んで目に映る。ただ『夜の舞台』でにぎやかしに歌うためだけに呼ばれた青年、人外の吟遊詩人のぼくの目には、彼女の存在がどの商売女より灼きついた。
膝までの長さのスカートをはいた少女の中で、マリィはなぜかひとりだけ、中世の貴族のドレスのようなスカートをはいていた。
そのスカートを揺らし、引きずり、マリィは他の子と同じように這いつくばって床の掃除をし、同じような激務をこなし、他の子と違い寝む様子も見せなかった。
そうして他の子が動くとちりちりと小鈴の音が響くのに、マリィがどれだけ頑張ってあくせく動いても、鈴はちりとも鳴らなかった。
人外と言えど青年だが、ぼくは不思議に『性に淡い』……けれど情欲や何か関係なしに、ぼくはなぜだかマリィに魅かれた。
涙もなしに泣くように潤んだ青い瞳、まぼろしのように淡い色合いの優しいくせっ毛の金髪、長いドレスが重たそうな小さく細い体つき……、
同じような境遇の少女なんて、歌のために呼ばれたいろいろな店でうんざりするほど目にしてきたはずなのに、マリィを想うと胸がきゅうっと音を立てた。
――この少女が、あと五年もすれば、いったいこの店でどうなるか。何をさせられ、その美しい青い瞳が白い霧にくもってゆくのか……そう考えるとたまらなくなり、ぼくはある夜ふけ、誰も見ていない暗がりでそっと少女に打ち明けた。
「マリィ、笑わずに、泣かずに聞いてくれ……ぼくは君を救いたい。しがない吟遊詩人のぼくには、君を店から買い取るだけの金はないけど、人外の……半神のぼくには翼がある……」
隠していた白い翼を背中からちらりとはためかせ、ぼくはマリィの手をとった。
「……だから、逃げよう。この店からふたりして……」
言いたいことはもっとたくさんあったけど、もう何ひとつ言葉にならず、ぼくはただただ彼女の両手を握りしめる。マリィはぼくをじっと見つめて、それは不思議な笑いようをした。
「……マリィ……?」
「半神の吟遊詩人さん、わたしは決して商売女にはなりません……十五歳にもなれないんです、だってわたしは……」
言いながらマリィは、ドレスのスカートをたくし上げる。――高々とまくり上げられた下には、何もなかった。白いくつしたも、細い両足も、フリルのついた下着も何も……。
「……わたしは、幽霊なんです。百五十年前、この店で風邪をひいて、それが元で肺炎になって十歳で死んだ少女メイド……それからわたし、ずっとこの老舗でただ働きしてるんです……」
何も言えないぼくの手を、ひやりとする手で握り返して、幽霊の少女は泣き出すように微笑んだ。
「……でも、あなたが連れて飛び立ってくれれば、わたしはきっと自由になる……店に憑いたこの幽体が霞のように消え失せるか、あるいは、あなたの想いがそれよりずっと強ければ……」
マリィは、消えずにずっとぼくと一緒に……、
けれども、それで良いのだろうか? 半神のぼくと幽霊のマリィ、キス以上のことは出来ずに、何千年、何万年……いつか互いに『寿命』が来て、同じ種族に転生する時を夢見て、これから永いながい時を、ふたり『寿命の檻』の中で……。
ぼくはきつく歯を食いしばり、ぎゅうっと強く目を閉じて、すがる手つきでマリィの両手を握りしめ……ひやい感触の肩を抱き寄せ、まるでがむしゃらに抱きしめた。
「――逃げよう。ここから、ふたりで飛んで、遠くとおく、空の向こうに……」
ぼくは翼を大きく広げ、その白い羽で優しく柔く幽霊少女をつつみ込み……すべるように湿った床を駆け抜けて、マリィを腕に抱いたまま、音もなく扉を開けて飛び立った。
腕の中の感触があるか消えたか、薄れゆくかも分らぬくらい、しらしら明けに明けゆく空のお日様めがけ、風を切って大気の海原を駆けて駆けて駆けてかけて……
――少女が目を覚ました時、なぜか店の扉は開けっぴろげに開いていた。
どうしたのかしら、誰かがそっと逃げたのかしら?
……やあね、そんなこと考えて。誰も逃げられやしないじゃないの。
内心でつぶやいてかすかに笑う少女の足もと、小鈴がちりちり音を立てる。少女は粗末なパジャマから膝までの長さのスカートに着替え、寝起きでしょぼつく目をこすり、不思議そうに空を見上げた。
「……あたし、まだ寝ぼけてるのね。明けの明星がふたつあるわ……」
眠い頭でぼんやりつぶやき、メイドの少女は朝一番で井戸の水を汲みにいった。足枷についた逃亡防止の小さな鈴が、居どころを示すちりちりとした音を立てる。
天には白い星がふたつ……明けの明星のすぐとなり、翼の生えたような小さな白い点がまたたき、朝焼けの空に姿を消した。
(了)




