古いお屋敷に住んでる没落貴族小説家は、あまりにも恐がりなのでホラーなんか書きたくない
「先生、次の本にはぜひホラーを」
「書きません」
……電話の向こうで、しばし黙り込む僕の担当編集者。いささか不満げな若い声が、電話越しに聴こえてくる。
「先生、なぜそう二の句も告げないタイミングでお断りになられるのです? なるほど、先生のお得意なジャンルは恋愛ものが多いですが……SFもファンタジーもミステリーも手がけられる先生ですから、ここらでひとつ、ホラーにもお手を伸ばされてはと……」
「書きません。ていうか書けません! 何といっても君ね、僕の一番苦手なのは怪異なんです! 恐い話とか全然ダメ! 子どものころに『肝試ししよう!』とか他の友だちが言い出すやいなや、それだけで失神するくらい恐がりだったんですからね!」
「いやいや、でも先生! この世の中に先生くらいホラーを書くのに適した作家はいらっしゃらないと……」
「ああもう、しつこいな君も! 言ったろう、僕は超のつく恐がりだって! 君ねえ、もう一度そんな提案をしてきたら、僕の担当外してくれって編集長に訴えるからね!」
ガチャン。かなり腹に据えかねたらしい担当が、荒々しく受話器を置く音が聴こえてきて、僕はやれやれと息をつく。こちらも受話器を置いた後、いらいらと部屋の中の本棚に目を走らせる。
恋愛もの、ミステリー、ファンタジー、SF……さまざまなジャンルの長編や短編集、たいがいの本はこの僕が書き上げたしろものだ。
僕はしがない没落貴族……血縁の者がさまざまな不幸や事故で命を落とし、今は愛しい妻とふたりで古いだけのお屋敷に住み、文筆で生計を立てている。
しかしあの編集者、よりによってどうして僕にホラーなんか書かせようと思ったんだろう?
「あなた、どうなさったの? 電話の声が何だかいらだっていましたわ……」
「ああ、マリーかい? 入っておいで、夫婦の仲だ、遠慮はいらない……」
僕が笑って扉の向こうに声をかけると、愛しい妻は音も立てずにすうっと扉をすり抜けて、霞のような白い体で部屋の中へと入ってきた。
もやもやとしたぼやけた金髪、時代錯誤な豪華なドレス、その上に奥さんらしく白いエプロンをかけている。
「やあ、担当のやつ何でか僕にホラーを書けとか言ってきてねえ……僕は恐がりだってさんざん言ってやったんだが、なかなか納得してくれなくて!」
「……それは……そうでしょうねえ……」
「ん? どうしてだい?」
「だってあなた、わたくしは……わたくしのことは恐くはありませんの?」
「どうして? こんな優しい、美しい、僕にはもったいないくらい素晴らしい奥さんのことが恐いだなんて、そんなことあるわけないじゃないか!」
心の底からそう言うと、妻はとろけるような微笑を浮かべた。甘く愛らしいその笑顔、幽霊と言うよりもむしろ天使を思わせる。
そう、彼女は幽霊……三百年前にこの屋敷で命を落とした、病弱な美少女の幽霊だ。
だけど、何を恐がることがある? 僕が小さいころからの友人で、あんまりにも優しく愛らしく素敵な彼女に恋をして、今はこのとおり夫婦なんだ! 愛しさを感じこそすれ、恐ろしく思うなんてとんでもない!
だけど世の中おかしなもので、僕の友人や知り合いはこの屋敷に来たがらない。たまに用事があってこの屋敷を訪れても、彼女が透ける体で扉をすり抜けあいさつすると、椅子から飛び上がらんばかり驚いて逃げるように帰ってしまう。
不思議なやつら! こんなに可愛い奥さんに対して、『幽霊だから恐い』とでも思っているのか? 人間の中でタチの悪いやつらの方が、よっぽど恐ろしいじゃないか!
「あなた、お茶をお飲みになります? このあいだ出版社の方からいただいた焼き菓子が、まだ戸棚に入っていますわ……」
「ああ、お願いしたいな。あ、扉は開けて入っておいでよ……君は扉を抜けられても、お茶とお茶菓子はすり抜けられずに盛大にぶつかっちゃうからね!」
「もう、あなた! 今さらそんな初歩的な失敗はしませんわ!」
僕の軽口におかしそうにころころ笑って、妻はすべるように扉を抜けて出ていった。その後ろ姿を見送って、僕はふっとあることを思いつく。
「……そうか、幽霊の恋人や奥さんの話を書いても『ホラー』になるか……そうかそうか、あの担当そういうことを言いたかったのか……」
僕はひとしきり納得しながら、おもむろに紙とペンを取り出した。
今回の仕事はわりに簡単だ、僕と妻の話を書けばそれで話になるんだから。いわゆる『私小説ホラー』というやつだろうか……そんなジャンルあるかは知らんが。
僕は口もとへ笑みを浮かべて、『私小説ホラー』の最初の一語を書き出した。
一月後、書き上げた原稿の束にざらっと目を通し、担当編集は「まあ、良い話です」とコメントした。反応が少し物足りなくて、僕はさりげなく聞いてみる。
「……どうだい? こいつはなかなかのホラーだろう」
「ホラーじゃないです。これはふつうに純愛ものです」
一刀両断で否定された。むすっと黙り込む僕の背後で、ぎいっと軋んで扉が開いた。
お茶とお茶菓子を運んできた奥さんに、今日は担当は「用事があるので、おいとまさせていただきます!」と椅子から飛び上がりはしなかった。
「いただきます」とお茶をゆっくり口に含んで、穏やかな笑みをほおに浮かべた。
「断じてホラーではないですが……奥様を見る目が、変わりましたよ」
そう言って彼女に微笑みかける担当に、僕は太ーいクギをさす。
「どれだけ見る目が変わってもね! この娘は人妻だからね! この僕の奥さんだからね、君!!」
「いやいや、そういう意味で言ったわけでは……!!」
僕と担当のやりとりに、妻がぷはっと吹き出した。つられて僕も笑ってしまう。担当もからから笑い出して……、
この日のお茶は、いつもと同じお茶のはずだが、いつもよりずっと美味しく感じる。焼き菓子に手を伸ばしつつ、担当は妙に遠慮がちに訊ねかける。
「……しかし、あまりに突っ込んだ質問で恐縮ですが……『寿命の問題』があるでしょう? その……先生がこの先お歳で亡くなられたら、奥様はその後、このお屋敷で……」
「いやあ、心配には及ばないよ! 僕はこの屋敷の奥さんに、これでもかと『気をのこして』死ぬだろうから、幽霊になる条件としては十分だ! 僕も死んだら幽霊になって、この屋敷で暮らすとするよ!」
「……そうしてもし、このお屋敷に取り壊しの話でも持ち上がったら、その時はわたくしと夫とふたりで『本当の怪異』となり果てて……取り壊しに来た方々を思いきり脅かして、追い返してみせますわ……!」
担当は菓子に伸ばした手を引っ込めて、もう一度原稿の束を取り出した。
「先生。このお話、結末を書き直してくださいませんか? 今のエピソードを話にそのまま盛り込みましょう……もっと良い物語になりますよ!」
「――おお! それは良いな、書いていても楽しそうだ……!!」
僕はテーブルに身を乗り出し、書き上げた原稿をのぞき込む。いつもなら控えめな奥さんも、少し身をかたむけて朱を入れられる様子をうかがう。
昼も夜もかまわずに出る奥さんのほおに、暮れかけた日のオレンジ色がさしかかり、幻みたいに美しい。
古い古い屋敷の中で、薄暗い部屋にアールグレイの高貴な香りがただよって……これから長く住まうであろう屋敷の中で、僕らは確かに幸せだった。
(了)




