体感的な『寿命の問題』
「体感、だいたい十日くらい?」
嫁がナッツをぽりぽりしながら、唐突に俺にこう訊いた。まったく……こいつの会話は往々にして主語がない。自分では分かってることなんだろうが、こちらには伝わらんぞ、愛妻め!
俺がそう突っ込むと、嫁は長い黒髪を揺らして「はいはい、無自覚ノロケ美味しいですー」とか言いながらほんのりほおを染めている。素直じゃないのがまた可愛い。と思ったが、あんまり言うとしまいに照れが高じて(なぜか)キレ出すので、俺は黙って腕を組む。
嫁は照れ隠しにまた蜜がけのナッツをぽりぽりしながら、何でもなさそうにこう言った。
「だからね、体感十日くらい? あんたにとっては、あたしの一生」
「……お前が生まれて死ぬまでか? そうだな、お前は人間にしてはだいたいいつも長命だ。百歳前後、生きるからな……『蛇の神』の俺からしたら、そうだな、十日くらいで生まれて死んでいく感覚か……」
組んでいた腕をほどいて答えたら、愛妻は俺の白銀の長髪にそっと細い手を絡めてきた。
「うぉおい、お前! 今さっき蜜がけのナッツをついばんだばっかりだろうが! うかつに触るな、蜜がべたつく指で触れるな!!」
「えー、じゃあ後で一緒にお風呂に入って洗ったげるからー」
一緒にお風呂……悪くない。そう思って黙り込む俺の顔を見て、嫁は「ちょろいわ」と言いたげにほくそ笑む。くそぅ、そういうところも可愛いぞ。
俺の内心を知ってか知らずか、嫁は己の指先を桃色の口もとへ押し当てて、首をかしげて問うてくる。
「……そんじゃ、あたしが死んだ後、『次のあたし』を待つ期間も、だいたい体感十日間?」
「――……ああ。そうだな、お前が寿命で死んだ後、転生して戻ってくるまで、これもだいたい百年だからな……」
腐れ縁というものか……いや、違う。これは運命というものだ。
初めての出逢いは千年前。湖の主、『白蛇の化身』の俺は、湖のほとりで泣いていたひとりの少女に声をかけた。
「人間、何を泣く……何か悲しいことでもあるのか、この俺にひとつ話してみろ。ひまつぶしに聞いてやる」
少女は泣きながら目を上げた。――赤い。蛇イチゴを思わせる、美しく真っ赤な瞳の人間……そうしてその真っ赤な瞳が、俺を見つめて微笑んだ!
人間と言えば、『畏れと怯えのまなざしで俺を見てくる生き物』だと思い込んでいた当時の俺に、少女の笑顔は衝撃だった。
初めてだった。初めてだったから、独りぼっちで生きていた俺はもうひとたまりもなく恋に落ちた。体じゅうが燃えるようで、こんな想いは五百年生きて初めてだった。
そんな俺の想いに気づかず、少女は切々打ち明けた。「淋しいの、すごく」と。
彼女は人間には珍しい赤い目を、他の子たちに嫌がられると。気味が悪いと言われると。そうして大人も、この自分を遠巻きにして、こそこそ陰口を叩くのだと。
「……親は? きょうだいはどうなのだ、さすがにお前の味方じゃないか?」
「――みんな同じよ、親だってきょうだいだって……『魔物に呪われた子なんだ』って、まともに口もきいてくれない……」
俺は、思わず少女をぎゅっと抱きしめた。少女の白く細い腕が、俺の背中におずおず回り……少女は、声もなく泣き出した。
同じだ、俺と同じだと思った。湖の魔気が凝って生まれ出た、仲間も親もきょうだいもいない、独りぼっちの俺とおんなじ……。
独りぼっちとひとりぼっちが出逢ったから、ふたりぼっちになろうと想った。俺は少女が欲しいと正式に村に申し入れ、『神への生け贄』という名目で少女を嫁にもらい受け、湖底の城で一緒に暮らした。
百年近く一緒に暮らし、俺からすれば少女はみるまに老いてきた。赤い目をした我が妻は、しわくちゃになって枯れるように弱っていって、いまわのきわにベッドの上で訴えた。
「……また、逢いに来てもいい? いつかまた赤い目で生まれ変わって、また嫁になりに来てもいい……?」
俺は泣きながらうなずいた。しわしわの手を両手で握って、泣きすぎて鼻水まで流しながらうなずいた。
――だから、千年経った今でも赤い目の妻はそばにいて、蜜がけのナッツなんかをぽりぽり目の前で食べている。
俺のお手製のナッツをつまむ手をとめて、嫁はことさら何でもなさそうにつけたした。
「十日じゃ、たいしたことないでしょ。ちょっと淋しいだろうけど、何てことないでしょ、あたしがいないあいだの百年」
嫁がつぶやいて、ちょっとせき込む……俺があわてて背中をさすると、「大丈夫だよ、大げさだなあ」と軽く俺の手を振りきって、わざと歯をむき出して笑ってみせる。
……今回のこいつは、珍しく病弱に生まれついた。だからこんなことを訊くんだと、痛いくらいに分かるから。
「そうだぞ、何てことはない」と言おうとして、俺は何も言えなかった。そんな嘘など、口が裂けても言えなかった。
……ふた呼吸ぶん考えて、考えてから嫁の小さな肩を、つつみ込むように抱きしめる。
「……どしたの? 何よ、くすぐったいなあ」
「――長生き、してくれ」
照れもてらいも振り捨てて、本音をそのままささやいた。耳もとでしみじみささやいて、肩を抱く手にすがるように力を込める。
「……長生きしてくれ。一日でも……」
嫁がつかのま黙り込んで、俺に思いきりこぶしをくれる。病弱な乙女の手の力はささやかで、何にも痛いことなかったから、俺は黙って苦笑した。
その赤い目が、潤んでいるのが。うさぎみたいに潤んでいるのが分かるから、俺は何にも言えなかった。……俺はそっと妻の肩から手を離し、改めて肩先へぽんと手を置いた。
「……風呂、入るか。洗ってくれるんだろう?」
「――まったく! すけべえな蛇だこと!!」
どこかほっとしたように笑顔で叫ぶ妻のことが、苦しいくらいに愛おしい。
好きだよ、お前が。
人間に疎まれる赤い瞳で、毎回まいかい俺のために、俺と一緒になるために、生まれ変わってくるお前が――、
そう言おうとして、照れくさくってとても言えない。
胸の奥がきゅうっと切なく、苦しいくらいにあたたかい。
俺は潤んだ己の瞳に気づかれまいと、丸窓の外へ目をうつす。……透ける水晶の窓の外、ちらちらひらひら踊るように、小魚たちが群れていた。
そのさまはひどく美しかった。湖面に照り入る日の光が湖底まで落ちて、目に沁みるほど美しかった。
(了)




