わたしの救い主(メシア)
「食ってやろうか、小娘」
出逢って初めてかけられたのは、歯をむき出してのひと言だった。
「お前、奴隷か何かだろう。ぼろぼろのはだしに黄ばんだ服……さては苦役に耐えかねて、命がけで逃げ出したか……薄汚いし瘦せているが、腹の足しにはなるだろう……両手からいくか、両足からか……」
そう言って笑う人外に、わたしはにっこり笑いかけた。
「――救い主ね!」
「――…………は?」
「だってそうよ、わたしの救い主よ! あなた、わたしを食べてくれるの? この苦しみだらけの世界から、わたしを救ってくれるのね? そうしてとっくの昔に亡くなった奴隷のパパとママのところへ……天上へ行かしてくれるのね?」
息もつかずにまくしたてると、人外のお兄さんは広げた黒い翼をすぼめ、ひるんだような表情をした。金色の角ごと長い首をすぼませて、大きな口をきゅうっと閉じる。
「やめた」
「え?」
「今は食わない、もう決めた。だいたいお前、汚すぎるぞ! その泥足と黒い爪、これじゃあとても食えはせん! 腹を壊すのは確実だ! おいお前、俺と一緒に来い! 湖で洗ってやるからな!」
そう言うとばあっと大きく翼を広げ、次の瞬間――わたしは空を飛んでいた。お兄さんがわたしを抱えて飛び立ったのだ。青いあおい空のまんなか、わたしは歓声を上げていた。
「すごい! すごい! 天使になったみたいだわ!!」
お兄さんは「やかましい」と言いながら、何だかその声がはにかんでいるみたいだった。どうして良いか分からないような、分からないけど嬉しいような、そんな複雑な声だった。
湖について、お兄さんは水をかけてわたしの体を洗ってくれた。ぼろぼろの服を脱がせて体を洗う時、彼はちょっぴり顔を赤らめたような気がした。
「ほら、服を着ろ。そのうち草木の繊維でもって服を作って、新しいのを着せてやる」
「……食べるんじゃないの? 洗ったら食べてくれるって、あなたはそう言ったじゃない」
「――やめた。だいたいお前、よく見たらあんまり痩せすぎだ。いいか小娘、これから俺が食わしてやる。野生の果物でも木の実でも、たまにはシカやイノシシだってしとめてやる……だからお前、食って太れ。美味そうにまるまる太ったら、その時食ってやるからな」
「うん! はやく私を太らして、美味しく食べてね、救い主さん!」
単純にはしゃいでそう言うと、彼は大きな口を歪めて微笑んだ。何だかどこかが痛んだような、苦いものでも食べたような微笑みだった。
わたしはそれでも満足して、満ちたりた気持ちで空を眺めた。白いしろい真昼の月が、青い空にかかっていた。
* * *
彼はわたしを食べなかった。何やかんやと理由をつけて、指一本もその口で食してはくれなかった。
「もっと太れ。美味そうにまるまる太ったら、その時がつがつ食べてやる」
彼は毎日そう言いながら、決して無理やり食べさせようとはしなかった。わたしはどうも『小食』という部類みたいで、彼のさし出す木の実や果物、焼いたり煮たりした獣の肉を、そんなにたくさんは食べられなかった。
今は心が満たされているから、体の栄養はそんなに要らないのかもしれない。
彼は少しずつ育ってゆく少女のわたしを、優しい目つきで眺めていた。「大きくなったな。……美しくなった」と言う彼に、わたしは答えた。
「あら、美しくなったって、美味しさには関係ないわ。わたし、はやくあなたに食べてほしいのよ」
そう言うと、彼は何だか傷ついたような表情をした。それからあわてて「そうだな」と言ってうなずく顔に、わたしは何だか知らぬまま、すごく悪いことを言ったような気になった。
でもその理由が分からないから、あやまることも出来なかった。
いつからか彼は少しずつ、自分の生い立ちを語ってくれた。
「俺は生まれつきひとりでな。気がつけばこの湖から生まれ出で、ひとりぼっちで生きていた。おそらく湖に充満する魔気が凝って、何となく生まれたんだろう……大きな木のうろ、今お前といるこの場所で、俺はずうっとひとりだった」
「……淋しくなかった?」
「なに、今はお前がいるから……」
彼は何か言いかけて、ふっといきなり口をつぐんだ。大きな口を引き結んで、かえるみたい、とわたしは思った。
「……お前の生い立ちは、俺に話してくれんのか」
「わたしー? わたしは代々奴隷だもの、おじいちゃんもおばあちゃんも、パパもママもみーんな奴隷! みーんなお役目が辛くてつらくて、子どもを遺して若死にしちゃった! わたしもそうなるはずだったけど、今はこうしてここにいるのよ。話はそれだけ、それっきり!」
そう言ってからから笑ってみせると、彼は何だかますます辛そうな顔をした。ああ、よく分からないけど悪かった、何だか悪いことを言った……そう思ったけど、やっぱり理由が分からないから、わたしはなんにも言えなかった。
……彼が黙って、わたしのそばに近づいた。声もなくただ顔を寄せて、すがるようにわたしにそっと口づけた。声なしで彼が何か、甘くつぶやいたようだった。何を言ったかは分からなかった。
その晩、わたしは居心地の良い木のうろで、優しく柔く彼に抱かれた。それから毎晩、彼に抱かれた。やがてわたしのお腹に、新しい命が宿った時、そのことを知ったその時に、彼は微笑ってわたしのお腹を優しく撫でた。
「計算どおりだ。おいお前、女でも男でも良い、はやくこの世に生まれて来いよ。そうしたらお前の母と一緒に、俺が美味しく食べてやる。早く出て来いよ、なあ俺の美味しいごちそうよ……」
そう言いながら微笑いながら、彼はわたしのお腹を撫でた。優しいやさしい、父のような手つきだった。
* * *
彼はわたしを食べなかった。わたしも子どもも食べなかった。
わたしと彼は子どもを育て、やがて手狭になった木のうろのそばに、子どもたちと力を合わせて小さな小屋をこしらえた。
子どもはやがて大きくなり、子どもどうしで結婚し、孫が生まれた。ひ孫が生まれた。老いることのない彼はいつか出逢ったお兄さんの姿のままで、満足そうに笑っていた。
「ははは、そうだ。どんどん増えろ、お前たち……食う分が増える、どんどん増える。いつ食おうかな、楽しみだ……」
そう言って笑う彼の翼に、昔のような艶がない。金色の角もその美しさを少し減じて、赤い目の下にうっすらと刻まれた暗いくま……、
「いつ食べるの」
つぶやくようなわたしの問いに、彼は聞こえないふりをした。ただただ黙って微笑っていた。
……彼が倒れた。いつかと同じ若いわかい姿のままで、彼はベッドに物も言わずに横たわり、微笑いながら眠っていた。
分かっていた。わたしにも痛いほど分かっていた。彼の『病』は飢餓のためだ。彼は本来、人を食らう人外だから……長年の『絶食』に耐えきれず、今倒れ伏して眠っているのだ。
「食べてください」
ようやく目覚めた夫に向かい、しわだらけの手で自分を指さし、年老いたわたしは希う。
「子や孫を食うのが忍びないならば、このわたしを食らってください。どのみちわたしはこんなに齢だし、もうじき老いて死ぬ運命……食べてください……そうして生きて、あなたは長くながく生きて……」
「馬鹿を、言うな」
夫はふっと微笑んで、目を閉じながらささやいた。
「食えるものかよ。……こんな、しわくちゃのばあさんなど……食っても、美味くはないだろう……」
そうつぶやいてふふっと微笑って、長くながく息を吐いて……それきりだった。彼はもう、微笑いも泣きもしてくれない。白い肌から血の気が抜けて、少しずつ青白くなってゆく。
……温かみの失せてゆく手のひらを握ったままで、わたしは声もなく微笑いだした。
ああ。とうとう最期まで、憎まれ口ばっかりだった。
とうとう、とうとう最期まで、「愛してる」とはひと言も言ってくれなかった。
でも、分かっている。分かっているのよ、あなたが誰より何よりも、家族を――わたしを、愛していたこと。
視界が見る間にうるうる潤み、塩辛い水があふれ出す。ぽつっと涙の落ちたほおに、わたしの涙に、彼が何だかくすぐったがっているみたいだった。
子どもも孫も、誰も部屋には入ってこない。扉の向こうで、ひそかなすすり泣きが聞こえる。
気を使ってくれてるんだわ、お別れを邪魔しないように……感謝しながらわたしは泣いた。泣いて泣いて泣き続けて、意識がだんだんぼんやりしてきた。
ああ、このまま死んでも良い。死んでもいいわ……そう思いながら目を閉じて、彼の胸もとへ倒れこむ。肩を優しく抱かれて、びっくりして目を開くと、彼が目を開けて微笑っていた。
つやつやの金色の角、血色の良い肌、ベリーのように赤い瞳……驚きに声も出ないわたしに、彼は優しく口づけた。
「さあ、行こうか」
「ど……どこへ?」
「人を食わんでいい場所へ。木の実も果物もシカもイノシシも食わんで良い、花の蜜から出来た酒を飲んで暮らせる場所へ……」
――天上へ。彼はそう言ってとろけるようにはにかんで、もう一度わたしに口づけた。握られたわたしの両の手は、もうしわもしみも見当たらない、つるんと白い肌をしていた。ひたいから垂れ落ちたわたしの髪ももう白くなく、少女そのままの栗色だった。
わたしのほおへ手をかけて、彼は冗談半分に「美味そうだな」とつぶやいた。
「愛しているよ……愛していた……」
彼はそう耳もとでささやいて、わたしを抱いて舞い上がった。白いしろい大きな翼で、わたしを抱いて飛び立った。
「すごい! すごい! 天使になったみたいだわ!!」
彼は「まったく、やかましい」と言いながら、その声がはにかんでいるみたいだった。いつかと同じように飛び立ち、いつかよりもっと幸せな気持ちで、彼とわたしはどこまでもどこまでも舞い上がり、天を目指して舞い上がり……、
……口もとへ微笑をたたえたふたりの亡骸に、白い羽根が舞い落ちた。
(了)




